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第2の光復(3)台湾人の独立精神

2000年4月10日   田中 宇

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 この記事は「台湾・第2の光復(2)日本の統治を考える」の続編です。

 台湾の農民の多くは、17世紀以降に大陸の福建省から移住してきた開拓民である。南部の台南の周辺から、だんだんと北に向かって開拓が進んだ。開拓農民は、故郷の福建での貧しい生活を捨て、豊かになろうと海を渡って台湾に入植し、ようやく土地を手にした人々だ。自ら人生を切り開いた経験から、自主独立の機運が強い。

 大陸からの移民は開拓に際し、古代から台湾に住んでいたマレー・ポリネシア系先住民族の土地を奪っている。アメリカ開拓史の背後に、欧州出身者が先住民(インディアン)を殺して土地を奪った史実があるように、台湾の「開拓」も、先住民にとっては「侵略」である。

 台湾の先住民の抗議は今も続いているのだが、その問題は改めて考えることにして、ここでは台湾の農民が、開拓民としての起源を持つがゆえに、自主独立の気持ちを強く持っていたということに視点を置く。

▼清朝時代から繰り返された反乱

 彼らは日本支配以前、清国による支配の時代から、大陸からきた役人の腐敗や増税に反発して、数年に一度、蜂起を起こしていた。大陸時代の故郷が同じ人々どうしのつながりなど、地域をこえた互助会組織や結社がいくつも作られていたから、島内のどこかで蜂起が起きると、数日間のうちに台湾各地に広がることが多かった。(「黒社会」と呼ばれる台湾の暴力団組織の結束は、この互助会を歴史的ベースにしている)

 このような伝統の中にやってきた日本は、清朝に代わる外来の支配者であった。清朝は漢民族の王朝ではないという点で、漢民族主体の台湾開拓民の反感をかいやすかったが、日本人は中国の歴史上「野蛮な海賊」として認識されてきたので、清朝よりさらに反感を抱かれる傾向が強かった。

 大陸から赴任してきていた清国の高官が大陸へ逃げ帰り、大陸にも財産を貯めていた台北の地元有力者たちも逃げてしまい「台湾民主国」は崩壊した。だが、残された人々はその後で、絶望的な戦いを日本軍に挑み続けた。

 住民の抵抗は、大都市より農村で激しかった。大都市は清朝の傭兵によって守られていたので、兵士には決死の戦闘意欲がなかったが、農村では自分たちの土地を守るという意識の強い人々が、決死の覚悟で立ち向かってきた。

 人々の抵抗意識の強さに応じるかたちで、清朝から派遣されていた将軍、劉永福は、台北から台南に拠点を移し、他の高官たちが逃げた後も台湾に残り、台南で「台湾民主国」の政府を再編成した。この政府組織は、日本軍が台湾全土を掌握するまでの4カ月間、存続したが、フランスその他の海外諸国で「台湾民主国」を承認した国はなかった。

▼1万4千人を殺した日本軍

 日本は台北に総督府を置いた後、南部に向かって西海岸を進軍したが、日本軍は規律の面でも台湾人の反感をかった。

 たとえば、日本軍が台湾中部の大甫林(甫にはクサカンムリがつく)という町を占領したときのこと。地元の有力者は日本軍の幹部たちのために豚を屠殺して料理を作り、もてなしたが、軍幹部たちは兵士の性欲のために女性200人を用意せよと町の有力者に要求し、断られると有力者の妻子を拉致して暴行した。その行為に有力者は怒り、抗日部隊を組織するに至ったと伝えられている。

 「民軍」は各地で個別に組織された。女性たちも戦闘に加わり、日本の参謀本部の記録には「台湾人のほとんど全員が兵隊になったように見える」という趣旨の記述がある。こうした民軍の一つが、蜂起に際して自分の息子を殺して食べた呉得福の組織だった。

 だが彼らは武装組織とはいえ、銃器の多くは猟銃などで、近代装備を持つ日本軍にかなうはずがなかった。日本軍が台湾全土を制圧したのは、最初に上陸してから5カ月後の1895年(明治28年)10月だったが、それまでの戦闘で1万4000人の台湾人が殺された。一方、日本軍の戦死者は300人弱だった。

 日本の敗戦後、国民党が独裁政治を始めるにあたって行った1947年の大弾圧「228事件」は、台湾人が今も恨みに思っている事件だが、その時に殺された人は5千−1万人と言われている。日本軍は「善政」といわれる台湾統治を始めるにあたって、それより多い人数を殺していることになる。

 このような経緯を見れば、「日本は台湾で善政をした」という主張は、日本人どうしの会話の中では許されるとしても、日本人が台湾人に向かって言うべき言葉としては、失礼にあたる。真の「愛国者」とは、思想の右左にかかわらず、自分の国を愛するだけでなく、他の国の人の愛国心も尊重できる人であろう。

▼後藤新平の善政は何のため?

 台湾の人々の独立心は、日本統治が始まってかなり経ってからも続いていた。その象徴は、日本の統治開始から35年後の1930年(昭和5年)に起きた「霧社事件」である。台湾中央部の山岳地帯の村、霧社で開かれた地域の運動会の会場を、先住民族(アタイヤル族)の武装組織が襲撃し、日本人だけを選び出して100人あまりを殺害した。

 台湾総督府は先住民に対する同化政策を続けており、霧社はそのモデル地区であったが、先住民の人々は表向きは同化政策を受け入れるように見せて、実は総督府に対する憎しみを持ち続けていたことが、この事件からうかがえる。

 そもそも、台湾総督府で「善政」を行ったとされる後藤新平の政策も、台湾人のために行ったのではなく、台湾で日本がより多くの収益を挙げるために行ったことである。

▼鄭成功に始まる台湾独立

 日本軍が台湾を占領するにあたって、台北など北部地方での抵抗より、高雄や台南など南部地方における抵抗の方が激しかったことは、「鄭成功」に由来する部分があると思われる。鄭成功は日本では、江戸時代の作家である近松門左衛門が、南海貿易の密輸商人に取材して書いた人形浄瑠璃「国性爺合戦」の主人公「和藤内三官」として知られている。

 鄭成功は17世紀、台湾南部を拠点に中国の沿岸部を荒らしていた海賊の親分で、日本が鎖国を始める直前の時代に、中国福建省出身の海賊だった父(鄭芝龍)と、日本の九州・平戸の武家の娘(田川マツ)との間に生まれている。当時の九州と琉球、台湾、福建などとの間は、海賊とも商人とも呼べる人々が行き交っていた。

 鄭成功は、台湾を拠点にして中国の明王朝を再興しようとした。明は、満州から攻め込んできた清王朝に圧されて崩壊したが、その前に鄭成功に王朝の復興を依頼した。北方の王朝である清は、海軍力が弱かった。半面、明は揚子江より南を拠点とする南方(江南)の王朝であり、南海に遠征艦隊を派遣するなど、海との縁が深かった。そのため明は、海軍力で清に反攻しようと、鄭芝龍・鄭成功父子に頼った。

 このころ台湾南部は、今の台南を中心にオランダが植民地化を進めていた。一帯には、福建省から海峡を渡ってきた開拓民たちが住み始めていた。開拓民は1652年、オランダによる小作料の徴収に反発して一揆を起こしたが、その背後にいたのが鄭芝龍だった。その後、鄭芝龍は清朝によって殺されるが、鄭成功は海軍を率いて台南にあったオランダの砦を攻め落とし、台湾に明朝復興の拠点を作った。

 中国の人々の大多数は漢民族であり、明は漢民族の王朝だったが、清は外来の満州族の王朝である。そのため明朝復興は、漢民族が中国の自治を取り戻すという「大義」もあり、開拓民の中には鄭成功を支持した人が多かった。

 鄭氏の拠点は約30年後、清の軍隊に攻められて陥落するが、その後も「鄭成功」と「明朝復興」の合言葉は台湾の開拓民の間に残り、清朝時代を通じて反乱が起きるたびに「明朝復興」が叫ばれた。「鄭成功」は、台湾の暴力団(黒社会)の人々には、任侠道の原点として認識されている。

▼350年に3回の独立宣言

 台南に作られた鄭成功の拠点は、台湾の最初の独立国であったといえるが、それが台湾南部で作られたため、その後も南部は台湾独立の意志が強かった。日本が台湾を統治し始めた時に、南部で反日民軍が強かったのもその流れであるし、最近では野党の民進党が最初に勢力を伸ばしたのが、南部の高雄市であった。

 台湾の「独立宣言」は、17世紀の鄭成功の時が最初で、2回目が1895年の日本占領時の「台湾民主国」、そして3回目は1947年に「228事件」が起きた直後に台湾各地で発せられた自治要求である。いずれも、前の外来為政者が去った後に独立要求が出され、新しい外来為政者によって弾圧されて終わっている。

 その意味で、先の総統選挙で民進党の陳水扁が勝ち、国民党が敗れたことは、台湾人の4回目の「独立」の意思表示とも思える。いや、「独立宣言したらミサイル攻撃する」と叫んでいる海峡対岸の軍事勢力を考慮して「独立」と呼ぶのは避けた方がいいかもしれない。

 だが、どんな呼び方にせよ、鄭成功以来の350年の台湾の歴史をみれば、台湾人の意志がどこに向かっているかは明らかだろう。



●前編

・台湾・第2の光復(1)親日の謎を解く紀念館

・台湾・第2の光復(2)日本の統治を考える」

●参考図書

▼南海の風雲児・鄭成功 (伴野朗、講談社)



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