TNN(田中宇の国際ニュース解説) 他の記事を読む

ジンバブエ:煽られる人種対立

2000年5月1日   田中 宇

 記事の無料メール配信

 ジンバブエはアフリカ南部の内陸国で、南アフリカの北、コンゴの南にある。この国はかつて、アフリカ有数の安定した国だった。現在まで大統領を務めているロバート・ムガベは、アフリカで最も希望が持てる指導者の一人といわれていた。

 ジンバブエは今から110年ほど前、イギリスによる支配が始まった。その後、植民してきたイギリス人ら白人は、もともと住んでいた黒人から肥沃な土地を奪い、タバコ栽培や牧畜を行う農場にした。人口のほとんどは黒人であるため、独立して黒人中心の国を作る運動が1960年代に起きた。宗主国イギリスは黒人国家の独立を認めようとしたが、農場を経営する地元の白人たちは武装して政権を手放さず、1965年に独立宣言をして「ローデシア」を建国した。

 周辺国は次々と黒人国家として独立する中で遅れを取ったわけだが、それが後になってプラスに働いた。周辺国のうち、農場主や行政官だった白人を独立時に追い出したところは、独立後の政府が未経験なため、政策で失敗する場合が多かった。反対に少数派の白人政権が黒人を弾圧し続けた南アフリカは、冷戦後になって白人が政権を手放さざるを得なくなった。

 ジンバブエも1979年までの14年間は白人政権が続き、アパルトヘイト同様、黒人は抑圧されていたが、この間ゲリラ戦闘を続けていた黒人勢力は、イギリスの支援もあって、白人を追い出さないことを条件に政権を譲り受け、国名を「ローデシア」から「ジンバブエ」に変え、改めて黒人中心の国として独立した。この時の指導者の一人がムガベで、その後20年間、実質的に最高権力者の座を維持してきた。

 人口1200万人のジンバブエで、白人は1%以下の7万人しかいないが、農地の6割は今も白人の農場で、黒人就労人口の1割を白人農園が雇用している。白人の農場を没収しなかったことで、独立後もタバコを中心とする農産物の輸出を順調に続けることができた。ジンバブエは、アフリカで黒人と白人が和合している数少ない国の一つで、隣の南アフリカがアパルトヘイトから脱却するためのモデルと考えられていた。

▼権力を守るため人種対立を煽る

 ところが最近ジンバブエでは、この特長が新たな対立の火種となっている。かつて模範的な指導者といわれたムガベの政策は今や失敗し、経済は破綻したが、それを批判する国民の目を他にそらすため、白人と黒人の対立をことさらに煽り、白人農園主が何人も殺されることになった。国家運営に失敗したら、民族対立や地域格差を煽って政治生命を維持するという、指導者の「定石」が展開されている。

 ジンバブエは独立時の取り決めで、白人農園主から政府が土地を市場価格で買い取り、それを黒人の貧しい人々に再分配する計画だった。だが独立後、数年間の好景気時代が過ぎると、鉱物資源の相場が下がったり、政治家の人気取りのための無理な建設事業を続けたりしたため、財政が悪化し、白人から土地を買う予算がなくなってしまった。

 政策のまずさを野党などから批判され出した1990年、ムガベは批判をかわすため、白人から黒人への農地の移転を加速すると表明し、イギリスやアメリカ、国際機関などから資金を借り、白人の農場を政府が購入して黒人に分配した。

 ちょうど冷戦が終わり、英米は世界的な「市場原理」の導入を画策しはじめたときで、タバコなど輸出作物を作る黒人の農園経営者を育成するというムガベの政策が、援助を得るうまい口上となった。

 だが、土地の配分を受けた黒人農民の多くは、輸出できる水準の作物を作るにはどうしたらいいか、という営農技術を何も教えてもらえないまま、土地だけ与えられたため、土地利用の効率は下がった。農民自身が消費する作物を作るだけの土地が増え、農産物の輸出が減ることになった。

 その後、優先的に土地の分配を受けた人の多くが、ムガベ大統領や政府高官の親族や関係者だったことが新聞で暴露された。これを機にイギリスなどは、ムガベ政権が白人の土地を買うための資金の融資を渋り出した。

▼生活水準は独立前より下がった

 窮したムガベ大統領は「イギリスの植民地となり、黒人が先祖代々耕してきた農地を白人に奪われたとき、黒人は何の補償も受けられなかった。だから今、白人が独占する農地を没収して黒人に返しても、ジンバブエ政府は何も補償する義務はない。白人が補償を求めるとしたら、その相手はイギリス政府になるはずだ」という主張を始めた。

 この問題は、ジンバブエの独立が承認された際、ムガベを指導者とする黒人勢力と、白人農場主の勢力、イギリス政府の三者間で、独立後に白人が所有する農場を没収せず、市場価格で買い取るという合意ができていた。それに反する主張だったため、英米はジンバブエに対する支援を打ち切った。

 1997年には、国際金融危機の影響でジンバブエの通貨も急落して外貨が底をつき、ムガベはIMFに支援を求めたが、土地問題での譲歩を拒否したため、断られた。外貨の裏付けがないままお札を刷り続けたのでインフレがひどくなり、失業率も7割に達した。国民の平均所得は、20年前の独立当時より3割も下がってしまった。

 1999年後半、ムガベは憲法の改訂を提案した。「政府は白人の土地を没収できる」という条項を加えることが改訂の主眼だと宣伝されたが、本当の目的は別のところにあった。改憲には、大統領経験者が一生逮捕されない権利など、自らの権力を強化する項目が、いくつも盛り込まれていた。

 ジンバブエの政治は、ムガベ大統領が率いる与党「ZANU−PF」(アフリカ人民同盟)が圧倒的に強く、150議席の国会で野党「MDC」の議席はわずか3つである。政策の失敗で国民の不満が高まっていることを感じたムガベは、自らの勢力が強いうちに憲法改訂を行い、権力を維持できる仕組みを作りたいと考えたのだろう。

 ところが、2000年2月の国民投票で、憲法改訂は55%の反対で拒否されてしまった。国民は、土地を配分するというムガベの約束を、もはや信じなくなっていた。農村にはムガベの支持者が多いのだが、農村での投票率は25%と低く、棄権することでムガベ政権を拒否する姿勢を見せた。

▼暴徒と化した独立戦争の英雄たち

 投票結果が判明した後、ムガベはテレビで敗北宣言をしたが、実はその裏で、次の策略が始まっていた。この後、黒人の農民たちが白人農場に押し掛けて占拠する事件が頻発したのである。

 全ての白人農場の25%にあたる約1000ヵ所の農場に、黒人農民が押し掛けたが、群集を率いていたのは、白人政権時代の1970年代にゲリラ戦に参加していた黒人たち、つまり独立戦争の英雄たちだった。彼らの登場には、テレビニュースを見る国民に「黒人国家ができたときの感動を思い起こし、白人の植民地主義者を追放しよう」という民族主義を煽るムガベの意図が見えていた。

 彼らは自発的に農場を襲ったと見せかけていたが、乗ってきたトラックは与党の所有だったし、農場内に居座った後で食料を配りにきたのは軍のトラックだった。白人の農場主の多くはムガベの陰謀を感じ取り、抵抗せずに黒人たちを農場内に入れたため、最初は衝突が回避された。

 だが、最初はクワや棒しか持っていなかった黒人農民たちの中に、何週間かすると銃を持った人々が混じるようになった。2月末に始まった農場占拠は、4月になって各地で殺傷事件に発展し、十数人の白人が殺されるに至った。

 ジンバブエでは国会議員の任期切れが近く、8月までに選挙を実施しなければならないが、その際に野党の「MDC」が躍進する可能性が高まっている。MDCは黒人の労働組合指導者が率いているが、白人からも支持される「反ムガベ統一戦線」となっており、襲撃された農場の多くは、MDC支持を表明する白人が経営していた。

 問題が白人対黒人という人種対立であるため、第三者が仲介することが難しい。宗主国イギリスの仲介は、他のアフリカ諸国から「白人を擁護し、植民地主義の復活を狙うものだ」との反発を受けかねない。隣国の南アフリカも仲介する姿勢を見せているが、南アフリカ自身にも黒人と白人の対立があり、下手に手を出すと自国の内政問題に飛び火しかねない。

 ジンバブエでは今、若者の25%がエイズウィルス(HIV)に感染していると概算されている。与党が対立を煽るまでは人種対立は目立たなかったため、人々の多くは白人への敵意より、混乱がおさまって安らかに暮らせることを望んでいると思われる。

 いずれMDCが政権を取り、ムガベが失脚する可能性も出ているが、野党に代わったからといって、政治経済の混乱がおさまるとは限らない。隣国のザンビアでも、1991年の選挙で独裁的な現職大統領が敗れ、労働組合の指導者が率いる野党が政権を取ったが、数年たつと新政権も失政と腐敗が明らかになり、人々の暮らしは良くなっていない。このあたりにも、アフリカの構造的な難しさがあると感じられる。


●田中宇が書いたアフリカの記事

●日本語の関連サイト

●参考になった英文記事など



田中宇の国際ニュース解説・メインページへ