アフガニスタンのサムライ(1)2000年12月7日 田中 宇パキスタン西部、アフガニスタン国境に近い大都市ペシャワールの周辺には、10以上のアフガン難民キャンプがある。その中でも最大規模の一つ、9万人の人口を擁するアザキル・キャンプ(Azakhil)は、ペシャワール市街地から西へ約10キロほど行った線路端に広がっていた。 難民キャンプといっても、鉄条網で囲まれているようなものではなく、家の作りや集落の雰囲気は、近隣の村々とほとんど変わらない。住宅が密集しているわけでもなく、空き地や畑もある。キャンプの敷地は線路沿いに長さ10キロ、奥行き5キロという広大なものだ。 ペシャワール近郊に難民キャンプができたのは、1979年にソ連軍がアフガニスタンに侵攻してからのことだ。パキスタン政府はソ連に対抗するため、難民キャンプにいるアフガン人たちに武器を渡して訓練をほどこし、「ムジャヘディン・ゲリラ」として戦わせていた。パキスタン政府は難民に住居や行動の自由を与えた結果、20年たった今、キャンプは周囲の村と見分けがつかなくなっているのだった。 線路をわたってキャンプの敷地内に入ると、土の塀に囲まれた家々が並んでいた。塀は、表面に泥を塗った粗末なものだ。家々には下水を処理する施設がないらしく、空き地には泡が浮いた汚水がたまって池になっていた。 午後の2時ごろだったが、ほとんど人は歩いていない。私をこのキャンプに案内してくれたチャーギル・ハキャが「午後1時から4時までは昼寝タイムなので、外には誰もいないんだ」と言って笑った。この日、気温は40度を超えていたが、とても乾燥しているので、東京で夏に33度ぐらいのときと、不快感はさして変わらない。(ただ、エアコンのない車では、窓を開けているとドライヤーの風ような熱風が腕に当たり、信号待ちで止まっているときのほうが涼しい。これは不思議な感覚だった) ハキャは、ペシャワールにある日本の医療NGO「AMDA」(アジア医師連絡協議会)で働いている。AMDAは難民キャンプや、キャンプから故郷に戻った村人のためにアフガンの山村にクリニックを作って住み込み、医療援助をしている。アフガニスタンで活動している日本のNGOは、今のところAMDAだけである。私は、アフガニスタンの山村で会ったAMDAのネパール人バンダリ医師を頼って、ペシャワールの難民キャンプの様子を見にやってきた。 (その後AMDAは2000年夏にアフガニスタンから撤退した。事前の告知が不十分なまま一方的に撤退したので、国連組織の関係者から激怒されたそうだ) 27歳のハキャは、パキスタンの国境に近いアフガニスタン山岳地帯の村で育ったが、6歳のときソ連軍の侵攻が始まり、家族とともにこのキャンプにやってきた。アメリカが難民のために開いた学校で英語をマスターし、これまでにいくつかのNGOで働いた経験を持つ。アフガン難民のための国際NGOがたくさんあるペシャワールでは、彼のようにNGOを渡り歩くアフガン人やパキスタン人がたくさんいる。 彼は、アフガニスタンで政権をとりつつある宗教軍事組織「タリバン」の役員をしているとのことで、「タリバンを取材したければ俺に頼め」という発言を連発していた。 ▼客人を奥の間に入れないための客間 線路をわたって500メートルほど入ると、ハキャの家に着いた。周囲の家と同様、泥の壁に囲まれている。小さな入り口を入るとすぐ、20畳ほどの大きな客間があり、そこに通された。 経済的に余裕があるアフガン人の家には大体、入り口のわきに客間がある。それは、パキスタンにある難民キャンプであっても、電気がきていないアフガニスタンの山村であっても、同じである。客間に入らずに、さらに奥に進むと、家族が住んでいる居間や中庭に行けるが、客人はそちらに入ることは許されない。 アフガン人は、お客をもてなすことを美徳としているので、明らかに遠方から来たと分かる外国人などを見ると、単に通りがかっただけの人に対しても「お茶を飲んでいきませんか」と招待したりする。 だが、客人を接待するのは男の家族だけだ。奥さんや娘など、女性の家族はまったく出てこない。客人が家の奥に入ることも禁じられているので、女性たちには会うことができない。そもそも「客人」の方も多くの場合、男性だけだ。女性が近所の家より遠くに行くことは少ない。 女性は、遠くには行かなくても、近所の家を訪問することは多いようで、その場合は客間には入らず家の内部に入り、スタイルの違いによって「ヘジャブ」「ブルカ」「チャドル」などと呼ばれる、イスラム女性に義務づけられた外出用のかぶりものを脱いで、その家の家族と一緒にくつろぐ。多くの場合、近所に住んでいるのは同じ一族の人なので、家族の延長だ。見知らぬ人々がいる公共の場では、かぶりものをしなければならないが、親族だけの集まりでは、それは必要ない。 山村の場合、同じ谷に住んでいるのは、何世代かさかのぼると兄弟どうしというような、遠い親戚ばかりであることが多いので、谷の中を歩きまわっている限り、家の中にいるようなもので、女性たちは比較的気楽な状態ですごすことができる。 つまるところ、アフガン女性にとっての人間関係は、一族かそれに準じる人々の内部に限定されており、一族の枠をこえて人々と会うこと、つまりいわゆる「女性の社会進出」は、カブールなどで「西欧化」した都会の知識人を除いては存在していない。しかも都会での女性の就労は96年以来、タリバンによって禁止されている。 客人は家の奥に入ることができないので、たとえば会社の同僚の家を訪問しても、彼の奥さんには会うことはできない。「あいつの奥さんは美人だぞ」などと会社で言い合うことがあっても、誰もその奥さんを見たことがなかったりする。 ▼粗末な外見の内部に快適な住居 とはいえ最近のアフガン社会では、例外的な女性の「客人」も登場している。それは、援助機関で働く外国人女性である。NGOや国連などの援助機関は、難民化したり、戦争で村を破壊されたアフガン人を助ける存在であり、大事な「客人」だ。そして援助機関の関係者には、欧米や日本などからきた女性もいる。 こういう人々はどういう待遇になるかといえば、「客人」なので客間にお通しするが、「女性」なので、ご希望なら家の内部に入って家人の女性たちとくつろいでいただくこともできます、ということになる。男女両方に対するサービスが受けられるというわけだ。 私がアザキル・キャンプのハキャの家に行ったときは、AMDAでボランティアの看護婦として働いていた吉野都さんという日本人女性も同行した。彼女は客間でお茶を飲んだ後、ハキャに連れられて家の内部を見学しに行っていた。 吉野さんによると、家の奥には、土の中庭に面していくつかの部屋が並び、ダイニングやテレビがある居間、洗面所、ハキャの書斎などがあったという。中庭には何本かの木々が繁って気持ちの良い木陰を作り、洗濯物も乾してあったそうだ。 アフガン人の家は、農村であれ難民キャンプ内であれ、みかけは泥の塀に囲まれた貧しそうな感じだが、内部はかなり住みやすそうだ。家々の外見は「難民キャンプ」という単語から想像されるイメージから外れていないが、内部の環境は、下手をすると日本の都会の安アパートより快適かもしれない。家の外見のみすぼらしさは、内部の快適さを隠す安全策であるとも感じられた。 家族はハキャの奥さんと子供だけでなく、兄弟夫婦とその子供たちもおり、総勢20人近い大家族で、ハキャの奥さんは小柄な美人であったという。こうして、男性同僚たちが誰も見たことのないハキャの奥さんが「美人だ」という話が、AMDA内部でまたひとわたり語られることになりそうだった。 ▼良妻は刺繍がうまい 私たちが通されたハキャ宅の細長い客間には、ペルシャじゅうたんのような敷物が敷き詰められ、壁際には寄り掛かって座るためのクッションが並べられていた。壁にはヨーロッパの山岳地帯などのポスターが貼られ、部屋を美しく飾ろうという意思がみてとれた。 私は山村や難民キャンプなど数カ所でアフガン人の家の客間に上がる機会があったが、いずれの客間もじゅうたんが敷き詰めてあり、壁際にはクッションがあった。クッションには、家の女性たちの手による、カラフルで凝った刺繍(ししゅう)がほどこされている。アフガン社会では、刺繍の技能が良妻の要件になっているという。 テレビや冷蔵庫、クーラーまで置いてあるところもあった。日本の自然のカラー写真が何枚も貼ってある部屋もあった。ペシャワールのマーケットで売っていたのか、壁にかけるカレンダーの上部だけ切り取った写真のようであったが、家の人は、それが日本の風景だとは知らなかった。 宴会で招かれた山村の客間では、事前に花のにおいのお香をたいたのか、入るといいにおいがした。もてなしの手法はさまざまだが、アフガン人の客間は、その家の財力を象徴する場所でもあるようだ。 その客間で、紅茶と日本茶の中間のような「緑茶」と呼ぶお茶を接待され、ひなあられのようなお菓子をいただきつつ待っていると、ハキャが難民キャンプの有力者を3人連れてきた。キャンプの話を聞きたいなら、この人たちに聞け、というわけだった。 ▼死よりも負傷を恐れる その中の最長老らしいザリフ・カーンに話を聞いた。彼は今50歳で、かつてはハキャと同じく、アフガニスタン東部のロガール県という、パキスタン国境に近い山岳地帯の村に住んでいたが、79年にソ連軍が侵攻してきた直後に難民となった。 このキャンプに住んでいる人々の大半は、ほぼ同じころに難民になった。ソ連軍の侵攻直後から、パキスタン政府の諜報機関(アメリカCIAのような秘密工作をおこなう組織)である軍統合情報局(ISI)は、アフガン人による対ソ連ゲリラ戦を支援したが、早い段階にはパキスタン国境に近い地域が、ゲリラ支援の重点地域となった。武器の搬入や作戦の指導など、パキスタン側から支援しやすかったからである。 カーンやハキャが住んでいたロガール県のドバンディ(Dobanday)という谷は、まさにこうした戦略的な地域の中心に位置していた。そこはアフガニスタンの首都カブールから悪路の峠を越えて行かねばならず、ソ連の戦車は谷に入ることができなかった。そのため、ここは早くからムジャヘディン・ゲリラの拠点となった。 ソ連が侵攻してくると、アフガニスタンのイスラム聖職者たちは「ジハード」(聖戦)を宣言した。ジハードとは、あらゆるイスラム教徒の男性が参戦しなければならないという、国民皆兵の宣戦布告である。ソ連軍に対するゲリラ戦は、アフガニスタンの国民のほとんどを占めるイスラム教徒の男性にとって、義務となった。のちにはジハード宣言を聞きつけて、中東のアラブ諸国からも義勇兵がやってきた。 「ジハード」はまた、天国に行く近道でもある。ジハードの最中に戦死したら、以前にいろいろ悪いことをした罪深い人間でも、直行で天国に行けることになっている。アフガンの多くの男たち、特に若者や子供たちは、この教えを心から信じ、戦場で死ぬことを(少なくとも表向きは)喜びと考えている。 彼らが恐れるのは「死」ではない。爆弾に吹き飛ばされて一気に死ぬのならかまわないと思っている。そうではなくて、体の一部だけが吹き飛ばされ、残りの人生を障害者として生きることが、彼らが避けたいことだ。あとで詳しく述べるが、アフガン人は、どんな劣悪な環境にも耐える強い身体を持っているのが「勇敢な男」であると考えている。だから「死」よりも障害者になる「負傷」を恐れるのである。 (続く)
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