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石油価格をめぐる仁義なき戦い

2000年4月3日   田中 宇

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 3月27日、ヨーロッパ有数のエレガントな街ウィーンの最高級ホテルは、普段の気品を踏みにじる騒然さに包まれていた。

 ウィーンには、世界の主な石油産出国11カ国が作るOPEC(石油輸出国機構)の本部がある。この日、OPEC参加各国の担当大臣が会議を開いていたが、大臣やその部下たちが宿泊するホテルのロビーには、世界中のマスコミが群がり、会議の行方について一言でも情報を得ようと、関係者がホテルを出入りするたびに、テレビのマイクやらソニーのマイクロカセットやらを突き付けながら追いかけていた。

 OPECが議論していたのは、石油生産枠を増加させるかどうか、ということだった。世界の原油価格は、1バレルあたり20ドル台だった97年秋から下がり始め、昨年1月に11ドルという安値をつけた後、OPECが昨年3月に減産を決めてからは、今度は一転して上昇を続け、今年3月には34ドルという高値にまでなっていた。(1バレルは160リットル)

 1年間に3倍以上もの値上がりは、経済に悪い影響を与えかねないとして、アメリカなどがOPECに圧力をかけていた。それを受けて、世界最大の産油国であるサウジアラビアが、増産によって石油価格を25ドル前後にまで下げて安定させようとOPECに提唱し、この会議が開かれた。

 OPECといえば、2度にわたる「石油危機」を引き起こし、日本経済にも深刻な影響を与えたアラブ中心の国際組織である。OPECの11カ国のうち、南米のベネズエラをのぞく10カ国はイスラム教徒が多い国だ。(参加国はサウジアラビア、クウェート、イラク、アルジェリア、カタール、アラブ首長国連邦、リビアの、アラブ7カ国と、イラン、ナイジェリア、インドネシア、ベネズエラ)

 彼らは、イスラエル軍がアラブ連合軍を壊滅させた1973年の第4次中東戦争で、欧米がイスラエルを支持したことに怒り、イスラエルを支持する国への石油輸出を減らす措置をとり、最初の石油危機を引き起こした。これ以来、日本はアラブ諸国を無条件に支持する態度を取らざるを得なくなった。

 そのOPECが昨年以来、また結束して減産と増産によって石油価格を動かし始めている・・・。OPECが再び往年の支配力を復活させたという見方から、ウィーン会議に参加した産油国の当局者の一挙一動に、世界のマスコミが注目したのだった。

▼会議中に電話をかけてきた米当局者

 だが会議場の内部の光景は、外面上のOPECの強さとはかなり食い違っていた。参加各国の閣僚のもとには、外部から何回も電話が入り、会議が中断されたり、開始が遅れたりした。電話をかけていたのは、アメリカ政府エネルギー省のビル・リチャードソン長官など米当局者だった。OPECが間違いなく増産に踏み切るよう、圧力をかけてきたのだった。

 重要な会議の最中にも、アメリカからの電話には出ねばならない現実が、OPECの弱さを象徴している。アメリカはOPECのメンバーではないが、電話を通じて主要メンバーのように振る舞った。25年前、OPECはアメリカに圧力をかけるために石油危機を起こしたが、今や立場は逆になり、OPECはアメリカから圧力をかけられて会議を開いているのだった。

 OPEC変質の原因の一つは、1991年の湾岸戦争だった。主要産油国であるサウジアラビアとクウェートは、イラクの攻撃にさらされ、アメリカの軍事支援がなかったら油田地帯をイラクに占領されるかもしれないという経験を経て、アメリカに頭が上がらなくなった。

 石油危機後の高騰は、石油収入が国家財政の大半を占めているサウジアラビアやクウェートなどの経済を豊かにしたが、今や両国はその豊かさを前提に国家運営されている。クウェートでは石油価格が1バレル22ドル以下に下がると財政赤字が発生する。ここ2年ほど国庫は大赤字で、大規模プロジェクトの多くが凍結されたままだ。そんな状態だから、もはや25年前のように「アラブの敵には石油を売らない」という態度はとれなくなっている。

 加えて、25年前の先進国経済は、鉄鋼や自動車といったエネルギーを多く使う製造業が中心だったが、今では情報産業やハイテク分野が中心になっている。アメリカではこの25年間に、企業が作る製品に必要な石油の量の平均は半分に減ったと概算されている。

 これらの状況の変化により、OPEC諸国が石油の生産量を増減させて国際的な政治力を発揮することは、難しくなったのだった。

▼1%の増産で50%下落した相場

 ここ2−3年、OPECが生産量を増減させて石油価格を変動させようとする試みは、思い通りの結果を生んでいない。

 間違いの発端は1997年11月、石油収入を増やしたいサウジアラビアが呼びかけて、OPECが日産100万バレルの増産を決めたことだった。石油は全世界で1日に7500万バレルほど生産されており、100万バレルは1%強にしか当たらない。

 だが、増産を決めた時期が悪かった。東アジアでは、その半年前にタイで始まった通貨危機が各国に飛び火してアジア経済全体が不調となり、世界的に石油消費量が減り始めていた。そんなときに供給量が増えたため、石油の価格は暴落した。

 増産決定から4カ月後の98年3月、OPECは今度は減産を決めたが、きちんと守られなかった。アジアから世界に広がった経済危機から逃れるため、少しでも多くの石油収入を確保しようと、OPECの決定を無視した石油生産をおこなう国が続出したからである。

 OPECが生産する石油は、世界の全生産量の約4割であり、OPEC外の産油国であるロシアやメキシコは減産決定に従わなくても良いことも一因となり、産油国の思惑とは反対に、石油価格は下がり続けた。

▼イランとベネズエラの政治変化で再上昇

 この苦境を救ったのは、OPEC参加国であるイランとベネズエラの政治変化だった。両国がOPECに協力的な態度になったため、1999年3月、OPECは日産430万バレルの減産で合意した。今度は効果があがり、石油価格は再び上がり始めた。

 イランでは1997年の選挙で、民主化を重視する穏健派の聖職者ハタミ氏が大統領となり、1979年のイスラム革命以来、権力を握ってきたイスラム原理主義の聖職者集団との対立を避けながらも、社会の自由化や民主化を進めてきた。

 ハタミが大統領になるまでのイランは、イスラム原理主義運動(イスラム復興運動)を中東全域に広げようと企て、サウジアラビアの反政府勢力などを支援していた。そのためサウジとイランの仲は悪かったのだが、ハタミ大統領は就任直後から、サウジなどアラブ諸国との和解に動き、イランとサウジとの関係は大幅に好転した。石油の生産調整でも、サウジはイランの協力を得られるようになった。

 反米色の強いイスラム主義運動を煽ってきたイランが、自由化によってイスラム主義色を薄めるのは、アメリカにとっても好ましかった。原油価格が低いとイラン政府の財政も苦しいままで、その苦境に乗じて政権内のイスラム原理主義者たちがハタミ大統領を批判し、追い落とすことにつながりかねない。そのため、原油価格を上昇させることはアメリカの中東政策上からも良いと評価され、サウジはOPECの減産をアメリカに認めさせることができた。

 一方、南米のベネズエラでは、99年1月の大統領選挙で政権が変わった。それまでのカルデラ大統領は、国家財政の赤字を減らすため、OPEC参加国として減産に同意したにもかかわらず、決められた枠以上の石油を輸出していた。だが、新しく大統領となったチャベス氏はOPECに積極参加するようになり、生産枠違反の常習国だったベネズエラが変わったことで、減産決定の効果が高まった。

 それまではOPECが減産を決め、ロシアなどOPEC外の国々にも減産を求めても「どうせベネズエラなどが違反する」と反論されて協力を受けられなかった状況も終わり、ロシアやメキシコも99年3月の減産決定には協力した。

▼今度は上がりすぎで苛立つアメリカ

 こうして原油価格は再び上昇に転じたが、今度は上がりすぎが問題となった。

 先進国のうち、ヨーロッパや日本では、ガソリンなど石油製品の小売価格に占める原油価格の割合は1−3割程度で、残りは流通コストのほか、税金が大きな割合を占めている。石油危機からの教訓として、原油価格が上下しても、消費者に届くときの価格がなるべく上下しないよう、税金の割合を多くしている。

 だから日本などでは、原油価格が上がっても、ガソリンや灯油の価格は上がりにくいのだが、自由市場原則を好むアメリカは、石油製品にもあまり税金をかけない傾向が強く、日欧に比べ、原油価格の上昇が消費者の負担増につながりやすい。アメリカのガソリン価格は、99年4月には1ガロン1ドルを切っていたが、今年3月には1ドル60セントまで上昇した。

 アメリカでは今年、大統領選挙がある。ガソリンの値上がりは、与党の民主党にとって不利になるので、クリントン政権は原油価格の引き下げを重要な外交目標として掲げるようになった。石油価格の上昇による経済的な悪影響は25年前より減ったが、政治的・心理的な影響はいまだに大きいのだった。

 アメリカには湾岸戦争以来「クウェートやサウジアラビアのアラブ人を、残虐なサダムフセインから守ってやったのは俺たちだ」という意識が強い。自分たちのガソリン代が上がる一方でアラブ人たちの儲けが増える状況に、反感を持つ人も多い。米議会から政府には「OPEC諸国に対する援助や武器輸出を減らしてしまえ」という要求が出された。

 こうした圧力に屈する形で、OPECは増産に応じた。アメリカとサウジの事前協議では、増産は原油価格を1バレル25ドル前後にソフトランディングさせることが目的だった。この水準なら、アメリカ国民が納得する上、サウジやクウェートの国家財政も赤字にならずにすむという思惑である。

 ただ一国、アメリカの圧力による増産に最後まで抵抗し、合意文に署名しなかったのは、イランだった。これまで反米を貫いてきたイランは、サウジのようにアメリカに媚びる必要がない上、穏健派のハタミ政権が政府内の原理主義派をなだめる目的もあり、アメリカの言いなりになることを断った。とはいえイランも、自国に割り当てられるはずだった増産枠を他国に横取りされることを防ぐため、増産自体はOPECの決定とは別に、独自に行うと表明した。

▼今後も石油相場の不安定は続きそう

 こうして決定されたOPECの増産だったが、これで石油相場が安定するかといえば、そうではなさそうだ。石油価格の安定化は、以前より難しくなっている。

 その一因はアジア経済危機後、世界経済の動向が予測しにくくなっているためだ。日本の景気が回復しているのか、アジアは株式市場は良いが実体経済の先行きはどうなのか、アメリカ経済の好調は今後も長く続くのか、いずれも不透明だ。

 また石油の生産流通システムにも、見えない部分が多い。OPEC自身、自分では生産量の統計を作っていない。OPECが使う石油に関する統計は、先進国主体の国際組織であるIEA(国際エネルギー機関)などがまとめたものを借用している。

 産油国の多くは、石油生産や備蓄量、売り先の詳細などを発表すると、他の産油国に攻撃の口実を与え、生産枠をめぐる政治駆け引きに負けてしまうという懸念から、統計を発表したがらない。主導国のサウジもその傾向が強く、OPECが石油の統計を自己管理できる状態ではない。

 生産枠を無視してこっそり輸出する国が多いたため、発表された統計も確度が低いという問題もある。大手石油会社は、世界的な生産流通の実際量を把握するため、港や海峡などでタンカーの隻数を数える作業を独自に続けている。

▼くたびれ果てた石油大臣

 生産・流通量が確定しにくいので、需給によって形成される石油の価格も、現実を離れたものになりがちだ。世界の原油価格は、アメリカ・テキサス州で採れる「ウェスト・テキサス・インターメディエイト」(WTI)と、イギリス沖の北海油田で採れる「北海ブレント」という、2種類の原油の相場が基準となっているが、その生産量は、多い方のWTIで日産130万バレル程度で、日産7500万バレルという世界の全量からみれば、わずかな量である。

 北海ブレントに至っては、日産50万バレル程度しかないので、相場を意図的に上下させたい投機筋によって全量が買い占められてしまうときがあるほどだ。サウジアラビアなどが石油取引の詳細を発表するようになれば、もっと取引量の多い種類の原油での相場を作ることができるが、サウジの秘密主義がそれを許さない状況にある。

 実は、サウジの秘密主義は、アメリカとイギリスという、農産物や金地金から金融先物に至るまで、世界の相場の多くを支配している両国にとっては、むしろ幸いなことかもしれない。英米は生産量が少ないにもかかわらず、原油に関しても相場の「胴元」になれるからである。

 クウェートの石油大臣はOPEC会議の合間に、ウィーンの高級ホテルの部屋でニューヨークタイムスのインタビューに応じ、くたびれ果てた様子で、アメリカの政治家のごり押しに対して文句を言った。彼が会見に応じるのは異例のことで、マスコミを通じて、アメリカの政治家の強引さを米国民に伝える意図があったようだ。( 記事はこちら

 中東の政治は、同盟と敵対が複雑に交錯する陰謀の世界である。だが、イスラム世界の中でも政治力に長けたクウェートの石油大臣でさえ、アメリカ政治の容赦ないパワーに押され、もう勘弁してくれ、という状態なのだった。



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