ドルの劣化2020年9月7日 田中 宇中国政府は、米国(FRB、米連銀)がQE策のせいでドルを過剰発行しているのでドル建ての物価がインフレになっていくと懸念し、米国債などドル建ての資産を減らす姿勢をとり始めている。米連銀は、QE策で発行したドルの一部を使って米国債を買い支えている。米政府は国債を連銀に買ってもらえるので国債の過剰発行(米国債金利の上昇)を恐れなくなり、コロナの経済対策として財政赤字を急増している。米政府の財政赤字の残高は来年、史上初めて米国のGDP総額を超える。財政赤字がGDP総額を超えると過剰発行だ(日本の財政赤字はGDPの2.4倍だが)。中国政府は現在1兆ドル強の米国債を保有している(日本に次ぐ世界第2位)。これを今後しだいに減らして8千億ドルぐらいにしていく予定だ。 (Amid rising tensions, China likely to reduce US debt holdings) (China Moves Away From US Dollar, Ahead Of Digital Yuan) 「通貨を過剰発行するとインフレになる」という経済理論が時代遅れだと思われようになって久しい。だが、なぜ通貨を過剰発行してもインフレにならなくなったのか、わかりやすい(金融詐欺でない)理由の説明をマスコミなど権威筋情報で見たことがない。自分で考えるしかない(世の中には独自分析を陰謀論扱いする小役人が多く徒労感があるが、考察自体が楽しいのでやっている)。私の独自の見立ては以下のとおりだ。1980年代後半からの米国中心の債券市場の急拡大を受け、実体経済からおおむね分離された金融システムの資金量が肥大化(バブル膨張)し、通貨の過剰発行が続いたが、その資金はあまり実体経済の方に流入しないため、実体経済の物価上昇であるインフレならない。 (U.S. Debt Is Set to Exceed Size of the Economy Next Year, a First Since World War II) (China To "Gradually" Sell 20% Of Its US Treasury Holdings, May Dump It All In Case Of "Military Conflict": State Media) リーマン倒産後、米連銀など米日欧の中銀群がQEでドルや円を過剰発行してきたが、これも資金が金融システムの側にとどまっているので実体経済側の物価が上がらない。それで「インフレ懸念は過去のものだ。通貨を過剰発行してもインフレにならない。各国政府はインフレを懸念せずQEを拡大して自国の国債を買い支え、財政赤字を無限に増やせる」と主張するMMTの理論などが横行した。 しかし、最近は風向きが変わってきている。QEによるドルの過剰発行が、ドル建て物価のインフレを引き起こすという懸念・予測が、金融界のあちこちから出てきている。冒頭に紹介した、中国政府が米国のインフレ拡大を懸念して米国債などドル建て資産を減らしたがっているという話はその一つだ。8月末に今年はバーチャルで行われた中央銀行関係者が集まる年次のジャクソンホール会議では、米連銀のパウエル総裁が「インフレになっても心配しなくて良い」という趣旨のことを講演で述べている。今のところ公式なインフレ指標(CPI)は年率プラス1%でインフレになっていない(2%を超えると良くない)。しかし、権威筋は懸念を表明している。これから米国はインフレになりそうなのだ。 (Framework review complete, Fed's Powell starts hard sell for higher inflation) (Inflation – Dow 50,000 – Gold $50,000) なぜ、前は通貨を過剰発行してもインフレにならなかったのが、最近そうでなくなってきたのか?。これについても、公式な説明は何もない。私の分析は「コロナ以前は、QEの目的が崩壊しかけた金融バブルの膨張維持であり、QEで注入した資金のほとんどが金融システム側にとどまり、実体経済の方に行かなかったのでインフレにならなかった。だがコロナ発生後、QEの資金は金融バブル維持だけでなく、都市閉鎖でへこんだ実体経済のテコ入れにも使われるようになり、これからコロナによる大不況が長期化するとともに、実体経済の中に存在する通貨の量が増えてインフレになっていくのでないか」というものだ。 (Inflation Is Higher Than the Numbers Say) (Don’t forget about inflation) 国連の食糧農業機関FAOによると、今年6月から8月にかけて3か月連続で、穀物や砂糖など国際的な食料価格が値上がりしている。4月まではコロナ対策による世界不況で食料価格は下がっていたが、それが反騰している。年末にかけて、米国だけでなく世界的な食料高騰・食糧難が予測されている。トウモロコシは中国の輸入増加・買い占めで上がっている。石油ガスの国際価格は上がっていないのでその部分はインフレ要素になっていない。 (World Food Prices Rise For Third Consecutive Month In August) もし本当にこれから米国と世界(ドル圏?)でインフレがひどくなるのなら、それは物価が上がって人々の生活が苦しくなるという実体経済の側の惨事だけでなく、金融システムにとっても大惨事になる。なぜなら、リーマンとコロナを経て、米国中心の世界の金融システムの中に存在する債務の総額が前代未聞な巨額になっており、インフレがひどくなるとその分が金利に上乗せされるので金利が上昇し、負債を抱える企業や金融機関、政府の利払い額が増えて債務不履行・金融破綻が広がるからだ。 とはいえ近年の金融システムは、すべてが教科書通りでなくなっている。実体経済の側のインフレがひどくなっても、教科書通りにそれが金融システムの側の金利上昇になるのかどうか。米連銀などがいくらQEを増額して金融システムの金余りをひどくしても、それを超えてインフレが金利を押し上げるのか。インフレがひどくなってきたら、米政府はCPIに含まれる商品の種類を恣意的に操作するなどして、インフレの公式指標を実体より低めに出すごまかしを強化するだろう。このごまかしが何年も前から行われてきたという指摘もある(このごまかしの要素を除去した「真のインフレ指数」として「チャップウッド指数」が存在しており、それは年率10%前後の上昇だ)。 (Inflation - Running Out Of Road) (Chapwood index) 米当局は以前から、経済成長率・GDPや失業率の公式統計を歪曲してきた疑いがある。同じ手口でインフレ統計も歪曲できる。多くの人々が日々の生活で物価上昇を感じても、当局が統計を歪曲し、マスコミがそれに連動して報道を歪曲すれば、物価上昇を「ないこと」にできるのでないか。米連銀は昨秋、レポ介入という実質的なQEの再開によって、金融危機を「ないこと」にした。それと同じようなことを今後やれるのでないか。その場合、金融システム側の金利上昇も起こらない可能性がある。 (Peter Schiff: Inflation will destroy the dollar and the economy) (米金融覇権の粉飾と限界) 金融バブルが崩壊してもQEで買い支えて「なかったこと」にできた。インフレが起きても統計の歪曲とQEによる金利引き下げで「なかったこと」にする。財政赤字をどんどん増やしてもQEで国債を買い支えるので問題ない。伝統的な金融経済の理論で「悪い」とされてきたことを、次々となかったことにできる。何も問題ない、と言えるのかどうか。ドルのシステムが劣化しても、それが表面化しないような対策がほどこされ、延命している。ドルの劣化や延命も、マスコミ的には「ないこと」になっている。これが現状だ。この状態をこれから何十年も続けられるのか。 (金融危機を無視する金融界) ドルの金融システムが潜在的に劣化している状態はリーマン危機から12年間も続いている。コロナは、ドルの劣化状態をひどくした。だが劣化はコロナ後も顕在化・公式化せず、潜在状態のままだ。この状態がいつまで続くのか不明だ。だが、ドルの劣化が顕在化して実際のドル崩壊になったらその後どうなるかについては、リーマン倒産時からだいたい同じ体制・様相が予測されてきた。最近も、フィンランド中央銀行元幹部で大学教授のペンティ・ピッカライネンが、きたるべきドル崩壊後の世界の通貨体制について、ドル、ユーロ、人民元、日本円、英ポンドといった諸大国の通貨に加えて金地金も有力通貨とみなされる多極型の通貨体制になるとの予測を発している。 (Heading Towards a Multi-Reserve Currency System) 世界の通貨体制が、ドルの一極型から多極型に転換していくという予測や構想は、リーマン危機直後のG20サミットに際して初めて出された。G20サミット自体が、リーマン危機によって戦後の米国単独覇権体制の世界が金融面から崩れたという認識に基づき、その後の多極型の世界体制を代表する組織として、リーマン危機後に創設された。だがその後、米連銀が日欧中銀を引き連れてQEを開始し、リーマン危機によって崩れた金融システムのバブルを再膨張させて延命した。政府統計やマスコミ報道も、米国中心の金融経済システムが蘇生したかのような図式を描き続けた。いろんなものが不健全に歪曲され、コロナ後、それがひどくなった。だが表向きは歪曲など行われておらず、金融経済は健全に蘇生していることになっている。これが現状だ。 (G20は世界政府になる) ピッカライネンの予測によると、きたるべき多極型の通貨体制では、日本円も極の一つになる可能性があるし、金地金も極の一つになる。ドルも極の一つとして残る。半面、リーマン危機後に、ドルに代わる基軸通貨体制の基礎として使われるのでないかと考えられていたIMFのSDR(特別引出権、世界の主要通貨を加重平均した値)は、もはや基軸通貨のシステムとして使われる可能性が低いという。SDRを基軸通貨として使うにはG20やIMFで国際的な合意を形成する必要があるが、米国がQEで金融を延命させる策を破綻するまで続けることにしたため、合意形成の議論が行われず、SDRはドルの代わりの制度として使われないことになった。代わりの制度が用意されないままいずれドルが崩壊してワイルドな形での転換になる。 (Former Central Banker: "The World Is Heading Towards A New Monetary System That Incorporates Gold") 金地金が基軸通貨の一つになるというのもワイルドだ。冒頭で、ドルがインフレになっていく話を書いたが、通貨がインフレになるほど金地金が備蓄資産として注目される。しかし最近、8月後半になってドル建て価格がインフレになりそうだという話が権威筋から出回るのと前後して、金相場は上昇でなく下落している。これは多分、米金融筋がQE資金などを使って先物主導で金相場を下落させ、ドルがインフレになって崩壊感が増しても金相場への資金流出を防ぐことでドルを延命させる策だ。金相場は最近、1オンス2000ドルを超えないように抑止されている。QEによるドルの延命策が生きている限り、ドルの劣化が顕在化しない。先週は株価が一時暴落したが、QEや孫などの資金が暴落を止めている。 (One Day After Zero Hedge, FT "Unmasks" SoftBank As Call-Buying "Nasdaq Whale") ピッカライネンは、ユーロがドルに取って代わる基軸通貨になれなかったことについても述べている。彼は、ユーロは創設時に参加国を増やしすぎたのが失敗だったと言っている。独仏とベネルクスぐらいで創設すべきだったのに、南欧や英国や東欧などを入れてしまった。私の分析では、ユーロやEUに参加国を入れすぎたのは英国の謀略だ。ユーロやEUはもともと米国の多極主義者たち(レーガンら)が、軍産複合体に乗っ取られた米覇権体制を崩すためにドイツをそそのかして作らせたものだ。これに対し、軍産の一味である英国は、EUに入って内側から壊す対抗策をやり、ユーロもEUも参加国が多すぎて失敗するように仕向けた。軍産の国際組織であるNATOも冷戦後に解散するはずが今も存在し、EU独仏を対米従属させている。EUやユーロの展開を見ると、軍産と多極主義者の暗闘があると感じられる。メルケルは多分軍産の傀儡だ。だから軽信者だらけの日本人がメルケルを好む。 (英国をEU離脱で弱めて世界を多極化する) EUは米国に取って代われない。そうなると、米国に取って代わる役をやらせる相手としては中国しかない(もしくは中国とロシアを団結させた上海協力機構)。だからトランプは全力で中国を敵視し、習近平が独裁を強化して米国の覇権体制を崩す動きを強めてくれるよう誘導している。中国は、ドルの利用を控えたり、人民元での石油の国際取引を増やしたり、ドル決済のSWIFTから追い出されかねないので中国主導の決済機構CIPSを立ち上げたりして「ドル離れ」と「人民元の基軸通貨化」を始めている。だが、その動きはまだ試行錯誤の段階で、中国が米国の覇権を引き倒すところまで行っていない。中国は、自国が覇権国(米国のような単独覇権国でなく、多極型世界の地域覇権国の一つ)になることのマイナス面も感じているのでないか。覇権国の一つになると、これまで発展途上国のふりをしていたのができなくなり、国際的な責任を引き受ける義務が増すことなどだ。 (中国の対米離脱で加速するドル崩壊) 今年のコロナ危機は当初、軍産による中国破壊策として立案実行されたものかもしれない。新型コロナが中国だけで蔓延したら、中国だけが経済打撃を受け、多極化の傾向が阻害され、米国の覇権が延命する。だが事態はすぐに軍産と多極の暗闘になり、トランプらが米国と同盟諸国に愚策な都市閉鎖を強要し、コロナは中国より先進諸国の経済に打撃を与える形に転換した。中国は早めにコロナを封じ込め、静かに経済発展へと戻っている。コロナ対策を口実に党内や人民への監視体制を強め、習近平の独裁も強化できた。 (ただの風邪が覇権を転換するコロナ危機) 11月の米選挙でトランプが再選されるだろうが、選挙は米国内の対立を激化し、暴動や失業や貧困が拡大し、来年にかけて米国の実体経済はさらに悪化していきそうだ。米国やドルは劣化が続き、トランプによる米中2極化、中国を敵視して強化する策も続く。中国がドルを引き倒すのか、それとも米国内の要因で金融崩壊が起きるのか。それは来年なのか、それとももっと先まで延命するのか。不確定要素が多いが、大きな方向性はドルと米覇権の崩壊に向かっている。 (It's Being Projected That Over 50 Million Americans Will Be Fighting Hunger By Year-End) そんな中、日本の次期首相は菅義偉で決まりのようだ。石破茂に期待した私の安倍辞任発表直後の分析は外れた。日本の首相が安倍から菅に代わると、誰が上がってくるのか。軍産の一部である外務省などが復権してくると日本にとって悲劇になる。しかし、そっちに行くと菅政権は短命になる。むしろ逆方向の、菅が石破以上の中国への擦り寄りを挙行していく可能性の方が大きそうだ。安倍後の日本の道筋がさらなる中国への擦り寄りであると決まっているのなら、石破でなく私がそれをやりますので首相を私にやらせてくださいと、菅が安倍に頼んだのかもしれない。 (安倍辞任は日本転換の好機)
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