アフガニスタンのサムライ(2)2001年1月8日 田中 宇この記事は「アフガニスタンのサムライ(1)」の続きです。 聖戦の兵士が死を恐れないのは、アフガン人に限ったことではない。かつてイラン・イラク戦争の時、イランの若い兵士たちは、地雷を胸に抱き、イラクの戦車にぶつかっていくという、日本の特攻隊的な攻撃を展開したが、それもまた、天国に直行するための行為であった。 このような精神を持っていることが、この地域のイスラム教徒たちが日本に親近感を持っている背景の一つではないかと思う。今の日本人に「特攻隊精神」を期待しても無駄なのであるが、終戦を境にした日本人の劇的な「改心」を詳しく知らないイスラムの人々は、「何でトヨタは戦車を作らないんだ?。今度はアメリカに勝てるに違いないのに・・・」などと私に尋ねたりした。 ▼難民キャンプは兵士の家族の避難場所 「ソ連と戦え」というジハード宣言によって作られたのが、ムジャヘディン・ゲリラだった。彼らをパキスタンのISIが後方支援し、その武器や資金は「ソ連を倒すため」という名目で、アメリカのCIAや国務省が出していた。「ムジャヘディン」とは「聖戦士」という意味だ。 当時30歳前後だったカーンも、ムジャヘディンの一員となった。彼が住んでいた谷は道路が不便だったので、ソ連は戦車ではなく、空爆によって毎日のように谷を攻撃した。ムジャヘディンは、山腹にある天然の洞窟などに基地を作って隠れ、空爆を防いだが、戦闘に参加しない女性や老人、子供たちは空爆にさらされた。 そのためドバンディ谷の有力者たちは、女子供をパキスタンの難民キャンプに避難させることにした。いったん村のほとんど全員が荷物をまとめ、一族ごとにまとまって、徒歩やロバに引かせた馬車などで山道を越えてパキスタン側に出て、そのままペシャワールの近郊まで行き、空き地などを見つけて住みついた。女子供の中には、そのとき6歳だったハキャも含まれていた。 難民キャンプでの定住が始まると、女子供の世話をしたり、一族のために肉体労働などをして金を稼ぐ担当の男を除き、成人男性は全員、再びドバンディ谷に戻り、ゲリラ戦に復帰した。谷からカブール方面に山を越え、首都の近くにある道路や空港などの施設を破壊したり、移動中のソ連軍を狙撃するのがゲリラの戦法だった。 最盛期には、2000万人弱のアフガン国民のうち、400万人が東隣のパキスタンに、300万人が西隣のイランに難民として流れ込んだという。その多くは、難民といっても、受け身的に逃げてきた人々ではない。戦争で家を追われ、苦しい生活を迫られたことは確かだが、彼らは100%戦争の被害者というわけではない。戦うために、非戦闘員だけが隣国に避難してきたのである。 だが、そう正直に言うと、国際社会からの支援が届きにくくなる。そのため「ソ連によって攻撃され、逃げてきたかわいそうな人々」という側面だけが強調され、ペシャワールには難民を支援する国際NGOが無数にやってくるようになった。冷戦の最中だった当時、アフガン難民への支援は欧米にとって、「西側陣営」の強化と「人権救済」の両方を満たす「善行」であった。 アフガン人は組織的に村から難民キャンプへと移動したため、キャンプでは故郷の村と同じ政治形態が温存された。アフガンの村には「ジルガ」と呼ばれる会議が存在するが、それは多くの場合、難民キャンプでも存続し、村の有力者がそのままキャンプの有力者となった。 ジルガは昔の日本の村の「寄り合い」のようなもので、各集落を代表するイスラム聖職者や、それ以外の有力者たちが集まり、イスラム法とパシュトン人の部族習慣に基づいて、争いごとの調停や、違法行為に対する処罰などを決定する。原則として参加者全員が同じ結論に対して納得するまで、議論が続けられる。多数決ではなく、全会一致が原則になっているところが、かつての日本と似ている。 ▼ムジャヘディンの7派閥 カーンは、ムジャヘディンの小さな部隊の司令官だった。ムジャヘディンは、出身の村ごとや谷ごとに部隊を作っていたが、その数は最盛期には、アフガニスタン全体で3000以上もあったという。各部隊には一人ずつ司令官がいた。カーンは、3000人の司令官の中の一人だったことになる。 各司令官の上部には、武器などをパキスタンから調達して各部隊にわたす「リーダー」と呼ばれるボスたちがいた。リーダーたちは、ソ連の侵攻前にはアフガニスタンで、イスラム主義の政治運動をしていた神学者や活動家だった。彼らはソ連侵攻前後にペシャワールに亡命し、ゲリラを束ねる政治組織を運営し始めた。彼らはゲリラの後方支援を担当する軍事ブローカー的な存在であり、配下の司令官に会いに戦場に出かけることはあっても、リーダー自身が戦闘を直接に指揮することは少ない。 彼らの仕事は、品質の高い武器をたくさん受け取れるようパキスタン側と話をつけること、そして武器を得たら難民キャンプや戦場を回り、なるべく多くの司令官と話をつけて、自分の傘下に入ってもらい、自らの勢力拡大につとめることである。 戦争の初期には、こうしたリーダーがたくさんいたが、ISIはアフガン人をコントロールする効率を上げるため、7人のリーダーを選び出し、この7人を通してしか、武器の配布や軍事訓練の申し込みを受けないことにした。これによって、ムジャヘディンは7つの派閥に統合され、各司令官は7人のリーダーのうちのいずれかの傘下に入ることを迫られた。(アフガンゲリラには、このパキスタン側7派に加え、イラン側に6派が存在していた) パキスタン側が支援するリーダーを7人も置いたのは、ゲリラが一人のリーダーのもとに団結し、パキスタンの言うことを聞かなくなるのを防ぐためだった。 アフガン人はもともと独立心が強く、外国勢力のいいなりになることを好まなかったが、ソ連と戦う武器や資金を提供してくれるため、やむなくパキスタンの戦略に従って動いていた。パキスタン側はそんなアフガン人を警戒し、7つの派閥を相互にライバル関係としておくことで忠誠を競わせていた。1988−89年にソ連軍が撤退した後、ムジャヘディンどうしの内戦が始まったが、それは7つの派閥間の戦争であった。 7人のリーダーのうち特に有力なのは3人で、グルブディン・ヘクマティアルはアフガニスタン人の半分前後を占めるパシュトン人を束ねていた一方、ブルハヌディン・ラバニはパシュトン人以外のタジク人、ウズベク人などを束ねるリーダーだった。アブドル・サヤフというリーダーは、サウジアラビアからの資金援助を受けていた。 この3人は、イスラム法を厳格に施行する国家作りを目指す、いわゆるイスラム原理主義者だったが、残りの3人は欧米風の文化が入り込むことを容認する穏健派イスラム主義者であった。 このように7つの派閥は部族や思想がバラバラなので、そもそも対立する要素が多かった。パキスタンやサウジが音頭をとってムジャヘディン各派の統一戦線を作っても、数ヶ月以内に仲間割れして終わるというパターンがソ連侵攻後、4回も繰り返された。 ムジャヘディンの戦いは国民皆兵のジハードだったため、すべてのアフガン男性には、ゲリラとして戦いに出かける義務があったが、全員が戦いに行ってしまうと、難民キャンプに残した家族たちを食わせていけない。 そこで「一族の中から、必ず一人以上がジハードに参加しなければならないが、残りの男たちは、家族を食わせるためにペシャワールに残っていてもかまわない」という、現実的な不文律が生まれた。戦場に行った男は3−4ヵ月すると再びキャンプに戻り、一族内の他の男が交代に戦場に出かける、という仕組みだった。 キャンプに残った男たちは当初、建設現場での肉体労働などをこなしていたが、そのうちに出身地ドバンディの地の利を利用した仕事を始めるようになった。それは、トラック運転手の仕事であった。 対ソ連ゲリラ戦の最中は、パキスタンからアフガニスタンに向けて、戦争を支援する物資の輸送が盛んだったし、ソ連の撤退後は、国境を越える密貿易が増えた。それらの輸送を請け負ったのが、アザキルキャンプの人々だった。彼らの故郷はパキスタンとの国境近くなので、越境密貿易で使う山道について土地勘があった。 ここ数年は、アフガニスタンとの輸送だけでなく、パキスタン国内の輸送も請け負うようになり、ハキャによると、ペシャワールを発着するトラック輸送の8割は、アザキルキャンプの人々が独占しているという。彼らは今や「トラックマフィア」となり、パキスタン経済に不可欠な集団となっているのだった。 ▼異様に強い存在感 元ムジャヘディン司令官のカーンと話していて私が驚いたのは、彼が異様に強い「存在感」を持っていることだった。 カーンは寡黙で、必要最低限のことしか話さなかった。彼と私との対話は、通訳のハキャを通じて行われたが、カーンの話を訳すというより、ハキャがカーンに代わって説明する量の方が多かった。通訳をしてもらっている間、カーンは黙って座っていたのだが、そうしていると、どっしりとした男の存在感が、オーラのように彼を取り巻いているように感じた。 彼は黙っているだけでなく、体をほとんど動かさなかった。それは、若いハキャが常に目をきょろきょろさせたり、私の反応をうかがって自らの対応を決めているように見えたのと対照的だった。客間では扇風機が動いていたが、細長い客間の入り口近くに置いてあり、奥の方に座っていた私たちのところまでは風は届かなかった。暑いのでみんな汗をかいていたが、カーンは流れる汗にも無頓着な様子で、それが彼の「動じない存在感」を際立たせていた。 同じような存在感のオーラは、カーンだけでなく、隣に座っていた同年代の他の2人のキャンプ指導者たちからも感じられた。私は2週間ほどかけて、アフガニスタンとペシャワール近郊のアフガン人地域に滞在し、アフガン人の男たちに会ったが、彼らは総じてカーン同様、パキスタン人などよりも強い存在感を持っていた。 日本の場合、最近では男より女の方が存在感があるぐらいで、特に若い人だと、相対して座っていても、ほとんど存在感を感じさせない男性も多いが、アフガン人はそれと対照的である。彼らには、男のダンディさがあった。 私をアフガニスタンに招待してくれた国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の山本芳幸さんは、一緒にパキスタンからアフガニスタンに発つ前、「アフガン人はパキスタン人とだいぶ雰囲気が違う。会ってみれば分かる」と言っていたが、そのとおりだった。 アフガン人男性の、強い存在感はどこからくるのだろうか。考えつく一つのことは、男の子に対する「しつけ」との関係だ。アフガン社会では、男性が泣いたり叫んだりして喜怒哀楽の情を表わすことが、恥ずかしいことと考えられている。 アフガン人の親たちは、男の子には5歳をすぎたあたりから、苦痛に思うことがあっても、泣き叫ばないよう、感情を押し殺すよう、厳しくしつけるため、5歳の男の子は大人が脅かせば泣くが、7歳の男の子は脅かしても泣かないのだ、という話を聞いた。
(続く)
田中宇の国際ニュース解説・メインページへ |