神々の崩壊:世界を揺るがすヘッジファンド危機

98年10月13日  田中 宇


 関係者以外の人々にとってはほとんど無名の、アメリカの金融会社の破綻が、世界の金融システムを崩壊させようとしている。ニューヨーク近郊のコネチカット州グリニッジという町にあるロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)という会社である。

 LTCMは、従業員170人ほどの小さな会社だが、世界の金融システムにとっては、扇の要のような、目立たないが重要な存在であった。そして、その重要さが世の中に認識されたのは、9月下旬にLTCMが倒産の危機に陥ってからのことだった。

 LTCMは、いわゆる「ヘッジファンド」の一つだ。だが、世界に3000社あるといわれるヘッジファンドの中では、ずば抜けて運用成績が良かった。1994年に設立されたLTCMは、95年には43%、96年には41%という、高率の運用配当をあげることに成功した。

 アメリカの国債金利が5%前後のときに、40%もの儲けが出せるというのだから、驚異だ。そのため、LTCMは一般の人々には無名だったが、金融業界の人々では、知らぬ者のないような存在だった。

 LTCMの創設者は、大手金融機関であるソロモンブラザースの債券トレーダーとして、ソロモンに巨額の利益をもたらし、副会長までのぼりつめたこともあるジョン・メリウェザー氏。「投資の神様」と呼ばれた彼が目をつけたのは、異なる種類や満期の債券の利回り格差が、一時的に変動しても、その後ある程度の時間がたてば、再び一定に戻る、という債券の市場原理を使って儲けるということだった。

 債券とは金利付きの借用証書であるが、借り手が誰であるかによって、その利率は違ってくる。アメリカや日本などの政府が借り手となる国債なら、予定通り返済されないリスクが低いので、金利は比較的低くなる。

 一方、企業が借り手となる社債は、倒産のリスクがあるので、金利がその分高くないと貸し手が現れない。経営難の企業の社債(ジャンク債)は、優良企業の社債より、金利が高くなる。アメリカでは、住宅ローンや自動車ローンの債権を証券化した債券などもある。

 これらすべての債券は、格付け機関によって格付けされ、それによって金利が違ってくる。たとえば、5年ものの米国債は、「BB3」と格付けされた5年ものジャンク債より、2%ポイントだけ利回りが低いのが普通だ。どちらかの債券の需給が一時的に変化すると、この利回り格差が広がったり、縮んだりするものの、数時間から数日のうちに、市場原理が働いて、元に戻っていく。

 LTCMは、この米国債とジャンク債の利回り格差が広がったら、ジャンク債を買い、米国債を空売りしておく。やがて利回り格差が縮み、ジャンク債は金利が下がる半面、国債の金利が上昇する。債券は、金利が低いほど、多くの人々がその債券をほしがっている(金利が低くても買い手がいる)、つまり価値が高い。

 利回り格差が縮むと、LTCMが買ったジャンク債は値上がりし、売った米国債は値下がりしたことになり、両面で儲けを出すことができる。

●ノーベル賞学者が作った取引プログラム

 とはいえ、1回ごとの利回り格差の拡大や縮小はわずかなもので、いわば水面に立つさざなみだ。それを利益に変えるのは、さざなみを使って波力発電をするようなもの。膨大な量をこなさないと、十分な利益が出ない。つまり、自動化が必要だ。

 そのため、LTCMは、複雑なコンピュータープログラムを組み、無数の債券どうしの利回り格差の変化を自動的に判断できるようにした。そして、そのプログラムを組んだのは、スタンフォード大学教授だったマイロン・ショールズ氏と、ハーバード大学教授だったロバート・マートン氏という、2人のノーベル賞受賞者だった。

 2人は、金融デリバティブの理論を解明し、デリバティブの評価基準や新商品を作りやすくしたことを評価され、1997年にノーベル経済学賞を2人で受賞している。デリバティブの生みの親ともいえる存在だ。そんな2人が作ったプログラムだから、完璧さはピカイチだった。

 さらに、経営者のメリウェザー氏は、1990年代初頭に、アメリカの中央銀行にあたる連邦準備制度理事会(FRB)のナンバー2(副議長)をしていたデビッド・マリンズ氏を、自社の首脳に据えた。

 ウォール街の天才トレーダーが取引手法のアイデアを考え出し、ノーベル賞学者がプログラムを作り、中央銀行の元首脳が加わって会社に箔をつける・・・。LTCMは、これ以上の組み合わせはない、といえる「神々たち」の集団だった。そして、会社設立の翌年に40%もの利益をあげたとなれば、関係者の注目を集めないわけがない。

 ウォール街は、巨額の利益をあげる人々を神格化してしまう場所である。アメリカからだけでなく、ヨーロッパやアジアからも、大手の金融機関が、投資したい、融資したい、といってやってきた。集めた資金を使い切れず、一部を返還しなければならないほどだった。

●ヘッジファンドとは

 ヘッジファンドは、100人以下の個人や法人から資金を集めて運用する金融会社である。無数の人々から金を集める銀行などに比べ、はるかに公共性が低いため、金融当局による監督や規制をほとんど受けていない。

 ヘッジファンドには、大きく分けて2種類がある。一つは「マクロファンド」と呼ばれるもの。下落しそうな通貨や、倒産しそうな会社の株を空売りしておき、予想が現実となるのを待つ(または予想が現実となるように仕掛ける)という、クモが巣を張って獲物を待つような手法である。アジアを通貨危機に陥れた元凶と名指しされるのが、この手のファンドで、ジョージ・ソロス氏の「クオンタム・ファンド」もこの部類だ。

 一方、LTCMのようなヘッジファンドは「市場中立型」と呼ばれる。市場が変化するのを待つのではなく、変化した後で再び元に戻る動きを利用する。マクロファンドのように市場を一方向に揺さぶったりしないため、中立型と呼ばれる。

 LTCMの手法は「中立」で、しかも市場原理に基づく失敗のありえないやり方なので、金を貸しても安全だ、という考え方が、欧米の金融機関の間に広がった。資本金50億ドル(約6500億円)のLTCMが、その20倍にあたる1000億ドル(約13兆円)の資金を金融機関から借り、「絶対儲かる取引」を拡大した。

●世界的信用縮小が始まった

 だが、「絶対に沈まない」と言われたタイタニック号が、あえない最期を遂げたように、LTCMのビジネスにも、落とし穴が待ちうけていた。

 昨年、アジアに始まった国債金融危機は、今年に入ってロシアへと飛び火し、中南米市場、そして国際金融の総本山であるアメリカ市場をも、脅かすようになった。ロシアが事実上の債務不履行を宣言した8月あたりから、欧米投資家の不安が高まり、ロシアや中南米に投資されていた資金が、欧米に逆戻りするようになった。

 世界経済は、1989年のベルリンの壁崩壊以降、欧米や日本からの資金が、アジアやロシア、中南米などの「新興市場」に投資される、という流れが続いたが、それがなだれを打って逆流し始めたのである。同時にアメリカでは、ジャンク債や住宅ローン担保債など、比較的リスクの高い債券が敬遠されるようになった。

 世界的な信用縮小が起こり、行き場を失った資金は、最も安全と思われる米国債市場へと流れ込んだ。そのため米国債は値上がり(利回りは低下)し、ジャンク債などは値下がり(利回りは上昇)した。

 普通ならこういう場合、しばらくすると米国債からジャンク債などに資金が流れるはずだが、投資家のほとんどは不安に駆られているため、そうならなかった。逆に「ジャンク債は危ない」という心理に拍車がかかり、格差は広がるばかりとなった。

 「広がった格差は必ず元に戻る」という「原則」に基づいて取引プログラムを組んでいたLTCMは、短期間に巨額の損失を抱えることになった。9月に入っても市場に「原則」は戻らず、9月18日ごろにはついに、LTCMの危機的状況が、ウォール街の誰の目にも明らかになった。

●金融機関の連鎖倒産もありうる

 13兆円という巨額の負債を抱えたLTCMが破綻すると、金を貸していた金融機関の中から、いくつも連鎖破綻が出てきかねない。しかも、LTCMは「運用の神様」だったから、多くの金融機関が、LTCMと同じ運用ポジションを取っていた。金融機関にとっては、貸した金が返ってこなくなるばかりでなく、自社の運用部門も大損を被ることになった。

 ただでさえ、ロシア経済の破綻やアジア経済のさらなる悪化で、世界の金融機関の損失は増える傾向にある。LTCMの破綻は、世界的な金融破綻につながる可能性があった。LTCM経営悪化のニュースが広まると、世界各地の株価が下落し出した。

 こうした状況をみて、アメリカの金融当局が動いた。ニューヨーク連邦準備銀行は9月20日ごろ、LTCMに融資しているところを中心に、欧米の金融機関15社に声をかけ、LTCMに緊急融資をすべきだと働きかけた。9月23日には、ニューヨーク連銀に15社の代表が集められ、救済融資を渋る各社を連銀が説得、あるいはおどし、35億ドルの救済計画を組み上げた。

 連銀自体は金を出さず、公的資金が使われることはなかったが、日本の大蔵省が金融機関を「指導」するのと同じような、当局の圧力による救済策作りだったことは間違いない。こうした、当局による圧力は、アメリカが日本や他のアジアに対して「そういう不透明なことはするな」と批判しつづけていたことである。

 香港やマレーシア、タイなど、ヘッジファンドによる攻撃の被害を受けた国々の当局者は、アメリカの金融当局が、民間金融機関に圧力をかけてヘッジファンドを救済しようとしていることを、強く批判した。世界経済の模範であったはずのアメリカに対する不信感が強まった、と指摘する専門家もいる。

●名門銀行も傷ついた

 信用を落としたのは金融当局だけではない。LTCMに融資していた欧米の金融機関の信用も失墜することになった。銀行業務の基本からみれば、資本の20倍もの金を借りているLTCMにそれ以上融資することは、かなり危険なことだ。しかもヘッジファンドは当局の監督をあまり受けていないため、経営の実態も不透明だ。

 そんなLTCMに巨額の融資が集まったのは、経営陣が「神様」で、「失敗するはずのない手法」をとって、驚異的な利益をあげていたからだが、LTCMが破綻してみると、それらはすべて「神話」であった。神秘のベールがはがされてみると、貸し手の金融機関は「何でこんな会社に、こんなに貸したのか」と批判されることになった。

 最大の債権者となりそうなスイスの名門銀行UBSは、3人の経営陣が引責辞任した。イタリアの中央銀行は2億5000万ドルを投資していたが、担当者は「LTCMがヘッジファンドだとは知らなかった」とコメントした。

 LTCMが破綻する直前、FRBのグリーンスパン議長は、ヘッジファンドについて米議会で証言し、「融資している民間金融機関の方が、政府よりもヘッジファンドの実態を把握しており、彼らが(融資を通じて)ヘッジファンドを管理してくれる」と述べた。だが実際には、それは全くの空論だった。

 FRB主導の緊急融資によって、 LTCMの危機が終わったわけではない。一時しのぎのつなぎ融資をしただけだ。しかも、他のヘッジファンドの中にも、経営難に陥るところが出てきた。最近のドル安円高傾向は、こうしたヘッジファンドが、円安を予想して持っていたドル買いポジションを崩したことにより、発生している。

 FRBやヨーロッパの金融当局は、世界的にヘッジファンドに対する規制強化を検討した。だが規制を強めれば、ヘッジファンドは誰の規制も受けないオフショア市場へと逃げた上で、同じことを続けるだろう。むしろ、貸し手の金融機関の経営体質を見なおした方がいいのだが、これは短期間に達成することはむずかしい。問題は解決されぬまま、存在しているのである。

 
(第2部「欧米銀行に広がる突然死の不安」に続く)





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