他の記事を読む

ネオコンの表と裏(上)

2003年12月14日   田中 宇

 記事の無料メール配信

「ネオコン」(新保守主義)は、イラク戦争に突入する過程でアメリカの世界戦略の決定権を握った感があり、日本でもネオコンについてすでに多くの書物や記事が書かれている。私自身、イラクに侵攻すべきか否かという論争が米西権の中枢で激しくなった昨年8月以来、ネオコンという言葉が登場する記事をたくさん書いており、検索したら75本あった。

 だが私はこれまで「ネオコンとはどのような人々なのか。彼らの目的は何か」ということについて、深く分析した記事を書いていない。それは、彼らが自称していることや、彼らについて一般的に言われていることが、どうも鵜呑みにできないと感じたからだった。ネオコンの戦略には隠された裏の真意があると思われたが、それが何なのか、なかなか確定的なかたちで明らかにならなかった。

 日米など世界のメディアの多くは、ネオコンを「アメリカは民主主義を世界に広げることを国家としての目標にすべきで、世界を民主化するためにアメリカの圧倒的な軍事力を活用すべきだ」と主張する「理想主義者」の集団であるとしている。ネオコンの主張によると、従来のアメリカは世界の安定を重視するあまり、世界各地の独裁政権に対して甘い態度を採る「現実主義者」(中道派)が主導してきたが、その結果、フセインや金正日といった危険な政権がのさばる状態になっている。この悪しき現実を改めて、イラク侵攻を皮切りに世界を民主化するのだ、というのがネオコンの考えで、ブッシュ大統領はこれに感化されてイラク侵攻に踏み切った、とされている。

 私がネオコンの主張を鵜呑みにできないと感じた理由の一つは、彼らが「イラクを民主化する」と言いながら、その準備をほとんど何もしていなかったことだ。ネオコンの筆頭格であるウォルフォウィッツ国防副長官は「米軍がフセイン政権を倒せば、その後は自然にイラク人の手で順調に新しい民主政権ができるはずだ」と予測していた。この予測について「実際にフセイン政権が倒れた後になって、ウォルフォウィッツは自分が甘かったことに気づいた」という分析記事を見た覚えがあるが、それは多分間違いである。

 ウォルフォウィッツは1981年にレーガン政権で中東担当者として国防総省に入って以来、1993年に大統領がパパブッシュからクリントンに交代するまで、ずっと政権内で中東の安全保障戦略を練り続けていた。国防次官補だった湾岸戦争時には、当時のチェイニー国防長官のもとで、イラクに対する戦争のやり方を研究していた。そんな専門家であるウォルフォウィッツが、複雑な多民族・多部族国家であるイラクが込み入った調整なしに民主主義体制に移行できると思っていたはずがない。

▼イラクを民主化するのではなく混乱させるのが目的?

 今回のイラク戦争に際し、国防総省の高位を占めるウォルフォウィッツ(ナンバー2)やダグラス・フェイス(ナンバー3)、リチャード・パール(特別顧問格)といったネオコンの人々は、911の直後から「サダムとアルカイダは関係ない」と分析していたCIAを「信用できない」と非難し「特殊計画室」(Office of Special Plans、OSP)と呼ばれる独自の諜報分析機関を作った。

 そこでは、CIAやイギリスのMI6、イスラエルのモサドなどの諜報機関が集めてきた諜報の膨大な生データの中から「イラクが大量破壊兵器を持っている」「アルカイダととつながっている」という主張を裏付けられそうなものだけを取り出してつなげ、開戦に慎重なCIAとは違う分析結果を出し、イラクに侵攻できる開戦事由を「作る」作業が行われた。(関連記事

 特殊計画室は「イラクはアフリカから核兵器の原料となるウランを購入していた」「イラクの諜報部員が911実行犯とチェコで会っていた」「イラクは化学兵器製造設備をトラックに乗せて常に移動させ、隠している」などという「開戦事由」を作った。そのほとんどは間違いだったが、CIAが「その情報は信憑性が低いです」と警告しても無視され、結局イラク侵攻が実現した。

 ネオコンによるこれらの行動を見ると、彼らはイラクを民主化する気などなく、単に米軍を動かしてイラクの政権を潰し、混乱させることが目的だったのではないかと感じられる。しかし、それは何のためだったのか。それが分からない以上、ネオコンを理解したことにならないと私には感じられた。

▼家族関係で結束しているネオコン

 私がネオコンの本質を理解するためにやったことは、彼らがたどってきた歴史を調べることだった。ネオコンと呼ばれる人々には、思想面以外の共通点がいくつかある。その一つは、ニューヨークなどアメリカ東海岸に住むユダヤ系で、学者肌の家系にいる人が多いということである。

 ウォルフォウィッツの父親は1920年にポーランドから移民してきた数学者で、ユダヤ人差別が激しくなった東欧を逃れ、コーネル大学の教授に招かれた。ダグラス・フェイスの父親(Dalck Feith)もポーランドからの移住者で、シオニズム(イスラエル建国運動)の闘士だった。フェイス親子は、シオニズムに対する貢献を讃えられ、イスラエルの政府系団体から表彰されている。

 ネオコンの多くは東欧出身のユダヤ系(アシュケナジ)だというだけでなく、中心的なメンバーの間には相互に血縁関係がある。血縁関係のある人々に、政策的・学術的な経験を積ませ、次世代のネオコンとして育てている感がある。

 ネオコンの元祖といわれる人物は、アービング・クリストル(Irving Kristol、1920年生まれ)とノーマン・ポドレツ(Norman Podhoretz、1930年生まれ)という長老の2人の言論人だが、クリストルの息子であるウィリアム・クリストル(William Kristol)はネオコン系コラムニストの筆頭格になっているし、ポドレツの娘は、現在大統領補佐官をしているネオコンのエリオット・アブラムス(Elliott Abrams)と結婚している。(父クリストルやポドレツをネオコン1世、パールやウォルフォウィッツをネオコン2世と呼ぶことができるかもしれない)

▼脅威を誇張して儲ける「軍産複合体」

 ネオコンの多くは1970年ごろ、民主党の上院議員だったヘンリー・ジャクソン(Henry Jackson)の事務所で政策秘書として一緒に働き出し、それが彼らの政界での人生の始まりだった。ジャクソンは、ソ連に対して強い反感を持ち、米ソ間の軍縮に反対するタカ派で、1950年代にはマッカーシー上院議員らと組んで、政府や軍内にいる「共産主義容認派」を追放する「赤狩り」のキャンペーンをやったりした。

 ジャクソンのもう一つの特徴は軍事産業と深いつながりがあったことで、核兵器の開発と、原子力の発電への利用促進政策を主張した。1952年に下院から上院に転じる選挙で当選できたのは、軍事・原子力産業からの支持の結果だった。ジャクソンは、ベトナムをソ連の脅威から守るためにアメリカが介入すべきだと主張し、事態をベトナム戦争に駆り立てた。(関連記事

 1948年ごろから始まった米ソの冷戦は、1953年の朝鮮戦争停戦やスターリン死去の後、いったんは緊張緩和に向かった。だが軍事産業や、それとつながりの深いジャクソンのようなタカ派の政治家や研究者などは、緊張緩和によって軍事費が減ることを阻止しようとした。彼らは「ソ連はアメリカまで飛行して核爆弾を落とせる新型爆撃機(バイソン型爆撃機)を無数に持っている」という分析結果をまとめて政府に提出した。

 だが、当時のアイゼンハワー大統領は元将軍で、この分析結果が推量や噂に基づいたもので、裏づけに乏しいことに気づいた。そのためアイゼンハワーは、ソ連上空をレーダーに関知されない超高度で飛び、ソ連がバイソン型爆撃機を何機持っているか撮影できる偵察機「U2」を急いで開発することを軍とCIAに命じた。U2は1956年にソ連のミンスク市上空を飛び、その結果、実はソ連の新型爆撃機はアメリカの脅威になっておらず、米国内の軍事産業系の勢力が出してきた報告書は、脅威を誇張していることが判明した。(関連記事

 この後、アイゼンハワーはソ連の脅威を誇張する軍事産業・政治家・軍事専門家などの集合体を「軍産複合体」と呼び、アメリカにとって危険な存在であると警告した。

 しかし、その後も「軍産複合体」の勢力は「ソ連はアメリカの2倍以上のミサイルを持っている」「ベトナムでのソ連の影響力拡大を阻止しないとアジアの親米国がどんどん共産化してしまうだろう(ドミノ理論)」「アメリカには、ソ連のミサイルを撃ち落とすミサイル防衛体制が必要だ」といったような、軍事費を急増させるための誇張した報告書や分析書を政府に提出したり、新聞にリークする行動を続けた。アイゼンハワーの次の大統領となったケネディは、誇張に引っかかってベトナム戦争を拡大させた。ジャクソンはそうした軍産複合体の一角を担う政治家だった。

▼軍産複合体に弟子入りしたシオニスト青年たち

 パールやウォルフォウィッツらネオコン青年がジャクソンの事務所で働くようになったのは、軍産複合体系の学者だったアルバート・ウォールステッター(Albert Wohlstetter)という核兵器戦略を専門とするシカゴ大学の教授のすすめだった。パールもウォルフォウィッツも彼の教え子だった。パールはウォールステッターの娘と結婚しており、ここでも「血の結束」が感じられる。

 ウォールステッターはネオコン青年たちをジャクソンの事務所に送り込んだ後、ジャクソンとともにソ連の脅威を煽るキャンペーンを開始し、ネオコン青年たちはその作業を手伝った。イスラエルを強く支持するネオコンの青年たちが、軍産複合体の一角を占めるジャクソンの事務所に弟子入りした背景には、アラブ諸国との激しい対立を続けていたイスラエルが、自らの軍事力を強め、アメリカの外交政策をイスラエル寄りにしておこうとする戦略があったのではないかと思われる。

 1960年代は、イスラエルとアメリカの関係が好転していく時代だった。スエズ運河を国有化したエジプトを、英仏とイスラエルが組んで攻撃した1956年の第2次中東戦争(スエズ動乱)ではアメリカはイスラエルを非難したが、その後エジプトとシリアというイスラエルの仇敵だった2国が社会主義の方向に傾いたため、1967年の第3次中東戦争では、アメリカはイスラエルに味方した。反共主義者のジャクソンも、この流れの中でイスラエルを支持するようになった。

 彼は1974年には、ソ連に対する経済制裁法として歴史に名を残す「ジャクソン・バニク修正法」を議会に通しているが、この法律はもともと、ソ連からイスラエルに移民しようとするユダヤ人に対し、ソ連政府が多額の課税を行って事実上出国を禁止したことに対する制裁措置として考案されたものだった。

 わずか6日間の戦争でイスラエルがアラブ諸国に圧勝した第3次中東戦争(六日戦争)は、アメリカのユダヤ系の人々に「イスラエルは強いんだ」と思わせる効果があった。アメリカ東海岸を中心とするユダヤ系コミュニティではシオニストが力をつけ、イスラエルへの移住運動や支援活動が盛んになった。当時まだ感受性が強い20歳代だったネオコンの青年たちも、この流れの中でイスラエルを強く支持するようになったのだと思われる(彼ら自身はこのあたりの経緯について何も語っていない)。

▼冷戦を煽った「Bチーム」

 軍産複合体の中で貢献し始めたシオニスト青年たちは、やがて頭角を現すようになった。当時アメリカの中枢は、ソ連に対して宥和策と強硬策のどちらを採るべきかをめぐり、激論と政治闘争が続いていた。1969−74年の共和党ニクソン政権では、ソ連との宥和策が採られたが、ニクソンがウォーターゲート事件で辞任した後に副大統領から昇格したフォードの政権では、しだいに強硬派が強くなった。そしてフォード政権の政策を強硬派に転じさせる動きを演出したのが、ジャクソンやウォールステッターたちだった。

 彼らは1973年にジャクソンの事務所内に「民主的多数派のための連合」(Coalition for a Democratic Majority、CDM)などいくつかの組織を作り、そこを拠点に「ソ連はアメリカよりもたくさんのミサイルや核兵器を持っているのに、CIAは宥和策を裏付ける政治目的のため、ソ連の脅威を低めに見積もっている」という主張を開始した。そして、CIAが持っているソ連の核兵器に関するスパイ情報を自分たちにも見せて、CIAの分析が正しいかどうか確認させろ、と政府に要求した。政権内外にいるタカ派(「軍産複合体」系)の政治家やマスコミ、評論家はこぞってCDMの主張を支持した。

 1976年の大統領選挙が近づいており、共和党ではタカ派のレーガンが優勢になっていた。フォード政権はタカ派をなだめるため、CIAが持っているソ連関係の機密情報をCDMにも見せることにした。CIAが持っている機密情報を、CIA自身(Aチーム)とCDM(Bチーム)というAB2つのチームが別々に分析し、ソ連の脅威を測定して報告書を作っているという意味を込めて、CDMは自らを「Bチーム」と呼んだ。Bチームが作った報告書(Team B reports)は、ソ連は経済生産(GNP)のすべてを軍事開発に振り向けている前提で書かれ、ソ連の軍事力を実際よりもはるかに大きく見積もっていた。その後の数年間で、この報告書のほとんど全体が間違いであることが判明した。(関連記事

 Bチームの主要メンバーの中には、ネオコンのウォルフォウィッツが含まれていたほか、ポール・ニッツェ(Paul Nitze)やリチャード・パイプス(Richard Pipes)といった冷戦に対するアメリカの軍事政策を練った中心人物だった著名なタカ派の長老学者たちが名を連ねていた。当時のCIA長官はパパブッシュ、国防長官はラムズフェルドで、この2人はチームB報告書を支持した。半面、国務長官だったキッシンジャーは、この報告書の歪曲性を指摘した。ソ連との和解を模索し続けたキッシンジャーら均衡戦略派(中道派)と、ソ連との対立を拡大したがったタカ派との対立は、すでにかなり激しくなっていた。

「CIAの分析は間違っている」「敵はもっと手強いはずだ。もっと軍事費の積み増しが必要だ」と主張する軍産複合体(タカ派)は、その後も折に触れて「Bチーム」の手法をとった。最も最近の例は昨年、ネオコンが何とかしてイラク戦争を始めるために都合の良い諜報データだけをつなげる作業をした「特殊計画室」である。ネオコンやタカ派は、冷戦時代から現在まで、危機を誇張することによってアメリカの外交政策を強硬的な方向に動かし続けており、その手法は一貫していた。

【続く】



●関連記事など



田中宇の国際ニュース解説・メインページへ