アルゼンチンの悲劇2002年1月14日 田中 宇南米の国アルゼンチンの経済発展は、冷凍設備を組み込んだ冷凍船が19世紀末に開発されたことに始まる。アルゼンチンは温暖な平原の国で、広大で豊かな牧草地があるため、肉牛を育てて輸出する牧畜業に向いていたが、肉の主な消費地であるヨーロッパなど北半球の市場に遠かった。北半球に肉を輸出するには熱帯の赤道を通らねばならないため、輸送手段として船しかなかった時代には、途中で腐る心配があった。その問題を解決したのが冷凍船の登場だった。 アルゼンチンは牛肉の輸出によって急速に経済発展し、第1次世界大戦で中立を維持したこともあり、1930年代には国民一人当たりの収入がフランスと並んで高い、世界で最も豊かな国の一つとなった(当時はまだヨーロッパが世界の中心だった)。 ところが、繁栄は長く続かなかった。第2次大戦後、ペロン大統領が労働者保護、社会保障の充実など、国家社会主義的な政策をとったが、短期的な人気取り政策に終わって失敗し、混乱の挙げ句クーデターで軍事政権になった。1950−70年代は、軍政とペロン派の政治が交互に続く中で経済は上向かず、軍事政権に反対する左派と右派とがテロを行う中、軍の弾圧で反政府派の3万人が行方不明にされて殺されたといわれている。 1980年に入ると、軍事政権が国民感情の高揚を狙ってイギリスとの係争地フォークランド諸島を軍事占領するが、イギリスの反撃に破れて敗戦し、国情はますます悪化した。89年には年率5000%という超インフレに襲われ、商店の値札が毎日値上がりする状態になった。 ところが1990年代になると、アルゼンチンは一転して模範的な経済体制だといわれるようになる。行き詰まりを打開できたのは「冷戦終結」という時代の転換に、上手に乗ったためだった。1989年に就任したカルロス・メネム大統領は、関税を下げて貿易を自由化し、国営企業を民営化し、投資制限を解除して海外からの資金流入を増やし、政府による経済規制を減らして市場原則に任せるという「経済自由化」を行った。 これは冷戦の勝者となったアメリカが「グローバル・スタンダード」として世界に広げていった経済体制で、アルゼンチンはいち早くその体制に転換し、90年代前半には年率8%近い高度経済成長となった。1940−50年代、冷戦体制が作られたときの世界の変容に乗り遅れて不遇の時代を送ったアルゼンチンだったが、冷戦体制が終わるときの世界の変容をつかむことには成功したのだった。 ▼固定相場で投資を呼び込んだ このときアルゼンチンが成功したもう一つの理由とされたのは、通貨ペソの為替変動を抑えるため、ペソの為替相場を1ペソ=1米ドルで固定する政策をとったことだった。為替相場を固定することによって、海外の投資家、特にアメリカの投資家が、為替変動のリスクを気にせず、米国内の企業などに投資するのと同じように、安心してアルゼンチンに投資できるようになった。 日本も1970年代はじめまで1ドル=360円などの固定相場制だったが、当時は第2次大戦前に激化した通貨切り下げ戦争の反省から、為替相場の安定を加盟国に義務づけた「ブレトンウッズ体制」がまだ生きていたころで、しかもまだ為替取引には大きな制限が加えられていた。これに対して冷戦後のアルゼンチンの固定相場制は、それよりはるかに自由になった世界の為替市場の中で固定相場を維持するものだった。 アルゼンチン政府は手持ちの米ドル資産の総額を越えない範囲でペソを発行し、人々がすべてのペソをドルに替えようとしたとしても政府が対応できるようにしておくことで、人々に不安を抱かせず、ペソの価値を維持するというものだった。アルゼンチン政府だけで対応しきれなくなった場合は、国際金融機関であるIMFがアルゼンチン政府に融資して支える体制だった。 1ドル=1ペソに固定するなら、ペソの代わりにドルをアルゼンチン国内で流通させ、ペソを廃止してもいいではないか、という考え方もある。中南米では、パナマが事実上この方法を採っている。この方法の問題点は、自国通貨をなくしてしまうと、通貨の発行量を調節することで経済の過熱や景気悪化をある程度防ぐことができるのに、その機能を自ら放棄することになってしまう、ということだ。 逆に、厳密に相場を固定しなくても、為替が変動し始めたら、中央銀行が変動を止めるように自国通貨を売り買い(市場介入)することで、為替変動を最小限にとどめることもできる。テントが風で飛ばないように地面に打っておくクギ(杭)を「ペッグ」というが、その仕組みに似ているので、この手法は「ペッグ制度」と呼ばれる。一方、アルゼンチンのような本格的なやり方は「通貨評議会方式」と呼ばれる。 ペッグ方式の方がお手軽なので、多くの国がそちらを選んだが、タイやマレーシアなどは、1997年に中央銀行をしのぐ巨額の資金を持ったアメリカの投機筋からの売り攻撃を受け、中央銀行が手持ちの外貨を使い果たした結果、固定されていた相場が外れて急落し、アジア通貨危機を起こして破綻してしまった。 ▼固定相場が輸出の足かせに アジア通貨危機は、その後ロシアに飛び火した後、1999年に南米のブラジルを襲った。ブラジルも隣国アルゼンチンと同様、1ドル=1レアル前後の為替を維持していたが、為替を固定する方法がペッグ方式だったので、投機筋の攻撃を受け、レアルは大幅な切り下げに追い込まれた。 アルゼンチンのペソは無傷で、危機に強いことが証明されたが、問題はその後に起こった。ブラジルもアルゼンチンも、輸出を増やして経済発展することを目指しているが、ブラジルのレアルが大幅に切り下げられたため、ドルで換算したブラジル製品の価格がかなり下がり、その分アルゼンチン製品の方が割高になった。通貨切り下げの後、ブラジル経済は立ち直り始めたが、アルゼンチンは逆に不況になった。 中南米では1994年にメキシコが通貨危機に襲われて切り下げを断行している。通貨切り下げに追い込まれる国が増えるほど、切り下げができない制度をとっているアルゼンチンの輸出産業は苦しむことになった。 これはアルゼンチンだけでなく、アメリカにとっても困ったことだった。ウォール街を中心とするアメリカの投資家にとっては、アルゼンチンのように対ドル為替が固定している国の方が、ブラジルやメキシコのように通貨の対ドルの価値が下がってしまう国よりも投資先として好ましいからだった。 このためアメリカはIMFなどを通じて、アルゼンチン以外の中南米の国々にも、ドルとの固定相場制を広げ、最終的には中南米諸国の通貨をドルそのものに置き換えてしまうという構想を描いた。だが、その後ドル化したのは経済が破綻したエクアドルだけで、他の国は乗ってこなかった。 そんな中でアルゼンチンの不況は1997年からしだいにひどくなり、2001年には経済成長率はマイナス11%というひどい落ち込みとなった。アルゼンチンのペソがドルと等価というのはペソが高く評価されすぎているという市場の懸念を和らげるため、アルゼンチン政府はペソ建ての国債の金利を上げ、ペソの価値を高めようとしたが、金利の高止まりは企業の資金調達コストを上げてしまい、景気への悪影響が増えることになった。 失業率も20%に達し、政府は税収の落ち込みから、公務員の給与や年金を支払えなくなり、4000万人近い国民の4割にあたる1400万人が貧困層になり、今日明日の食べ物にも困る人々が国民の1割以上、500万人もいる状態になった。1950年代まで豊かな先進国の一つに数えられていたアルゼンチンの姿は、もはや見る影もなかった。 ▼トルコは支援してもらえたのに・・・ それでも、アメリカで金融界とのつながりが深かったクリントンの政権が続いている間は、IMFはアルゼンチン政府が固定相場を維持できるよう融資を増やしていた。クリントン時代のアメリカの世界戦略は、発展途上国にカネを貸す米金融界を政府がサポートし、途上国を経済発展させることで、アメリカの政府と金融機関、それから途上国の政府に成功をもたらす、というシナリオを建て前として持っていて、その中にアルゼンチンの固定相場や、中南米のドル化政策があった。 ところが97年のアジア通貨危機以来、そのシナリオはあちこちで破綻し始め、クリントンの任期が終わる2000年末には、アメリカ本体の経済も、もはや不況突入が間違いない状態になっていた。そのため次のブッシュ政権は、国際金融を操作して成果をあげることを放棄し、代わりに軍事やエネルギーの分野から世界を動かす戦略に変えた。 こうした政策転換の中で、行き詰まる2001年のアルゼンチンはアメリカから放置されることになった。IMFは予定されていた27億ドルの融資を実施する条件として、政府予算の収入と支出を均衡させることを求めた。アルゼンチンは不況で税収が減っており、ひどく楽観的に見積もっても、2002年度は支出を前年度より20%減らさないと均衡予算にならない。公務員給与や公的年金の支払いが滞っている中で、そんな歳出削減は無理だった。 この手の厳しい条件は、クリントン時代にもIMFがインドネシアなど世界各国に対して行ってきたことで、ブッシュ時代になって始まったことではなかった。とはいえ、緊縮財政の一方で、アルゼンチンはブッシュ政権に好意を持ってもらおうと「テロ戦争」が始まると、600人の兵士をアフガニスタンへ平和維持軍として送り出し、パキスタンでは難民支援の病院も経営している。だが、そんないじましい努力も、アメリカとその配下のIMFの対応を変えるには至らず、アルゼンチン国民の間から「アフガニスタンより、自国民の支援にカネを回せ」という非難が増えただけだった。 2001年初め、トルコが通貨危機に陥ったとき、ブッシュ政権はそんなに冷たくなかった。IMFを通じて75億ドルを緊急融資させ、連立政権が壊れそうになっていたトルコ政府を救った。トルコではイスラム原理主義勢力が元気で、経済が破綻して連立政権が崩壊すれば、イスラム原理主義の政権ができるかもしれなかった。トルコはイラクを攻撃する米軍に軍事基地を使わせており、アメリカが中東を支配する際には欠かせない国だったから、すぐに緊急支援が行われたのだった。緊急支援をしてもらえないアルゼンチンは、中東から非常に遠いという地理的な自国の運命を恨むしかなかった。 (続く)
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