マカオ返還の裏で進む暴力団との戦い1999年12月21日 田中 宇12月20日にマカオが中国に返還され、欧米諸国のアジアにおける植民地支配が終わったが、それより1カ月前の11月23日、マカオでもう一つ「終わり」を宣告されたものがあった。18世紀の政治結社以来の伝統を持つ、中国の暴力団(黒社会)である。 この日、マカオの裁判所で、暴力団「14K」の大ボス「歯欠けの駒」に、懲役15年の判決が言い渡された。歯欠けの駒というのはニックネームで、本名は尹国駒(ワン・クォック・コイ)という。 罪状は「組織犯罪活動参加罪」という、暴力団取り締まりのために作られた法律のほか、資金洗浄、不当な高利貸しなどで、これらに対する最も重い刑として、懲役15年が言い渡された。この判決は、過去4年間続いた暴力団抗争に対してポルトガル当局が放った、最後の決定的な攻撃だった。 ▼香港、大陸、台湾から暴力団が結集 マカオの抗争は、カジノ産業をめぐるものだった。マカオのカジノは、対中貿易のライバルだったイギリスが、マカオの対岸の香港に港を作ってから20年後、マカオ港の繁栄に陰りが見え出した1861年に、マカオの凋落を防ぐため、当局公認のビジネスに指定された。以来140年間、衰退していくマカオにとって、カジノは大切な収入源となり、今ではマカオ政府の収入の60%は、カジノからのものだ。 どこの国でも、賭け事にはマフィアや暴力団の影が付きまとう。マカオのカジノも、現金化できないきまりになっているチップのヤミ換金屋、負けた人への高利貸し、用心棒などのヤミビジネスに、暴力団が従事していた。 もともとは「14K」と「水房」という、地元の2つの組織が仕切っていたが、マカオと香港の中国への返還によって、事情が変わった。1997年に香港が中国に返還される前後から、中国統治下になって取り締まりが厳しくなった香港からマカオへと、移ってくる暴力団が増えた。 彼らは、地元の暴力団が握っていた利権を狙い、抗争が始まった。マカオ自身の返還を控え、大陸からも犯罪組織がマカオに流入した。(その中には、人民解放軍の息がかかったものもあると報じられている) このころ台湾ではちょうど、過去数年間の民主化と政治の健全化の仕上げとして、それまで国民党の別動部隊として機能してきた暴力団に対して、国民党が縁を切り、取り締まりを強化した。その結果、台湾を逃げ出した暴力団の一部も、新たな稼ぎ口を求め、マカオに流れ込むことになった。 こうした新勢力の流入に加え、香港が返還された直後から、アジア経済危機が始まり、カジノの収入自体が減ってしまった。抗争は殺し合いに発展し、カジノの入り口などで暴力団関係者が銃殺されたりした。 ▼暴力団対警察の死闘に発展 マカオ当局は取り締まりに乗り出したが、これは事態をさらに悪化させた。当局は昨年、350人の組員を逮捕、収監したが、これに対して暴力団側は昨年3月、当局のカジノ監督責任者を暗殺して、当局に宣戦布告した。 昨年3月から5月にかけて、当局の担当者が次々と暗殺され、5月には警察幹部の車が爆破された。この日、警察側は事件を首謀していたとして、14Kのボス、尹国駒を逮捕した。 だが、そこからが大変だった。駒が逮捕された日のうちに、仕返しに25件もの手榴弾爆発事件が起きた。尹国駒を拘置所に入れたところ、昨年11月には拘置所の職員が撃たれて死んだ。尹の裁判を担当する裁判官は脅され、報復を恐れて辞めた。 困ったポルトガルは、本国から裁判官を送り込んだ。だが裁判官が、尹の罪状を確定するため、警察幹部などに法廷で証言をさせようとしたところ、多くが報復を恐れ、証言台に立とうとしなかった。 仕方なく裁判官は、尹国駒がインタビューに答えている新聞や雑誌の記事を集め、それを証拠にした。尹は目立ちたがり屋で、アメリカの週刊誌に登場したり、自分の半生を描いた「カジノ」という映画を香港で作らせたりしていた。 マカオの当局者の中には、暴力団とかかわりある警察官や役人が多いことも、以前から指摘されていた。マカオを植民地にして以来の放任主義政策で、当局は厳しい対応をとれなかったし、統治に対するやる気もないと思われていた。拘置所にいる尹は、携帯電話を持つことを許され、そこから組織に命令を発していると報じられた。 こんな調子だったので、判決は軽い刑に終わらざるを得ないのではないか、と予測され、11月23日の判決法廷に現れた尹は、自信満々だった。 ▼中国の統治下では大きな顔ができない暴力団 ところが、言い渡された判決は、尹の罪状に対しては最高刑の懲役15年であった。尹は満員の傍聴席に向かって立ち、「この裁判官は買収されている」と怒鳴った後、取り押さえようとした看守のこめかみに、手錠をはめられた手をピストルの形にして突きつけ、「殺してやる」とすごんだ。 だが、それまでだった。この日、マカオから国境を超えた中国側の珠海でも、マカオと中国を往復する別の暴力団幹部に判決が言い渡され、こちらは死刑で、しかも即日執行だった。ポルトガル統治下のマカオには、死刑制度がなかったが、犯罪者の人権など認めない中国は、犯罪組織には極刑を言い渡すのが常だった。 香港や台湾から追い出され、マカオに結集した暴力団だったが、中国の統治下になったら、これまでのような大きな顔はできないと予測されている。 香港が中国に返還されるとき、人々の懸念は、中国が民主的な政治を続けるかどうかだった。簡単な裁判だけで、重罪が言い渡される司法制度も、人権侵害なのではないかと指摘された。だがマカオでは、ポルトガル当局があまりに放任主義だったので、多くの人々はむしろ、中国が入ってきて、取り締まりを強化したほうが良いと思っている。 ▼昔は政治団体だった暴力団 マカオや香港、台湾などに存在している中国世界の暴力団(幇、黒社会)はもともと、政治的な目標を持った秘密結社だったものが多い。秘密結社の元祖と言われているのは、漢民族の政権だった明朝が倒れ、満州族が清朝を打ち立てた後、異民族による支配に反発し、明朝の復興を目指した人々である。 鄭成功という海賊の親分を中心とした彼らは17世紀、台湾を拠点として清朝に抵抗したが、数十年後に内紛によって自滅した。私が台湾で会った暴力団の元親分によると、台湾や香港の組員の中には、今も鄭成功を崇拝している人が多いという。 19世紀に清朝が衰退し、欧米や日本の列強諸国によって中国が支配されるようになると、清朝と列強勢力を追い出し、漢民族のための中国を復興しようという動きが広がり、その中心となったのが、福建省や広東省にできた「三合会」または「洪門会」「紅幇」と呼ばれる秘密結社だった。彼らの中から、中華民国を興した孫文も出てきた。 彼らの目標は、中国を共和国にすることだった。当時マカオには、欧米の政治結社「フリーメーソン」の人々がいたが、その中には共和制の思想を追求する人が多く、似た目標を持つ者として、中国の結社の人々と意気投合することになった。マカオにおける両者の契りは、アメリカが中華民国を支持し続けることにつながり、現在の台湾海峡問題の原点となった。 中国に社会主義政権ができた後、秘密結社の多くは、政治的な目標を見失い、金儲けのための犯罪組織へと転落していった。それから数十年、大陸にいられなくなった雑多な人々を収容していた香港とマカオが中国に返還され、台湾も政治的にクリーンになった今、秘密結社から暴力団に至る長い歴史も、一つの節目を迎えている。
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