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パレスチナ見聞録(3)分裂する聖都

2001年4月16日   田中 宇

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 「聖都」エルサレムには、新市街と旧市街という、2種類の街がある。旧市街は城壁に囲まれた、3000年以上の歴史を持つ街だ。一方、新市街はイスラエルが1949年の建国後、旧市街の西側に作った新しい街である。

 旧市街は、縦横1キロほどの城壁の内部に、石だたみの路地が迷路のように入り組む歩行者専用の街だ。新市街は、建物の外観を大理石風にするなど、旧市街のような歴史的荘重感をかもし出そうとしているが、それが逆に、近代の都市計画で作られた街という感じを引き立たせている。新市街は何キロも広がり、移動には自動車やバスが必要だ。

 新市街の中心地「シオン広場」から、旧市街の中心地「ダマスカス門」へは歩いて10分ほどで行ける。ぶらぶら歩いているといつの間にか着いてしまうが、実はこの2つの街の間には「見えないベルリンの壁」とでもいうべき分断がある。

 新市街には、カッパの皿のようなユダヤ教の帽子(キッパ)を頭に乗せている人々や、左右のもみあげの毛髪を長く垂らした黒服の超正統派のユダヤ教徒がたくさん歩いている。だがダマスカス門の近くまで行くと、それらの人々は姿を消し、代わってベールをした女性や、イスラム教徒と分かるかぶりものをした男性などが行き交っている。

 新市街はユダヤ人(イスラエル人)の街で、パレスチナ人が入り込むことはほとんどない。パレスチナ人がうろうろしていると、小銃を持って立っているイスラエル兵に止められ、尋問されるかもしれない。逆に、旧市街の「ダマスカス門」周辺の繁華街には、パレスチナ人しかいない。イスラエル人が夜にこのあたりをうろうろしたら、誘拐されたり撃たれる可能性がある。

▼見えない壁の正体は「グリーンライン」

 旧市街は「東エルサレム」にあり、新市街は「西エルサレム」にある。西エルサレムは国際的に認められたイスラエルの領内にあるのに対し、東エルサレムは国連から非難されている「イスラエルの不当占領地」の一部であり、本来ならパレスチナ人が統治すべき地域である。

 イスラエルの領土と、不当な占領地との間の境界線は「グリーンライン」と呼ばれ、1948年のイスラエル独立宣言とともにアラブ諸国軍との間で始まった第1次中東戦争の停戦ラインである。このラインは、パレスチナ国家とイスラエルの国境になる予定の線であるが、イスラエルは国連決議を無視しているため、グリーンラインは明示された線としては存在しない。新市街から旧市街へと歩いていくと、気づかないうちにグリーンラインを踏み越えている。このラインが「見えない壁」の正体である。

(旧市街もイスラエル側に入れるかたちでグリーンラインを引いている地図もあるが、グリーンラインが1949年の停戦ラインだとするなら、それは正しくない。パレスチナ問題は、地図上のどこに国境線を引くかをめぐる紛争でもあるので、この地域の地図は政治的な思惑を含んだものになりがちだ)

 新市街・旧市街の区分とは別に、せまい旧市街の内部はさらに、イスラエル建国前の昔から、宗教ごとに4つの地区に分かれている。イスラム教徒地区、ユダヤ教徒地区、キリスト教徒地区(ギリシャ正教会地区)、アルメニア人地区(アルメニア正教会キリスト教徒地区)である。現在は、イスラム教徒地区とキリスト教徒地区にはみやげ物屋が軒を連ね、観光客やパレスチナ人の買い物客で賑わっているが、対照的にユダヤ教地区とアルメニア地区は、昼間でもあまり人の気配がない。

 みやげ物屋街から一歩路地を入ると急に人通りがなくなるので、ユダヤ地区やアルメニア地区に入ったことが分かる。旧市街の内部もまた、見えない壁で分断されていると感じられる。一般のイスラエル人は、ユダヤ地区やその中にある聖地「嘆きの壁」を訪れることはあっても、それ以外の旧市街には身の安全を重視して行きたがらない。逆にパレスチナ人がユダヤ地区を訪れることも少ない。

▼格安旅行者は親パレスチナ

 エルサレムの東西2つの地域は物価もだいぶ違う。イスラエル政府は、軍事費捻出などのため輸入品に高関税をかけ、消費税も徴収しているため、西エルサレムの物価は日本並みか、日本よりさらに高い。だが東エルサレムでは、パレスチナ自治政府の徴税効率が悪いこともあり、食料品を中心にいろいろなものが非課税で安く売られている。東西の物価の差は、商品によっては2倍ぐらいにもなる。

 過去の報道によると、東エルサレムのパレスチナ商人は、イスラエル政府から法人税を払うよう求められたが「エルサレムを不当に占領するイスラエルには納税しない」と言って集団で断ったのだという。するとイスラエル当局は「税金を払わないなら行政サービスも行わない」と反撃し、東地区での都市基盤整備を中止してしまった。そのため整然とした西エルサレムに比べ、東エルサレムははるかに雑然としている。

 物価の安さは、ホテル料金にも現れている。「バッグパッカー」と呼ばれる格安好きの旅行者たちが泊まっている安宿は、ダマスカス門の内側の旧市街に多く点在している。今年1月にエルサレムを訪れた私は、イスラエルの人に会うときに泊まっているホテルが旧市街だと不審に思われると懸念し、最初は新市街のホテルに泊まっていたが、途中から旧市街の安宿に移った。大学生のときにアジアなどを貧乏旅行したのが国際ニュース解説を書くことにつながった私は、安宿に泊まることが好きだからだった。

 旧市街の安宿は、一泊500円ぐらいのドミトリー形式で、偶然にも何人かの日本人が泊まっていたが、彼らと話してみると、全員が反イスラエル・親アラブであった。これには理由があると思われた。

 イスラエルとパレスチナを旅行すると、パレスチナ人にはよく話しかけられるが、イスラエル人に話しかけられることはほとんどない。パレスチナ人は抑圧されている側なので、行きずりの旅行者にも親しく接し、自分たちの苦境を話してくれる人が多い。バスの中などでたまたま隣に座り、1時間も親しく話せば「うちにこないか」と誘ってくれたりして情にあつい。

(イスラエルによる占領を、欧米キリスト教世界による中東イスラム世界に対する攻撃であると考える傾向が強いパレスチナの人々は、日本人がキリスト教世界側に属していないと考え、味方につけようとしているのかもしれない)

 半面、イスラエル人は防御する側であるうえ、欧米的や日本のような先進国型の個人主義的な人間関係が社会をおおっているためか、バスなどで知らない人どうしが親しく会話するということはあまりないようだ。イスラエル人は、善良で真面目だがむっつりした性格の人が多いという話も聞いた。この地域を1週間も自由旅行すると、パレスチナ人からだけたくさんの話を聞くので、パレスチナ支持になるのだと思えた。

▼ゴーストタウンを歩く挑発部隊

 とはいえ、パレスチナ人のすべてが親切なわけではない。警戒が必要なのは、旧市街のみやげ物屋の客引きである。旧市街のイスラム教徒地区の細い路地にはみやげ物屋が軒を連ね、聖地を訪れる観光客に売り込みをかけているが、この人たちの中には、イスタンブールやカイロのピラミッド周辺などと並び、たちの悪さでは中東屈指の人々がいる。

 呼びかけを無視して通りすぎると「ファックユー」と後ろからアメリカ風の悪態をつかれたり、「案内してやるよ」という誘いに乗ってついていくと、10分も歩かないうちにガイド料を請求されたりする。(逆に、日本人に対する親近感を表明する親切な人々も多いが)

 思うに、エルサレム旧市街のみやげ物屋たちの心がすさんでいるのは、旧市街を歩き回る観光客の多くがアメリカ人やヨーロッパ人だからではないか。パレスチナ人の苦しみの根幹には、イギリスやアメリカの支配戦略がある。バカンスでやってくる欧米人たちを見て「俺たちは、こいつらにやられてるんだ」と思うと、悪態もつきたくなるのかもしれない。

 パレスチナでは、イスラム教のコミュニティが人々の心のよりどころになっているため、社会の秩序は保たれているが、占領下なので経済や政治は混乱している。そのため、パレスチナ人の間では混乱に乗じたビジネスで儲ける人々と、それができない貧しい人々との貧富の格差が開いている。また、アラファト議長らパレスチナ自治政府の幹部たちの腐敗を批判する声もあり、みやげ物屋街は、そうした状況の一端を表しているように感じられる。

 昼間はにぎやかな旧市街のおみやげ屋地区も、日没とともに人影が消え、夜はゴーストタウンのようになる。イスラエルにとって、旧市街のパレスチナ人居住者はなるべく立ち退かせ、商店の営業は太陽が出ている間だけとするのが占領政策なのであろう。バックパッカーたちの安宿は、闇夜の旧市街で明かりがついている数少ない場所である。

 そんなゴーストタウン的な夜の旧市街を悠然と歩いているイスラエル人の若者たちを見かけた。ユダヤ教の帽子(キッパ)をかぶり、小銃とトランシーバーを持って2ー3人一組で歩き回っている。パレスチナ人に襲撃されるかもしれないが、そうしたら応戦しつつ、トランシーバーで正規軍を呼んで反撃させ「パレスチナ人が先に撃ってきたので正当防衛をした」といってパレスチナ人を弾圧する口実を作ることができる。これは挑発行為であるとお見受けした。

 ユダヤ教では金曜日の日没から土曜日の日没までが安息日で、一切の仕事をすることを禁じられ、町は閑散としてしまう。その代わり、安息日が終わった後の土曜日の夜には、新市街の繁華街は夜中まで大混雑の大騒ぎとなっていた。ゴーストタウンの中をキッパの挑発部隊が闊歩している旧市街から、路上でパーティが展開する楽しそうな土曜日の夜の新市街へと散歩してみると、改めてエルサレムが分裂していることが感じられた。

 私は、イスラエル人とパレスチナ人の両方に少しずつ会い、自分なりにパレスチナ問題をどう考えるべきか判断しようとした。だが、人情があつくて義侠心があるパレスチナ人と話すと、彼らの言っていることが正しいと思う一方で、真面目でいちずなイスラエル人と話すと、彼らの言っていることも理解できると感じ、私の頭の中も分裂しがちだった。このことは回を改めて書きたい。

(続く)



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