ウォール街のあと出しジャンケン2009年8月11日 田中 宇米国のマスコミや金融界では、最近「高頻度取引」(high-frequency trading)という言葉がよく出てくる。7月初旬、ゴールドマンサックスのプログラマが、同社を辞める前に金融取引用の社外秘のプログラムを盗んだとされる事件が起こった。盗まれたプログラムは高頻度取引用のもので、この取引のやり方によっては不正な市場操作ができてしまうとFBIが示唆したものだから、騒ぎが大きくなった。 (Stock Traders Find Speed Pays, in Milliseconds) ニューヨーク証券取引所やNASDAQなど、株やオプションなどの金融商品についての主要市場の取引は、取引所のコンピューター上で売りと買いをつき合わせて行われるが、市場参加者が売りや買いを立ててから、取引所が売買をつき合わせて取引を成立させ、取引成立の情報を市場参加者に発信するまでの間に、1秒の何分の1かの空白時間(ディレイ)が設けられている。 この空白時間は、すべての市場参加者に対して均一ではない。取引所に毎月50万ドルとかの高い金を払い、取引所のサーバーの一部をレンタルサーバー(コロケーション)として使わせてもらい、そこに自動取引のプログラムを置いて起動させておくと、そのプログラムは取引所の側から、市場に立った新たな売り買いの情報を、他の一般の市場参加者よりも1秒の何分の1か、早く得られる。取引所は、サーバーの内部にいる参加者に情報を発信した後、サーバー外部の参加者に情報を発信するので、そこにわずかな時間差が出るということらしい。 自動取引のプログラムは、1秒の何百分の1かで取引を行えるので、たとえ1秒の何十分の1かでも、他の市場参加者より早く取引の動向を知れることは、一瞬先の株価を先取りして常に儲かる「あと出しジャンケン」が可能になる。市場参加者の一般的な動き方のパターンをあらかじめ組み込んだプログラム(アルゴリズム)を取引所のサーバー内に置かせてもらい、あと出しジャンケンの自動取引を行うのが、今回問題になっている「高頻度取引」である。 (High-Frequency Trading Grows, Shrouded in Secrecy) (プログラムを組んで自動的に行う高頻度取引には、いくつもの種類がある。市場が内包する各種の微妙な誤差や差異を使って大量に売買して儲けるもので、時間的な差異を使った「あと出しジャンケン」的なものは、その一部にすぎない) ▼合法性に揺れる儲けの源泉 今回、高頻度取引が問題になったのは、それがゴールドマンサックスなど米大手金融機関の今年前半の好業績の源泉になっていると見られているからでもある。金融調査会社タッブ・グループ(Tabb Group)によると、米国など300社の金融機関が昨年行った高頻度取引で出した利益の総額は210億ドルだという。別の分析者は、このうち20%ぐらいが、この取引を最も積極的に推進しているゴールドマンサックスの利益となり、ゴールドマンの四半期利益の4分の1は高頻度取引で稼いだものだと推測している。 (Goldman's $4 Billion High Frequency Trading Wildcard) (ロイター通信社の分析者は、タッブ・グループによる210億ドルの利益分析には根拠がないと反論している。ゴールドマンは自社の利益のうち高頻度取引による稼ぎは1%以下だといっている。ゴールドマンは、どうやって金融危機の半年後に史上最高益を出したか発表していないので、どちらが正しいかは不明だ) (High frequency fuzzy math: Matthew Goldstein) 株式市場がコンピューター化される前は、売り買いの突き合わせは取引所のフロアで行われ、そこでは取引所の職員が書き出す新価格を他の市場参加者より少しでも早く知ろうと、各証券会社の場立ちのトレーダーが、職員の近くにひしめき合っていた。今は、電子的にその競争が行われているわけで、取引所のサーバー内にプログラムを置いて動かすことは不正ではなく、取引所も認めていることだと、業界側は反論している。 (What's Behind High-Frequency Trading) 今回問題になった高頻度取引は、以前から行われており、この取引が増えすぎた場合のみ、取引所が業界各社に注意して減らしていたという指摘もある。一方、米議会では、これはインサイダー取引だとして、規制をかけようとしている。 (Wall Street Has a Problem as High Frequency Trading Moves to Washington) 取引所が認めたサーバー内に設置したプログラム売買なのだから不正取引ではないという業界の反論は正しいように見える。しかしもう一つの問題は、この高頻度取引が、今や米国における日々の株式取引の70%を占めていることである。これだけ多いと、プログラムの組み方いかんでは、昨今の実体経済の悪化を無視して株価を上昇させる要因と考えられうる。高頻度取引は、利ざやの小さな取引を膨大な回数で繰り返して利益を大きくするので、取引所にとっても取引出来高が増えて好都合だ。だから取引所は、不正すれすれの取引なのに許している。 このことは逆に、もし米議会が高頻度取引を正式に不正取引とみなして禁止したら、米国株は取引が急に減って暴落しかねないということである。 (Five Reasons the Market Could Crash This Fall) 高頻度取引を手がける米大手金融機関は、各社とも似たようなプログラムを組んで回している。似たようなプログラムによる売買が取引全体の大半を占める現状では、市場参加者の多くが、ある状況下でとる行動が同一のものになる傾向が強い。もし株価の下落によってパニック的な状態になった時には、パニックが急拡大するおそれがある。1998年からの国際金融危機のクライマックスとして、国債市場の高頻度プログラム売買で大儲けしていたLTCMが急転直下破綻した時のことを思い起こさせる。 (High-Frequency Trading and Crash Risks) (世界を揺るがすヘッジファンド危機) ▼悪化し続ける米経済 米経済の基調は、引き続き悪化している。米国の失業率は下がり出したとされているが、不況が長引いて失業手当の支払いが切れたり、職探しをあきらめて失業統計から外れる人が増えていることを考えると、実質的な失業の減少であるとは考えにくい。米国では生活保護(food stamp)を受ける人々が急増して3千万人となっているが、この人々を失業者と考えると、米国の失業率は16%になる。統計発表の9%台より、かなり大きい。 米経済のもう一つの指標である住宅価格は、下がり続けている。ドイツ銀行は先日、米住宅相場は底値までまだ14%は下落し、今は住宅ローン債務者の26%が債務超過(自宅の価値よりローンの価額が大きい)だが、2011年にはこれが48%にまで増えるとの予測を発表した。全米のローン債務者の半分、特にニューヨークでは77%、シカゴでは65%が債務超過に陥るとしている。 (Half of All Mortgage Holders Expected To Be Underwater) 米国ではローン債務者と債権者が対等で、自宅を放棄して出ていけば、ローンも帳消しになる(日本ではローンは債務者について回り、債権者の銀行が過保護な優位に置かれている)。米国では、ローンの債務超過に陥った人は、自宅を放棄してローン返済をやめる傾向が強いが、これは銀行の貸し倒れにつながる。銀行は、続落する住宅を競売にかけても売れず、不良債権が増える。米国では、まだまだ銀行破綻が増えそうである。 シティグループやウェルズファーゴといった大手銀行は、権威あるFT紙からも「幽霊銀行」のレッテルを貼られ、政府から救済されているので潰れていないものの、すでに債務超過で実質破綻していると見なされている。 (A new battle looms on Wall Street) (自宅を出て行かざるを得なくなった人は、家族ごとホームレスとなる。ニューヨークやワシントンDCでは、すでにホームレス救済施設が満員で、当局は、他の町に親戚がいるホームレスの人々に親戚宅までの片道切符の金を負担して、出ていってもらっている) (New York gives homeless people a one-way ticket to leave city) (America's `disappeared': The homeless of the big cities) 米国の「専門家」の中には、不況は終ったと宣言している者もいる。だがこれは、長期的な悪化傾向の中の一時的な横ばい状態を指して「好転する」と言ってしまう間違い、もしくは個人投資家を騙すための意図的なウソである。オバマ大統領の経済顧問をしているローレンス・サマーズは7月初めに「最悪の時期は、まだ終わっていない。たぶん失業はもっと増える。GDPはもっと下がっても不思議ではない」と述べている。 (The worst is not yet over, says Summers) ▼貸し渋りを増やして金融界を儲けさす連銀 このように米国の実体経済は悪化しているのに、金融界は好業績で、株価も上昇傾向である。この背景としてありそうなことの一つが、上に述べた「高頻度取引」である。 金融界の好業績の理由は、ほかにもある。昨秋のリーマンブラザーズ倒産直後の昨年10月8日、連銀は金融救済策の中に、目立たないが決定的な一項目を盛り込んだ。それは、米大手銀行が連銀に預けている資金に対し、連銀が、それまで支払ったことのなかった利息を支払うという新政策だった。 (Why Default On U.S. Treasuries Is Likely) この新政策によって米金融界は、連銀から1%以下の金利で貸し出されたドルを、再び連銀に預けるだけで約3%の預金金利を得られ、何のリスクもなく2%の利ざやを稼げることになった。資金を民間に融資して2%の利ざやを稼ぐには、今の不況下では、大きな貸し倒れのリスクをともなう。米銀行は、民間になど貸さず、連銀にばかりお金を預けたがるようになった。連銀は、建前的には、銀行に対し、できるだけ民間への融資を増やし、景気回復策に貢献してくれと要請し続けていたが、実際にやっていることは、貸し渋りをひどくする副作用を持った銀行救済策である。 (Dead banks walking) これに加えて、米当局は、金融界の決算が好転するような会計基準の変更を容認した結果、金融界の業績は好転した。先日発表された大手保険会社AIGの4-6月期決算も2年ぶりに黒字に転換し、株価は一気に2割も高騰した。しかし、この好業績は、資産評価基準の変更やデリバティブ運用の一時的な好転によるもので、AIGが抱えている巨額のCDS(債権保険デリバティブ)の潜在的な大損失は消えていない。S&Pのアナリストが3月末決算時点で分析したところでは、AIGの一株あたりの資産価値はマイナス337ドルである。 (AIG Share Surge: Is its Stock Really Worth Anything?) AIGは一時的な益出しをしたが、デリバティブの潜在的な大損失の構造は好転しておらず、20ドル台の株価は実態とかけ離れたバブルである。米金融界は、AIGが潰れるとCDSが破綻して金融界ごと大損するので、AIGが好業績発表の翌日、高頻度取引のシステムを大回しして、何も知らない個人投資家の買いを誘ってAIGの株価をつり上げた可能性もある(高頻度取引は、金融界にとって錬金術的な「打ち出の小槌」である)。実態的には、以前の記事で紹介した分析のように、AIG株の価値はいずれゼロになる可能性がある。 (米金融危機再燃の可能性) ▼米国債の売れ残りが急増? 今後、心配が増すことの一つは、米住宅市況のさらなる悪化によって、シティグループなどの幽霊銀行が本当に破綻してしまうことだが、もっと大変な心配がほかにもある。米国債の売れ行き不振による金利高騰やドル崩壊の懸念である。 米財務省は最近、5年もの米国債と7年もの米国債の入札を行ったが、5年ものの売れ行きが悪かった半面、7年ものはよく売れたと発表された。しかし実際には、5年ものの売れ行きが悪かったため、7年ものの入札の際には連銀が売れ残りそうな分を買い取ったとの指摘がある。しかも、連銀の買い取り分はその日の7年ものの総販売の47%もあり、指摘が事実とすれば、すでに米国債は大量に売れ残る状態になっている。 (The United States HAS OFFICIALLY HIT THE TREASURY DEBT WALL) 景気対策費の増加などによって、米政府は財政赤字を急増させており、米財務省は、9月末までに2兆ドルの米国債を売らねばならない。中国やアラブ産油国など、米国外で米国債を買ってくれそうな国々は、米国債購入を嫌がる傾向を強めている。今後ますます、連銀が売れ残りを買わねばならない傾向が強まる。 (Market Review: Weakening dollar, Rising Urban Unemployment) しかし、連銀は金融界を救済するために不健全な資産拡大を続けており、連銀内部からは、これ以上資産拡大を容認できないので、9月中旬までに、連銀が売れ残りの米国債を買う政策を中止したいという声が出ている。連銀は秘密性が高いだけに、内部の意見がこのように外に漏れてくることは、内部にかなりの危機感があると感じられる。 (Fed Set to End Purchases, Two Former Governors Say) もし連銀が売れ残り米国債の購入をしなくなれば、その時点で米国債の売れ残りが顕在化し、米長期金利が高騰し、ドル崩壊の危険が表面化する。最近、米国などの経済裏読み者の分析の中に「9月末ドル崩壊説」を時々見かけるが、米政府が2兆ドルの米国債を発行せねばならないのは9月末までだし、連銀が売れ残り米国債の買い取りをやめる目標時期が9月中旬で、いずれも9月末ドル崩壊説と奇妙な符合を見せている。気になるところだ。 (Many Predict US Financial Collapse in September)
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