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貿易世界大戦

2019年6月1日   田中 宇

米トランプ大統領が5月30日、米国への違法移民の流入を防ぐためのメキシコ政府の努力が不十分だとして、これまでNAFTAの自由貿易協定で無関税になっていたメキシコから米国への輸出関税を、6月1日から5%に引き上げると発表した。メキシコが米国への違法移民流出を止めれば関税をゼロに戻すが、違法移民の流れが続く場合、米国は8月以降さらに対メキシコ関税を引き上げ、10月からは25%にする。これが実施されると、NAFTAは壊滅し、米国で売られている商品の多くが値上がりし、米墨両方の景気が悪化するとともに、米国で消費者物価が上昇し始める。関税引き上げは自滅的な経済政策だ。 (Stunned Wall Street Responds To Trump's Shock Tariff Announcement

メキシコ政府が米国への違法移民をうまく取り締まれる可能性は低い。トランプまでの歴代の米政権は、メキシコなど中米から米国への違法移民の流入をずっと黙認してきた。米財界が、低賃金労働者である違法移民の増加を歓迎していたからだ。米国は選挙の有権者登録が意図的にずさんな体制になっており、違法移民も投票できるが、違法移民は少数派の人権を重視する民主党に投票するので、民主党は違法移民に甘かった。トランプになって、米国は急にメキシコに対し、違法移民を流出させるなと言い出した。米墨国境は抜け穴だらけで、短期間での対策は困難だ。違法移民の流れは今後も続く。 (Business Groups, Lawmakers Upset Over Trump’s Mexico Tariff Plan

今回の対メキシコ関税措置は、米国の財界や政界から猛反対されているので、トランプは違法移民の流入が止まらなくても8月以降の関税引き上げを見送るかもしれない。関税をゼロに戻す可能性もある。だが今後の流れがどうあれ、トランプは今回、違法移民を理由にメキシコに対する関税を引き上げるという新たな政策の手綱を得た。

今回の措置は米国で、政財界(=エスタブリッシュメント)には猛反対されているが、トランプと共和党の支持者たちには大歓迎されている。彼らは「違法移民のせいで自分たちの雇用が奪われてきた。反移民を掲げて就任したトランプは、米国民の雇用を守ってくれている」と考えている。トランプが違法移民を取り締まる政策をやるほど、彼らはトランプを支持する。トランプの支持率は3月の45%から今回48%に上がり、就任以来の最高となった。 (Trump Approval Rating Hits Two-Year High

移民対策と並び、中国など世界から米国に輸出される商品に高い関税をかける措置も、トランプ支持の有権者たちから「米国民の雇用を守ってくれている」と歓迎されている。来年の大統領選に向けて、トランプは、報復関税や移民規制の政策を、世界のあちこちの国々に対してやり続ける。政財界に猛反対されると一時的に引っ込め、しばらくすると再びやって有権者の支持を増やすことを繰り返し、来年の大統領選での再選を目指す。

有権者の間ではトランプの移民規制や懲罰関税といった「米国第一主義」が「米国民の雇用を守る」策とみなされているが、長期的な現実の予測を見ると、とくに懲罰関税による米国市場の世界からの隔離は、米国と世界の経済に対する大きなマイナスや世界不況、米国と世界の人々の所得減や生活水準に低下につながる。今のような米国と世界との経済的に隔離は、これまで一体だった世界経済のシステムを分断し、再構築に長い時間と大きな費用がかかる。世界は対米輸出のドル建ての代金を貯金し、これがドルの決済通貨・国際基軸通貨としての地位(米国の覇権)を維持してきたが、トランプが米国と世界を隔離すると、世界的なドルの必要性が低下し、ドルの価値が下がり、米国民が大損する。米国が自前の製造業を持たず、世界から無関税で旺盛に輸入する体制が、米国覇権・ドル基軸の基盤として必要だったが、トランプはこれを壊す覇権放棄策を展開している。覇権喪失は米国民の生活を大幅に低下させる。有権者はトランプに騙されている。 ('Not Winning' - Collapse In Global Trade Escalates: Imports -2.7%, Exports -4.0%) (米国民を裏切るが世界を転換するトランプ

前日までトランプの貿易戦争といえば、中国との戦いだった。5月10日にトランプが中国の対米輸出品に対する懲罰関税を決めた後、中国側がどんな報復措置をとるかが注目されてきた。米中の貿易戦争は米中両方の経済を打撃するので、世界不況や株のバブル崩壊を引き起こすのでないかと懸念されてきた。ところが今回トランプは突然、中国だけでなくメキシコに対しても貿易戦争を引き起こし、貿易戦争の戦域を大きく広げた。米政府は同時に、EUとの貿易交渉も頓挫させている。トランプが今後、ドイツや日本、韓国などを含む、対米貿易黒字が大きい諸国に対し、懲罰関税をかけていく見通しも語られている。トランプは貿易戦争の戦域を、中国から全世界に広げようとしている。「貿易世界大戦」が起こりつつある。 ("If You Weren't Worried Before, Worry Now") (習近平を強める米中新冷戦

安倍の日本は、先日訪日したトランプに対して日本人お得意の「(表層的な)おもてなし」を行い、表向きトランプと良い関係を結んだように見せたが、これは全く表向きだけであり、今後いつ再びトランプの貿易戦争の矛先が日本に向いてくるかわからない。トランプは日本滞在中に「日本は対米貿易でたっぷり儲けており、大幅譲歩すべき部分がいろいろある」といった感じのツイートを発している。日本は、対米貿易黒字に加え、中国と経済的に断絶できない(したら日本経済が不況になる)ことも、トランプに攻撃される。 (Questionable Alliances: Why America Needs to Reexamine Its International Relationships) (Japan Rolled Out the Red Carpet. Trump Veered Off Into Personal Fixations.

貿易世界大戦の勃発を受け、世界経済の不況色が濃くなり、株価の急落が起こりそうだ。資金が低リスクとみなされる長期米国債に流入し、長期米国債の金利が史上最低級まで下がっている。不況の兆候とされる長短金利の逆転がひどくなっている。ドイツでは失業率が、これまでの低下傾向から上昇に反転した。世界的に自動車が売れなくなっているため、世界の自動車産業が4万人の人員削減と設備の縮小を計画している。 ("Everything Is Under Scrutiny": 38,000 Layoffs Across Auto Industry May Only Be The Beginning

米国の株価が大幅に下がると、トランプの再選に不利になる。トランプは、株価が米経済を象徴していると言い続け、株が高いのだからトランプの経済政策は成功なのだと言ってきた。トランプは、株価を下げたくないはずなのに、株価の暴落を引き起こす貿易世界大戦を始めている。これは一見すると矛盾だ。だがトランプが長期的な覇権放棄(ドル自滅)策の一つとして米連銀(FRB)に大幅な利下げやQE(債券買い支え)への出戻りをやらせたいことを加味すると、納得できる話に変わる。 (株はまだ上がる!?

トランプは貿易世界大戦を起こし、米国の株価をいったん急落させることで、これまで頑固に利下げに反対(利上げに固執)してきた米連銀に大きな利下げ圧力を加え、米連銀に利下げを強要したい。今後、トランプ政権が続く限り、米国は世界に対して貿易戦争を吹っかけ続け、世界と米国の不況がひどくなり、米連銀は利下げや買い支えの再開を続ける。 (Fed’s Patience Tested as Trade Spat Clouds Growth Outlook

米連銀はリーマン危機後、金融延命策として09-15年に不健全なQE・ゼロ金利策を続けた後、ドルの覇権を守るため日欧中銀にQEを押し付け、自分だけ再健全化策として昨年まで利上げを続けてきた。トランプの策略を受けて利下げやQE再開を続けると、米連銀は再び不健全な状態に戻る。ドルの覇権は、貿易戦争と米連銀の再不健全化の両面から、トランプによって低下させられていく。 (世界経済のリセットを準備する

貿易戦争による関税の引き上げは、米国で売る商品の価格をつり上げ、インフレを引き起こす。伝統的に景気が過熱した時に起きるはずのインフレが不景気の時に起きるスタグフレーションになる。これは、金融バブル崩壊と相まって、米連銀の舵取りを不可能にする。 (Real Personal Spending Growth Ends As Fed's Favorite Inflation Gauge Heats Up

米国の債券市場は現在、低リスクな長期米国債から高リスクなジャンク債まで、全体的に買われ続けて史上最低の金利水準だ。一見、債券崩壊の崩壊など起こりそうもない。だが、世界最大の債券取引をしているピムコの分析者は、債券市場が史上最大の危険な状態にあると言っている。ピムコによると米国の債券市場は、バブルの膨張、債券の質の低下(担保との結びつきの曖昧さや担保の少なさ)、社債市場の流動性の低さ(急いで買い手を探せない)という3点において、かつてない危険な状態にあり、リーマン危機前と似ている。リーマン危機など過去の大きな危機の多くは、相場が史上最高値に近い水準にある時に起きている。 (Credit Market `Probably the Riskiest Ever,’ Pimco’s Mather Says) (Mortgage Rates Fall Below 4%, Lifting Hopes for Housing Rebound

株や債券が危険な状態にあることは、最近の米連銀内の人事からもうかがえる。米連銀は5月28日、NY連銀で債券の買い支えやその解消(再放出、QEの巻き戻し=QT)というQEの実務を担当してきた「金融サービスグループ(Financial Services Group)」の正副議長だった2人(Simon Potter と Richard Dzina)が6月1日づけで辞任すると唐突に発表した。突然の急な辞任は、米連銀が金融市場を統制できなくなる前兆でないかという測を呼んでいる。 (N.Y. Fed Loses Top Officers Including Potter in Rare Double Exit) (U.S. Federal Reserve markets czar stepping down

トランプの貿易世界大戦の主戦場は引き続き中国だ。トランプは懲罰関税のほか、ニクソン以来50年間、米国がやっていなかった台湾との軍事担当者どうしの会議の再開など、台湾問題に介入することで中国側を怒らせ、経済と安保の両面で中国を挑発している。だが、中国は米国の挑発に乗らない姿勢をとっている。 (China bridles at rare meeting between Taiwan and U.S. security officials

中国は、世界で最も巨額に米国債を保有している国だ。中国が米国債を大量に売り放ち、米国債の金利を急騰させる「金融戦争」をやって、米覇権の基盤に位置するドルと米国債の崩壊を画策するのでないかという予測も出ている。だが、今の中国は人民元の国際化が未達で、まだドルや米国債(米国の債券市場)への依存度が高く、世界の債券金融システムの頂点に位置する米国債を崩壊させようとすると、米国だけでなく中国自身が大きな損害を被る。中国は、ドルや米国債を崩壊させる前に、中国自身をドルや米国債から自立させる必要がある。中国は、ドル米国債の崩壊を試みる前に、一帯一路の推進など地政学的な力の拡大を進める。 (世界経済を米中に2分し中国側を勝たせる) (「ドル後」の金本位制を意識し始めた米国と世界

中国当局は、米国債を売るより先に、自国の債券金融システムのバブルを意図的・先制的に崩壊させ、いずれ米国が金融崩壊した時の自国への悪影響を減らすことを先行している。中国当局が先日、経営難な内モンゴルの小規模な包商銀行への延命策をやめて国有化した。中国政府による経営難の銀行の国有化は20年ぶりで、これにより中国の銀行間の融資金利が上がり、銀行株が下落するバブル崩壊が誘発された。中国政府は習近平の就任以来、金融バブルを意図的に崩壊させる策を続けており、今回もその一環だ。 (It Begins: For The First Time Ever, China Takes Over An Insolvent Bank) (中国の意図的なバブル崩壊

中国の意図的なバブル崩壊は、きたるべき米国の大バブル崩壊時に共倒れにならないための予防策だが、表層的な中国敵視に終始する米日などのマスコミはそう報じず、中国経済が今にも全面崩壊しそうで、米国は危険でないと歪曲した喧伝を続けてきた。中国政府も、国内バブルはまだ崩壊すると言っており、人々の歪曲された世界観を是正するつもりがない。中国は日米と異なり選挙がないので、有権者を騙すための金融バブル維持が必要ない。今後しばらく、米国より中国のバブルが先に崩壊していく。 (Risk of liquidity shocks haunts China’s fast-growing bond markets) (金融バブルと闘う習近平

中国は習近平が独裁者になった今でも、米単独覇権体制があと30年ぐらい続いてくれた方が余裕を持って中国を台頭させられるので良いと思っているはずだ。「そんな時間はない。早く台頭しろ。さもなくば勝手にドルや米覇権を自滅させるぞ」と中国を急かしているのはトランプの方だ。 (多極化の目的は世界の安定化と経済成長

最近ビットコインなど暗号通貨の相場が再上昇しているが、これも米中貿易との絡みだと指摘されている。貿易戦争や中国のバブル崩壊傾向を受けてドルの資金が中国から米国に流出し、中国はドル不足が起きている。中国の企業や個人が外国に送金するには人民元をドルに替える必要があるが、ドル不足なので中国の銀行はドルに替えてくれない。仕方がないので中国人はビットコインなど暗号通貨に頼るようになり、暗号通貨が買われて相場が上昇している。 (What's Behind Bitcoin's Blistering Ascent: Former Chinese Central Banker Denied Transfer Of $20,000 Abroad

来週以降、トランプの貿易世界大戦を受けた世界不況色の増加で株価の暴落がありうるが、それは米連銀が利下げ傾向を強めて相場をテコ入れすることでたぶん一段落する。トランプは、貿易世界大戦の状態を延々と続け、世界の不況色が強まり、金融市場が不安定化し、米連銀の緩和傾向が長期化する。 (Federal Reserve vice-chair open to rate cuts if outlook dims

これからの貿易世界大戦は「米国vsその他の全世界」「トランプ対世界」の大戦だ。日本も、気持ち的にいくら対米従属を続けたくても、トランプから敵とみなされ続ける。貿易世界大戦は「保護主義のトランプ米国と、自由貿易を信奉するその他の世界」との対立でもあるが、日本は自由貿易を信奉せざるを得ないので、米国の敵である。中国も自由貿易を信奉しているので、日本人がいくら嫌がっても、日本は中国の味方、米国の敵になってしまう。トランプはさすがだ。



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