台湾人のアイデンティティ

1999年8月30日  田中 宇


 この記事は「台湾の日本ブーム」の続編です。

 台北市内にあるモスバーガーに座って、この記事を書き出している。午後1時を過ぎたところで、先ほどまではワイシャツにネクタイ姿、腰のベルトにはカバーにくるまれた携帯電話、という出で立ちのサラリーマンや、日本の企業と似たタイトスカートの地味な制服を着たOLで満席だったが、1時を過ぎると、空席が目立ってきた。

 店内は、宣伝の表記が漢字であるほかは、日本のお店とほぼ同じだ。私は東京で原稿を書く際、会社や自宅にいても書けない時があり、ハンバーガー店や喫茶店に行ってノートを広げて粘るのだが、それと同じことが台北でできる。空いてきた午後の店内では、トランプを始めた女の子たちもおり、日本より、店員が長居の客に寛容な感じもする。

 さっきまで私の右側に座っていた男女の会社員は、台湾語で話していたが、その後しばらくして席を占めた男女4人組の中学生(2人は半そでシャツの制服を着ている)の会話は北京語だ。最近の若者、特に女の子は、台湾人(本省人)でも、台湾語より北京語の方がかっこいいと思って、北京語しか話さない子も多いという。

 確かに、口の中にこもる感じに聞こえる台湾語に比べて、北京語は、日本語でいうところの「タ行」や「パ行」に近い音が多く、上品に話すとおしゃれに聞こえる。となりの席の女の子たちも、可愛らしく聞こえるように工夫して話している感じだ。

 台湾人が台湾語を話さないということ、それから台湾語と北京語の関係、そして「本省人」(とそれに対比される「外省人」)なるものの存在について説明するには、台湾の歴史をざっと振り返る必要がある。

●台湾人の祖先

 台湾にはもともと、現在では「原住民」と呼ばれるマレー・ポリネシア系の先住民族の人々だけが住んでいた。そこに、16-17世紀ごろ以降、台湾海峡の向かい側にある中国大陸の福建省や広東省から、中国人が移民してくるようになった。現在、台湾の人口の約85%を占める「本省人」は、その子孫である。

 「本省人」の母語である「台湾語」は、福建省南部の言葉「ビン(門の中に虫)南語」と同じである。台湾語は、もともと表記法のない言葉で、文法も北京語とは全く違う。現在の台湾では、意味と発音が近い漢字を各音節に当て、表記する方法をとってるが、ある音節にどの漢字を当てるか、規則が一つだけではないなどの難点があり、ほとんど実用されていないという。台湾語は事実上、会話だけの言葉だ。

 当時、中国は「明」王朝の末期だったが、明は台湾を領有しなかった。領有する価値のない、辺境の島と考えていた。そのため1620年代になると、オランダが台湾の南部を、そしてほぼ同時期にスペインが北部を占領し、航海上の拠点として使うようになった(後にスペインはオランダに追われて撤退する)。また、台湾西海岸の中央部は、大陸の沿岸を荒らし回る海賊たち(武装貿易商人)の巣窟となっていた。

 そのころちょうど、「明」は北方の満州から攻め込んできた「清」王朝に圧され、潰れかかっていた。明王室は1628年、海賊の親分だった鄭芝龍という人物に、清と戦うよう頼み、兵力と資金を渡した。鄭芝龍は戦略の一つとして、自らの拠点である台湾西海岸を強化することを決め、大陸から台湾に、数万人の移民を渡海させるよう仕向け、開拓を進めた。彼らが「本省人」の祖先となった。

 明は結局、清に追い詰められ、1644年には最後の皇帝が自害して終わる。だが、鄭芝龍の跡を継いだ息子の鄭成功は、明の王室関係者の生き残りから依頼を受け、明王室の再興を目指すことを誓い、台湾を拠点に、清に対抗し始めた。鄭成功は、さらに数万人の移民を福建省などから台湾に招くとともに、オランダを追い出して台湾を統一した。

●鄭成功にあやかりたかった蒋介石

 鄭成功は、オランダの台湾支配の中心地だった南西部の町、台南を攻め落とし、そこに居を構えた。鄭成功の勢力は、その後20年ほどで崩壊し、台湾は清国の領土となった。だが、清が実際に統治したのは台湾の西海岸だけで、東海岸のほとんどは依然として、中央政府の統治が及ばない「化外の地」だった。

 台南には今も、鄭成功をまつった廟がいくつもあり、人々の信仰を集めている。明が漢民族の王朝だったのに対して、明を倒した清は満州族の王朝であり、漢民族は支配される側になった。そのため鄭成功は、漢民族の英雄としてまつられたが、これははるか後世の第2次大戦後、共産党との内戦に敗れ、台湾にやってきた蒋介石の国民党政権が、自らの人気取りのために、利用するところとなった。蒋介石も、鄭成功と同じような正統性を持って、中国を再統一しようとする英雄だ、と人々に思わせようとするイメージ戦略だった。

 1895年、日清戦争で清国を破った日本は、清に台湾を「割譲」させ、第2次大戦で負ける1945年までの50年間、台湾を領有し、植民地として統治した。この間、日本は抗日運動を徹底的に取り締まり、公的な場での台湾語を禁止し、日本語や日本風の生活を台湾の人々に強要した。日本人を1等国民、台湾人を2等国民として扱うという差別も強かった。

 だが日本は同時に、鉄道や道路、水道、電信などの社会基盤を整備し、教育制度を整えていった。それが、後の台湾が発展する基礎になったのだが、このことは李登輝総統が著書「台湾の主張」の中で述べるなど、台湾の「公式見解」となっている。

 日本の敗戦後、台湾には中華民国(国民党政府)の官吏が派遣された。台湾の人々は「祖国復帰」の希望に燃えたが、それはすぐに失望に変わった。「僕たちは自分たちを中国人だと思ったが、統治者である国民党の人たちは、僕たちを同じ中国人だと思わず、統治する対象としか見ていなかった」(69歳の会社経営者、蔡永興さんの言葉)

 しかも、国民党政府は腐敗していた。1949年に国民党が大陸での共産党との内戦に敗れ、台湾に移転すると、大陸にいた規律の乱れた国民党系の軍閥(将軍を中心とした私兵のような集団)が、そっくり台湾に持ち込まれ、軍の横暴が目立つようになった。国民党政府に反発する人々は「共産主義者」と呼ばれて弾圧される時代が、その後30年以上続いた。

●本省人と外省人

 この、台湾の人々に嫌われた国民党政府と一緒にやってきた役人や軍人らと、その家族が「外省人」と呼ばれる人々で、現在の台湾の人口(約2200万人)の13%を占める。

 ここで「外省人」と、以前から台湾に住んでいる「本省人」という区別が登場する。国民党政府は建前上、中国大陸全土を領土としており、共産党との内戦で形成が不利になり、やむなく今は台湾に避難している、という筋書きになっていた。そのため国民党政府は、人々が中国大陸の、どの省の出身であるかという「省籍」を重視し、各自の身分証明書に記入した。

 そして「本省」とは「台湾省」を指し、「外省」はそれ以外の場所、つまり大陸を指していた。1980年代に政治の民主化(本島化)が始まるまで、外省人は台湾の行政、知識面でのエリート階級、支配層であり、官僚はほとんど外省人だった。今もその傾向は強く、たとえば台湾の新聞記者の大半は外省人である。外省人の母語は、大陸の標準語である「北京語」で、台湾ではこれを「国語」と呼んでいる。

 当然、人口の85%を占める本省人は、外省人に対して、良い感情を持てなかった。民主化が始まるまで、台湾の学校では、国語会話を奨励するために、台湾語を話すことが禁止され、うっかり台湾語を喋った生徒は、次に別の生徒が台湾語をうっかり喋るまで、首から「国語を話しましょう」と書かれた札をぶら下げている、などという懲罰もあった。(日本統治時代には「日本語を話しましょう」という札だったそうだが) テレビ番組も、ほとんどすべて北京語で、台湾語の放送時間は短く制限されていた。

 80年代に入って進んだ民主化で、最初に出てきた新しい勢力は、国民党独裁時代に、反政府の主張を掲げ、獄中生活や海外亡命を強いられていた本省人たちが結集して作った「民主進歩党」(民進党)だった。民進党は、台湾語を公的な場で使うことや、台湾が中国大陸とは別の国として独立するといった「台湾化」を掲げ、勢力を広げた。

 一方、「民主」や「自由」が重視されるようになった冷戦後の世界での生き残りを画策する与党・国民党でも、1988年に死去するまで総統(大統領)をつとめた蒋経国(蒋介石の息子)が、副総統に本省人の李登輝を抜擢し、自らの死後、憲法の規定によって自動的に、李登輝が初の本省人総統に昇格するよう仕組んだ。(蒋経国の死は突然だった)

 蒋経国は遺言で、李登輝が総統だけでなく、国民党主席も兼務するよう命じていた。外省人が主流である国民党内には、本省人の李登輝を拒もうとする勢力が大きかったが、それを阻止するための遺言だった。これにより、台湾の政府だけでなく与党でも、台湾化が進んだ。実は台湾化は、本省人が嫌う外省人の大ボスだった蒋経国の決意によって、実現したのだった。

●台湾人と中国人

 李登輝時代になってから、政治・社会の自由化が急速に進んだ。だがそれは、国民党独裁時代に弾圧されながら民主化を推進した民進党のオリジナルメンバーたちの意図を超える急速さでもあった。その表れの一つが、冒頭で紹介したハンバーガー屋の店内での光景のように、台湾語より北京語を話したがる若者や、本省人なのに台湾語が話せない若者が増えたことだった。

 かつて、北京語は外省人の母語であり、国民党が本省人に強制する国語。台湾語は本省人の母語。そして日本語は、本省人の老人たちが、知識を吸収するために日本の本を読むための言葉であり、小集団(部族)ごとに言葉が異なっている先住民の人々の「共通語」でもあった。

 ところが今、台湾のテレビを見ると気づくのだが、北京語、台湾語、日本語のテレビの中での使われ方は、それとはずいぶん違う。コマーシャルが如実なのだが、欧米からの輸入ブランド品の宣伝は北京語、食品など安心感を出したいものは台湾語だ。そしてカップラーメン、えびせんなど、日本風の商品の場合は、日本語が使われている。かつて、何語で話すかは、台湾の人々にとって、自らのアイデンティティを示すものだったのだが、全てが自由化されつつある今、言葉は語感でとらえられる傾向が強いように感じた。

 さらに最近では、特に若者の間で「本省人」「外省人」という区別が、重要ではなくなってきているように見える。政治の自由化の流れの中で、身分証明書上の省籍の表示はなくなってしまい、誰が本省人で誰が外省人か、本人に会って聞かない限り、書類上から判別できなくなった。そもそも「台湾省」という存在が、「中華民国」の国家としての支配区域とほぼ重なり、屋上屋であるということで、事実上、廃止されてしまった。

 代わりに、台湾の独立性を重視する人々が言い出した呼称が、台湾は中国とは違う国だと考えている「台湾人」と、台湾は中国の一部であると思っている「中国人」という区分だ。前回、配信した記事の中で、私をCD店に連れて行ってくれた唐先智さんは、外省人の若者だが、一緒に入った喫茶店で、周りを見渡しながら「ここにいる若い人たちに尋ねると、ほとんど全員が"自分は台湾人だ"と答えますよ」と言っていた。

 李登輝総統が7月に初旬に述べた「中国と台湾は、特殊な国と国との関係にある」という「両国論」発言は、こうした台湾の人々の認識を汲み取って発せられたものであった。

 


 

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