アメリカによる世界経済支配の終焉2004年1月8日 田中 宇2003年8月、タイ政府は1997年の通貨危機からの「救済策」としてIMFから借りていた資金を、予定より2年前倒しで返済し終わった。このことは、タイの人々にとってナショナリズムの高揚につながる出来事だった。タイの国営テレビでは、タクシン首相が巨大な国旗の前に立ち「わが国は、二度と国際金融資本の餌食になることはない」と誓いを立てる姿が放映された。タイ内外のマスコミは「タイはようやくアメリカの経済植民地から独立した」などと報じた。 タイがアメリカの「経済植民地」だったというのは、誇張した表現ではない。タイ人の中のかなりの部分は、1997年の通貨危機と、その後IMFによる「救済」に名を借りた締めつけ策が、アメリカによる謀略だったと考えている。 市場が比較的開放されていたタイは、通貨危機が起きる前、アメリカが推奨する自由主義の経済政策を実行する優等生国の一つだった。金融格付け会社も、タイの国債に対して高い評価を与えていた。冷戦後、アメリカは「市場は開放されているべきだ」「財政赤字はない方がよい」「国営企業は民営化されるべきだ」「規制は少ない方がいい」といった「市場原理」主導の経済政策の原則を打ち出し、自国と世界各国がこれを守るように求めていた。タイは「ワシントン・コンセンサス」と呼ばれるこの原則を守っていた。 この原則は、冷戦が終結しつつあった1989年に世界銀行のエコノミストだったジョン・ウィリアムソンという人が最初に提唱した。当初は、中南米諸国の経済の不安定さを改善するために考えられたもので、世界銀行やIMF、米財務省など、ワシントンにあった経済関係の諸機関がこの政策を守る方向で合意したことから「ワシントン・コンセンサス」と呼ばれた。(関連記事) 当時はちょうど、ソ連崩壊でそれまで社会主義陣営にいた国々が、ソ連からの経済援助と経済政策の指針を失い、困っていた。アメリカは、世銀やIMFを動かしてそれらの国々に資金を提供する見返りに、ワシントンコンセンサスを遵守せよと要求した。 ▼ワシントンコンセンサスを遵守して危機に陥った タイは、ワシントンコンセンサスに沿って金融市場を対外開放し、1993年には外国人投資家が自由に資金運用でき、タイ企業にとっても資金調達しやすいオフショア市場(国内金融市場と切り離した「出島」のような市場)を作った。 当時、タイでは輸出産業が急拡大していたので産業界の資金需要が旺盛で、お金を借りたい会社が多くて金利が高くなっていた。タイでは中央銀行が介入して通貨バーツの為替をドルに対して一定に保つ「ペッグ制」を採っていたため、バーツは安定した通貨として評価されていた。これらの作用から、タイは金利が高く為替も安定している有利な投資先として世界的に好まれるようになり、バーツ建ての預金や証券投資を求め、資金がオフショア市場を通じて大量にタイに流れ込むようになった。 ところが1995−96年ぐらいから、タイより賃金が安い中国などが新たな輸出産業の拠点として台頭してきた。タイでは輸出が減り、貿易赤字(経常赤字)が増えだした。その一方で、海外からの資金流入は止まらなかったので、産業界に投資し切れない資金が不動産投資に回って地価を高騰させるなど、経済がバブル的になった。 こうした不安定さに目をつけた国際投機筋が1996年末から3回にわたる大量のドル買いバーツ売りを行い、それと前後して外国からの資金が急速に引き揚げられた結果、中央銀行は為替を守りきれなくなってバーツが暴落し、タイでは金融機関や企業の破綻が相次ぎ、一気に不況になった。東南アジアでは、タイと同様に通貨をドルにペッグしていた国が多く、パニックに陥った外国投資家の資金は、それらの国々からも引き揚げられ、インドネシア、フィリピン、韓国などに通貨暴落が広がり、通貨危機はロシアや中南米にまで波及した。 ▼最初はIMFに期待していたタイ人 通貨危機発生の後、タイ政府はIMFに緊急融資を頼んだ。1997年7月、IMFの担当者たちがタイにやってきたとき、タイのマスコミや野党系の人々らは「これで、無責任で無能なわが国の政治家、財界人、高官たちにお灸が据えられ、浪費や愚行が改められるだろう」と期待し、IMFを歓迎した。ところが、その1カ月後、IMFがタイ経済を改善するためと称して打ち出した政策は、タイの人々の期待を裏切るものだった。 IMFは、危機前からの高金利政策を維持するとともに、政府支出を大幅に削ることを要求した。高金利は外資が逃げないようにするための政策だったが、同時にタイ国内の企業の資金調達を難しくしてしまい、不況に陥ったタイ経済をますます冷え込ませる結果となった。 政府支出の削減の方は、ほとんどプラスの効果がない政策だった。タイは危機の前年まで財政は黒字で、むしろ不況時には政府の支出を少し増やし、民間経済が冷え込んだ分を政府部門の支出で補う政策が望ましかったのに、IMFが打ち出したのはその逆の方針だった。財政赤字の削減は、ワシントンコンセンサスの一般的な「教義」には合致していたが、通貨危機後のタイに適用すべき政策ではなかった。 加えてIMFは不良債権を抱えたタイの金融機関の即時閉鎖と、外国資本がタイの金融機関の株を買えるようにする施策を求めた。タイ政府は、外国勢に株を買ってもらうのではなく、タイ国内で強い銀行と弱い銀行を合併させ、もっと弱い銀行は一時的に国有化するという、昨今の日本と同じ方式で金融危機を乗り切ろうとしたが、IMFはそれを拒否した。 IMFは、通信、エネルギー、交通などの公益部門の企業を民営化し、タイ企業を外資が買収することを制限している規制も撤廃せよとタイ政府に要求した。タイの国会は、外国の金融機関がタイの金融機関の株を100%持っても良いとする法案を可決させられた。 こうした展開をみてタイの人々が疑い出したのは「通貨危機はアメリカの金融機関、金融当局と投機筋が組んで、タイの主要企業を乗っ取り、経済成長の果実を吸い取るために仕組んだ出来事だったのではないか」ということだった。アメリカ側からは、タイの人々の疑いを裏打ちする発言も出てきた。たとえば1998年2月、通商代表だったバーシェフスキーが米議会で「タイの公益企業が民営化されれば、アメリカ企業が買収できるチャンスが高まる利点がある」と発言している。(関連記事) ▼輸出中心経済をやめる「タクシノミクス」 IMFはタイのほか、韓国やインドネシアに対しても同様の厳しい政策を敷いた。韓国では人々の反米感情を煽り、インドネシアではスハルト政権を窮地に追い込んで潰してしまい、長い政治混乱と社会不安を引き起こした。反感が世界的に高まったため、IMFはその後、危機に陥った諸国に強要した過剰な緊縮政策を緩和の方向で修正するようになった。 その流れの中、タイで登場したのがタクシン政権だった。華人系ビジネスマンで警察官僚出身のタクシン・シナワットは2001年に首相に就任したが、選挙期間中から、タイの経済発展はワシントンコンセンサスによるIMF方式ではなく、農村振興や国内需要の拡大策を行って、輸出産業を中心とした従来の経済体制から脱却することが必要だと主張した。タクシンは、自分の新政策を「タクシノミクス」(タクシン型経済。アメリカのレーガン大統領の「レーガノミクス」にならった命名法)と呼んで推進した。 タクシンは、タイの人口の半分を占めながら、収入としては国民全体の15%しか得ていない農村部が豊かになれば内需が拡大するという考えから、全国に7万ある村々にそれぞれ100万バーツ(約250万円)ずつの資金を低利融資し、合わせて「一村一品運動」を行って農産物加工などの新産業を農村に起こそうとした。また、国営銀行に命じて中小企業に対する融資を増やす中小企業振興策も開始した。 その一方、タイ企業が外資に買収されないよう、経営難に陥った企業に政府が金融支援を行ったり、銀行を救済するために不良債権の分類基準を緩和して見かけの不良債権額を少なくする政策を実施した。対外貿易では多国間のWTOより2国間のFTAを重視し、コメやゴムなど周辺国と競争関係にある商品について、周辺国と談合して価格カルテルを結ぶ戦略も採っている。 元来、輸出産業が主導していたタイ経済にとっては、日米欧など先進国がタイの商品を買ってくれることが最も重要だったが、頼みの綱の先進国経済は日米欧ともふるわず、2001年からはアメリカも不況に入った。タクシンが従来の政権と同様に輸出産業だけを重視する政策を採っていたら、タイは再び不況に陥っていた可能性がある。その意味で「タクシノミクス」はタイミングが良かった。 タクシン政権は、ローン金利を下げて消費を煽る政策も行った結果、タイ経済は拡大し、2002−03年には2年連続で5%を上回る経済成長となった。対外債務は減り、財政は黒字化し、外貨準備も増えて、通貨危機の原因となった諸要因は改善された。この流れの中で、タイはIMFから借りた金を前倒しで返済し、タクシンは「再独立」を宣言した。 タクシンは、これまでタイは政治体制が安定しにくかったことがマイナスだったと主張し「マレーシア(マハティール)やシンガポール(リークァンユー)のように、タイにも強い指導力が必要だ」と言っている。 そして、首相である自分に権力を集中する政策転換を行い、首相官邸が自由に使える予算を3・5倍に急増した。これらの強権策は野党などから「独裁政治だ」と批判されているが、人口の半分を占める農民層は農村振興策のおかげでタクシン支持が多く、タクシンは2005年の次期選挙でも勝って、タイの歴史上初めて首相が再選されるのではないかと予測されている。(関連記事) ▼IMFに逆らってもアメリカに評価される時代に タクシンの政策の多くは、IMFの政策とまっこうから対立するものだった。だがアメリカも、クリントン政権の末期には経常赤字が拡大し、ブッシュ政権になってからは財政赤字も急増してしまった。 かつてアメリカやIMFは「アジア諸国は政治家と財界が癒着し腐敗しているので経済が不安定になる」と批判していたのに、最近の2−3年はアメリカ自身がエンロンやワールドコム、イラク復興をめぐるハリバートンなど、政治家と癒着した企業の巨大な腐敗がいくつも出てきて、しかもそれが何の裁きも受けず、闇に葬られる事態となっている。 このようにアメリカ自身が、ワシントンコンセンサスの基準からみれば「堕落」しているため、もはやタクシンのやり方を批判できなかった。タイがIMFに借金を返した時点で「ワシントンコンセンサスは死んだ」と評する記事が、タイや欧米の新聞に出ることになった。 タクシンはIMFのやり方には逆らったが、アメリカに対しては全く敵対していない。むしろタイは、イラクとアフガニスタンの戦地に軍隊を派遣してアメリカを外交的な孤立から救ってやる努力をしている。中国とマレーシアがロシア製のミサイルを購入したことから、アメリカはその間にあるタイにアメリカ製のミサイルを売り込んで軍事バランスをとろうと試みたが、それにも応じてミサイルを買っている。(関連記事) タクシンは反米主義ではなく、むしろアメリカが「ワシントンコンセンサス」に象徴される経済による世界支配のやり方を捨て、「テロ戦争」など軍事による世界支配に切り替えたことをいち早く察知し、国策を変更させたのだと思われる。 アメリカ海軍の研究所は2003年12月に「タクシノミクスはアジアの新しい規範となるか」と題する報告書を発表した。その結論は「タクシノミクスは農村振興策や中小企業重視など、貧困層を豊かにする政策を含んでいる。テロ組織は貧困層を狙って組織を拡大することを考えると、タクシンの政策は、テロ防止に役立っている。インドネシアやフィリピン、マレーシアなど、イスラム教徒を抱える国々は、タイの実験的政策に関心を示している」と結んでいる。この結論からは、国防総省が主導するブッシュ政権がタクシノミクスを評価していることがうかがえる。 ▼IMFは処方箋を「間違えた」のではない タイだけでなく、1997年に通貨危機に陥ったアジア諸国は、その後経済成長を回復させている。しかし、そもそも通貨危機がなぜ起きたのか、真相は不明な点が多い。 バブル経済や経常赤字といった不安定さがあるだけでは、通貨は暴落しない。しかも、東南アジア諸国の経済状況は一様ではなく「暴落は伝染する」という考え方が、現実の危機に先だって存在していない限り、タイで起きた通貨危機が他国に波及することもなかったはずだ。誰かが投資家を扇動し、暴落を伝染させる戦略を採っていた可能性が大きい。 つまり、通貨危機は腐った木が倒れるように自然に起きたのではなく、人為的に引き起こされたものだと考えられる。しかも、何人かの民間の「投機筋」が組んだからといって、それで金融危機を起こせるものではない。 世の中では、アジア通貨危機について「一匹狼的な投機筋が暴落を引き起こし、被害各国を救済する過程でIMFが処方箋を間違えた」というシナリオが常識になっている。だが、だとしたらそれまで国際金融取引で自国の金融機関を儲けさせていたアメリカ当局は、投機筋に壊されないように国際金融システムを補強修繕し、再びアメリカの金融機関が国際取引で儲けられる状態に戻す努力を行うのが自然な流れだったはずだ。 ところが現実には、アジア通貨危機後、世界の投資家は国際金融取引の分量を減らしてしまった。タイなどアジア諸国はいまだにペッグ制を使って通貨を安定させる政策を続けているのに、その後は投機筋による攻撃も全くない。通貨危機の前、アメリカの金融機関や経済専門紙が、世界の投資家に向けて「振興市場に投資すると有利だ」と宣伝しまくっていたのに、それもほとんど消えた。アジア通貨危機を機に、アメリカは国際金融取引で大儲けする戦略をやめてしまったように見える。 通貨危機後、タイや韓国の人々は自国がアメリカの経済植民地になることを恐れていたが、現実的には、あまりそのような動きは起きなかった。タイでは、いったん決まった電話会社の民営化が、その後先送りされたりしている。 そもそも、タイも韓国もインドネシアも、アメリカとは親密な国で、通貨危機につけ込んで露骨な「植民地化」をして人々を怒らせなくても、もともとかなりの利益をアメリカ企業に与えていた市場だった。公益企業の民営化も、IMFが暴力的に進めなくても、歴史的な必然としてゆっくりだが進んでいたはずだ。 むしろ、IMFが強行した政策は「植民地化」ではなく、アジア経済の破壊が裏の目的だったのではないか、と疑いたくなる。通貨危機後、アメリカ自身が経済重視の姿勢を捨て、軍事と破壊の時代に入った経緯を見ると、ますますそう感じられる。 ▼IMFの強硬策は単独覇権主義への序章だった? 通貨危機をきっかけにアメリカの経済発展がかげり出した時期は、アメリカが外交政策を経済中心から軍事中心の「単独覇権主義(一強主義)」に転換した時期と一致する。クリントン政権は1998年にアフガニスタン、イラク、リビア、北朝鮮などを「ならず者国家」に指定する政策を打ち出した。 それまでインド洋から中央アジアにパイプラインを敷設するためにフガニスタンを安定化できる勢力としてアメリカに支持されていたタリバン政権は、一転してアメリカの敵に回された。共和党系のタカ派とネオコンが新組織PNAC(アメリカ新世紀プロジェクト)を作り「イラクに侵攻してフセイン政権を潰すべきだ」という上申書をクリントンに出し、今回のイラク戦争につながる動きを開始したのも1998年のことだ。(関連記事) そして1999年には米議会上院が包括的核実験禁止条約(CTBT)の批准を否決し、それまで核軍縮を進めてきたアメリカ自身がその流れを止めたうえ、休止していた「実戦で使える小規模な核兵器」の開発を再開した。アメリカが核兵器開発を再開したのを見て「ならず者国家」と名指しされた北朝鮮やイランは、アメリカの脅威に対抗するため核兵器の開発を強化した。アメリカの行動は、核軍縮とは正反対の、核兵器を拡散させる影響をもたらした。 アメリカでは冷戦の終結とともに「単独覇権」「先制攻撃」「テロ組織やならず者国家と戦うための軍拡」などを打ち出すタカ派(軍産複合体)の戦略が出てきて、その一部は湾岸戦争で実戦された。それに対してクリントン政権は「経済グローバリゼーションを貧しい国々にも広げて豊かにすることで、テロや反米主義の根源を絶つ」と主張し、クリントンの経済中心の戦略が成功していた間は、タカ派の主張は退けられていた。ところが、アジア通貨危機によって経済中心の戦略が終わるとともに、タカ派の主張が復活した。 アジア通貨危機に対するIMFの処方箋が明らかな愚策で、アメリカがIMFにわざわざアジアなどの新興経済諸国を破壊する政策をやらせたように見えることを考えると、当時の米政権中枢は、すでに経済中心の戦略に限度があると考え、戦略転換を図ったのかもしれない、と思えてくる。 失策の結果か、意識的な戦略転換かは分からないが、アジア通貨危機の後、アメリカは軍事中心の単独覇権主義を強めていった。クリントンは大統領の任期末の2000年春以降、北朝鮮問題とパレスチナ問題を何とかして任期中に解決しようと全速力で取り組んだが、いずれも失敗している。これは、クリントンが自分の後に軍事中心の超タカ派の政権ができることを予測し、その前に世界を不安定にする2つの国際問題を解決したかったのではないかと思われる。 (北朝鮮問題の解決は、アメリカの資本家にとって金の卵を産む鶏である中国を安定させる。パレスチナ問題の解決は、中東の危機を扇動するイスラエルをおとなしくさせる) アジア通貨危機を引き起こした「犯人」としてマハティールから名指しされた投機筋のジョージ・ソロスは、2003年の中頃から「ブッシュを絶対に再選させない」という運動をやっている。もしかするとソロスは、自分がかつて参加して起こしたアジア通貨危機が、実はアメリカの世界戦略を軍事の方向に転換させるために軍産複合体が引き起こした作戦だったことを後から知り、自分を引っ掛けた軍産複合体に逆襲しようと、これまでに投機で儲けた金を使い、ブッシュ再選を何とか阻止しようとしているのかもしれない。(関連記事) ▼テロ戦争とIMFの「救済策」 インドネシアではIMFの「救済策」を強要され、政治的に窮地に陥ったスハルト政権が崩壊し、長い政治混乱と社会不安、貧困の拡大を生み出した。これはその後、米当局が911事件を予知しながら発生を容認したふしがあり、911後の「テロ戦争」が事実上、世界に対するアメリカの軍事支配を強化する永続的な戦略になっていることを思うと、アメリカがインドネシアを大混乱に陥れ、貧困層が増えてイスラム原理主義の運動が拡大し、アメリカの「敵」になってくれることを望む戦略だったのではないか、と思えてくる。 同様に、通貨危機はロシアにも飛び火したが、これも軍事的にみると別の見方ができる。アメリカの軍産複合体やネオコンは、1992年に国防総省のウォルフォウィッツが起案した世界戦略以来、従来ロシアの影響下にあった中央アジア諸国を軍事的にアメリカがおさえ、ユーラシア大陸の中心部という地政学的に重要なポイントを支配する戦略を打ち出している。 この戦略は2001年末のアフガン戦争を機に、中央アジアに米軍基地がいくつも新設されることで実現したが、この流れの中に1998年のロシア金融危機を置くと、この危機によってアメリカがロシアを経済的に牛耳ろうとしたのではないかという仮説が出てくる。
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