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パキスタンの不遇と野心

2001年10月3日   田中 宇

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 9月11日のアメリカ大規模テロ事件は、世界各地の地域紛争に思わぬ影響を与えて始めている。その一つはインド・パキスタン紛争だ。パキスタンは、今回のテロ事件の容疑者とされるオサマ・ビンラディンを匿っているアフガニスタンのタリバン政権を支援してきた国であり、事件の渦中にある。ところが長い目で見ると、パキスタンをめぐって大きな問題となりそうなのは、タリバンとの関係よりもむしろインドと対立するカシミール地方の地域紛争である。

 パキスタンの歴史を学ぶと、世の中にはこんなに恵まれない国というものもあるのか、と感じさせられる。カシミール問題について考えるには、パキスタンの歴史を把握する必要がある。このところ、大テロ事件の関係でパキスタンのことが連日報道されているので。ちょうどいい機会だから、ここでパキスタンの歴史について書いてみる。

 パキスタンはイギリスのインド支配が終わった1947年、英領インドのうちイスラム教徒が多い地域が、ヒンズー教徒が多いインドとは別の国として独立したものだ。産業の中心は綿花の栽培だったが、綿花を繊維製品に加工する工業地帯の大半はインド側に属すことになったので、国の発展を託せる産業を育てられなかった。

 しかも独立直後からインドとの戦争が始まり、約500万人のイスラム教徒がインドからパキスタンのカラチなどの大都会に難民として流入し、政府が社会福祉も都市基盤も整備できないまま都会の人口が急増した。

 独立の翌年には、パキスタン独立の父といわれたアリ・ジンナーが死去し、さらにその3年後には初代の首相をしていたアリ・ハーンも暗殺されてしまった。もともと人材が欠如していたところに指導者の相次ぐ死が重なって政治の混乱に収拾がつかず、1958年には軍がクーデターで政権を握った。それ以来パキスタンでは軍事政権か、もしくは民政が行われても軍部の意向を無視した政治はできなくなっている。

▼冷戦に組み込まれたカシミール

 パキスタンが抱える最大の軍事問題は、インドと敵対するカシミール紛争である。インドと戦争が起きた対立の中心は北部のカシミール地方をめぐる奪い合いで、そのもともとの原因は、英領インドがイギリスから独立する際のことにさかのぼる。

 英領インドの各地方がインドとパキスタンのどちらに帰属するか決めることになり、カシミールでは地域を支配していた藩王がヒンズー教徒でインドへの帰属を希望した半面、住民のほとんどはイスラム教徒でパキスタンへの帰属を希望し、食い違いが発生した。その流れで両国は独立とともにカシミールをめぐって戦争を始め、その後も現在まで合計3回交戦している。この紛争は独立以来50年以上続き、今も対立点の中心となっている。

 カシミールはパキスタン、インド、中国、旧ソ連の中央アジアが交わる山岳地帯である。そのためカシミール紛争は、ソ連がインドを支援し、アメリカがパキスタンを支援することにより、冷戦の一部をなす地域戦争となった。

 1963年に中国とソ連との仲違いが表面化し、それまでソ連側についていた中国がアメリカと接近するようになると、もともと中国とインドはアジアの大国どうしでライバル関係にあったため、中国は積極的にパキスタンを支援するようになった。これに乗じてパキスタンは1965年にカシミールのインド側を攻め、第2次印パ戦争が勃発した。

 しかしパキスタンはアメリカの事前承認を受けないまま戦争に突入したため、アメリカからの軍事支援を受けられず、2週間で行き詰まって停戦に応じざるを得なくなった。この失敗以来パキスタンの政治は再び混乱し、1969年に無血クーデターで政権が交代して戒厳令が敷かれた。

 さらに、インドはパキスタンの一部だった東パキスタンをパキスタン本体から引き離すことを画策して成功し、1971年に東パキスタンは独立戦争を経てバングラディッシュとして独立した。東パキスタンを失った責任追求を受けてパキスタンの政権は再び崩壊し、外相だったアリ・ブットが政権を取った。ブットは企業の国有化と土地改革という、社会主義的な改革を大胆に進めたが、旧支配層からの反発を受けて失敗し、1977年には再び軍事クーデターを招いて失脚し、処刑された。

▼アフガン戦争とともに拡張・滅亡したジア・ウル・ハク

 クーデターでブットを倒したのはジア・ウル・ハク将軍で、彼は自ら大統領になって戒厳令を敷いたものの、その後の政策では行き詰まった。そこにちょうど起きたのが1979年、西隣のアフガニスタンにソ連軍が侵攻したことだった。

 パキスタンには何百万人ものアフガン難民が押し寄せ、ジア政権は対応に追われたが、その一方でアメリカがアフガン戦争を冷戦の一環としてとらえ、パキスタンを通じてアフガンゲリラを支援する体制をとり、パキスタンに巨額の軍事支援を開始した。

 また、70年代を通じて「イスラム復興運動」が盛り上がっていた中東では「アフガニスタンをソ連の侵略から守れ」という動きが広がり、アフガン戦争を「イスラム聖戦」とみなし、サウジアラビアなどの諸国から戦争資金や義勇兵たちがパキスタンに集まるようになった。この流れの中で、オサマ・ビン・ラディンもパキスタンにやってきた。パキスタンはアフガニスタンを舞台にした「冷戦」と「聖戦」のための拠点となり、ジア政権はこれを利用して体制を立て直した。

 ジア大統領はパキスタンをイスラム原理主義の国家にしようと考えていたようで、国内にイスラム教の神学校をたくさん作ったりした。アフガン難民の子供たちがこの神学校で学び、後に「タリバン」を生み出すことになった。

 ところがアメリカは、1979年にイランで起きた「イスラム革命」以来、イスラム原理主義には極度の警戒感を抱いていた。アメリカは、アフガン戦争が終わった後のパキスタンがイスラム原理主義の国になって「反米」を掲げるようになることを恐れた。

 それと関係あるかどうか、いまだに不明なのだが、ジア大統領はソ連がアフガニスタンから撤退することが明らかになった直後の1988年5月、原因不明の飛行機事故で死亡してしまった。パキスタンの情報機関ISIの元幹部は、この事件にはアメリカCIAが関与していた可能性が大きいと指摘している。

(過去の記事「パキスタンの興亡」参照)

▼失敗した文民政権の10年

 アフガニスタンからソ連軍が撤退し、その後ソ連自体も崩壊して冷戦が終わり、イスラム原理主義を狙っていたジア大統領も死去した後、パキスタンではアメリカの指導のもと、軍事政権ではなく文民政権を作って安定させる試みがなされた。ところが、これはひどい大失敗に終わった。その理由は、指導者たちの腐敗が直らないからだった。

 ジアの死後、大統領には首相を解任する権限を残し、行政の実権は首相に移行する措置がとられ、権力の二重化が図られた上で、文民政権づくりの試行が始まった。選挙によって最初に首相になったのは、ジアに殺された元大統領アリ・ブットの娘のベナジル・ブットだったが、彼女は2年もしないうちに、きちんとした政府運営ができない上、腐敗がひどいということで、大統領によって解任された。

 その後再び選挙が行われ、今度はブットとライバル関係にあった別の政党の指導者ナワズ・シャリフが首相に選ばれた。しかしシャリフもまた約3年後の1993年7月、大統領から腐敗を非難されるようになり、シャリフは逆に大統領を倒そうと動いたが軍に阻止され、辞任に追い込まれた。

 その後の選挙では再びブット女史が勝ち、2度目の首相の座についた。しかし、この政権もまた腐敗がなおらず、3年後の96年11月に大統領によって解任された。この3年間にブット政権は、中央アジアへの商業ルート開拓を目指すアメリカのクリントン政権の肝いりで、アフガン難民による軍政組織「タリバン」の結成と行軍を支援し、タリバンがアフガニスタンを支配することに協力した。

 ブットが2回目に解任された後の選挙では、再びシャリフが勝って首相となった。しかしブット同様、シャリフも前回の失脚に懲りて腐敗を改めることはなかった。99年10月、シャリフ首相は自らを批判する軍部を抑えようと、最高司令官であるムシャラフ参謀総長を突然解任したが、逆にムシャラフはクーデターを起こしてシャリフから政権を奪い、パキスタンは再び軍事政権に戻った。

 軍事政権というと一般には悪いイメージがあるが、冷戦後の10年間ずっと安定した文民政権ができるのを希望しながら裏切られ続けたパキスタンの国民はそう思っていない。何回やっても不正を止められないブットやシャリフのような文民政治家より、ムシャラフのような軍人の方がずっとましだと思っている。昨年パキスタンに行ったとき、私自身、何人かのパキスタン人から「ムシャラフが最後の希望だ」という言葉を聞いた。

(続く)



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