台湾・第2の光復(2)日本の統治を考える2000年4月6日 田中 宇この記事の前編「第2の光復(1)親日の謎を解く紀念館」を書いたとき、今回の(2)は、先の台湾総統選挙で民進党の陳水扁が当選し、50年間独裁的な与党の座にあった国民党がどうなるか、ということや、国民党と一緒に中国大陸から台湾に渡ってきた「外省人」の人々が、今後どのような立場に置かれることになるのかについて論じようと考えていた。 だが(1)を書いた後に、日本人の読者の方々から10通ほど、同一の傾向を持ったご批判の電子メールをいただき、現在や将来について考える前に、過去について考えておく必要があると思った。 いただいたメールの傾向とは「台湾の人々が親日なのは、日本が台湾を統治していたときに善政を行い、台湾の発展の基礎を作ったからであり、日本人が良いことをしたからだ。あなたはなぜ、その事実を認めず、わざわざ‘台湾人は中国が台湾とは別の存在であると主張するために、日本支配を肯定的にとらえている’という、ひねくれた見方をするのか。そのような、戦後の日本の左翼にありがちな懺悔主義(朝日新聞・岩波書店流の歴史観)は、もういい加減にせよ」という主張だった。 「あなたは後藤新平の台湾統治時の功績を知らないのか」という指摘もあった。後藤新平とは、明治30年代に日本の台湾総督府の民生長官をつとめ、台湾における衛生事情の改善や、製糖業などの産業整備、交通や鉄道の建設などを進めた人物である。 ▼右からは「極左」、左からは「極右」 半年ほど前に台湾のことを書いた際は、中国(中華人民共和国)の方々から「台湾の人々が親日などというのはウソだ。日本人は台湾を独立させて再び日本の支配下に置きたいから、台湾の人が親日だとでっちあげようとしている」という趣旨の、日本語と中国語のメールが、やはり10通ほど届いた。日本語学習の成果なのか、「馬鹿野郎」と書いてこられた方もいらっしゃった。 半年前といえば、台湾の李登輝総統が「台湾と中国は、特殊な国と国との関係だ」と主張する「二国論」を発表して間もないころだ。中国国内では、台湾の独立傾向を強める「親日派」の李登輝氏を攻撃する論調が強まっていたから、私が台湾取材で体験した人々の親日さについて書いたことに、中国の方々は反感を覚えたのではないかと思われる。 今回は、そういった中国の方々からのご批判は皆無だったが、代わりに届いたのが、日本の方々からのご批判メールであった。 台湾をテーマにしているネット上の掲示板によく書き込みをするという台湾在住のある日本人の方は、「台湾について日ごろ感じていることを書くと、日本の右派からは‘極左’のレッテルを貼られ、左派からは‘帝国主義者、極右’と非難されるので困ります」と言っていたが、それに似ている。 当の台湾の方々からは「台湾についていろいろ報じてくれてありがとう」という趣旨のメールを、半年前も今回も、それぞれ10通ほどいただいている。「親日」問題についてのご批判は、今日までのところ届いていない。 台湾人の意向を無視して、日本人と中国人が自らの視点でのみ台湾論を語る・・・。私の元に届いたメールの傾向はまさに、台湾が置かれてきた歴史を物語っていると感じるのだが、こんな風に書くと、また日中双方の「愛国者」の方々から、ご批判をいただくのだろうか。 ▼わが子を殺して玉砕戦にのぞむ 私が日本の台湾統治を考える際、外すことのできない一つの歴史的な光景がある。呉得福という人物が、自分の子供を殺したときのことである。 日清戦争で日本が中国(清国)に勝ち、台湾を割譲させてから3か月後の1895年(明治28年)8月、呉得福を指導者とする民衆が「民軍」を結成して日本軍に立ち向かい、台北を襲撃した。民軍は全滅したのだが、決起に先立ち、呉得福は5歳になる自分の息子を殺し、その血や肉を、仲間とともに食らったという。 軍事力で圧倒的な差がある日本軍に対して、絶望的な玉砕戦を挑むにあたり、指導者として「もう生きて戻ってこない」という決意を人々に示すため、最愛のわが子を殺して食べるという「鬼」のような行為を行った。「もう自分は人間ではない。鬼である」という決意を、人々にも共有させるため、子供の肉を仲間たちにも食べさせたのだった。 現代の人権意識からすれば「どんな理由があれ、子供を殺す権利などない」という「ご批判」が届きそうだが、ここではむしろ、なぜ呉得福に象徴される台湾の人々がそこまで決意して日本軍に対抗したのか、ということに焦点を当てて考えたい。 ▼有力者から庶民までが割譲に憤慨 清国に統治されていた時代の台湾には、いくつかの階級の人々がいた。一番上にいたのは、清国政府が台湾を統治するために任命した知事(巡撫)や将軍、そして将軍が大陸から率いてきた軍隊の兵士たちだった。知事や将軍は3年交代で任地が代わるため、台湾に対する愛着は地元の人々より薄く「台湾が日本に譲り渡されるのはやむを得ない」と考えていた。 だがその下にいた、台湾生まれの財界人や知識人など地元の有力者層は「やむを得ない」ですますわけにはいかなかった。清国政府が下関条約に調印した翌日、地元有力者の一人である丘逢甲という人物が、台湾住民の代表者として、台湾省知事だった唐景松(松には山カンムリがつく)に会い、台湾の日本割譲に反対し、日本に対して徹底抗戦することを求めた。 唐景松は役人なので、政府の組織決定である台湾割譲に逆らうことを嫌がったが、地元の人々は、政府が台湾を見捨てることを許さなかった。 台湾を確かに日本に譲渡したことを確認する日清間の外交文書に調印するため、清国政府の代表として李経方という人物が台湾に派遣されたが、台湾では有力者から庶民までが激しく憤慨しているのを知り、殺されることを恐れて上陸せず、日本側に懇願して調印式を洋上で行ったほどだった。 ▼10日で終わった「台湾独立」 台湾の地元有力者たちは、政府に捨てられた以上、日本支配を防ぐには「独立」しかないと考えた。 当時は日本だけでなくフランスも、中国大陸に進出するための拠点として、台湾を支配したいと考えていた。フランスは、最終的には台湾の領有を日本と争うことを見送ったものの、下関条約が発効して台湾の日本への割譲が決まってから11日後に、フランスの軍艦が台湾沖にあらわれた。日本軍の艦隊が到着する10日前のことである。 早速、清国政府の役人で、外交官としてフランス駐在の経験がある陳季同という人物が、台湾代表としてフランス軍艦を訪れ、独立するので支援してほしい、と要請した。フランス側が好意的な返答をしたため、その4日後に「台湾民主国」(台湾共和国)の独立が宣言された。アジアで初めての共和国の独立宣言であった。 知事の唐景松は、本心は早く大陸に帰りたかったのだろうが、地元有力者からのなかば強制的な要請に応じざるを得ず、台湾民主国の総統(大統領)に就任した。「徹底抗戦」を唐景松に要求した地元の有力者、丘逢甲が副総統になった。 だが、独立宣言の11日後に日本軍が台湾の北東端に上陸し、台北に向かって進軍を始めると、台湾側の軍隊はすぐに崩壊し、敗走した兵士が台北市内になだれ込み、「どうせ負けるのだから」と市内で略奪や強姦を始めた。当時の台湾の清国軍は、大陸で募集して連れてきた傭兵で組織され、お金が目当てで軍上層部や国家への忠誠心は薄かった。 この敗北で、台湾民主国も崩壊した。知事から総統になった唐景松は、前線を視察すると言って台北城内を抜け出して港に向かい、停泊していたドイツの船に乗せてもらい、こっそり大陸に逃げ帰ってしまった。「徹底抗戦」を強く主張していた副大統領の丘逢甲や、フランス軍に掛け合って独立後の支持をとりつけ、台湾民主国の外務大臣になったばかりの陳季同も、間もなく大陸に逃げ出した。 こうして日本軍は台北に入城し、日本の台湾統治が始まったのだが、日本軍と台湾人との本当の戦いが始まるのは、その後だった。 (続く)
参考文献(日本語)
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