イランとサウジの接近を妨害したシーア派処刑2016年1月6日 田中 宇1月2日、サウジアラビア当局が、シーア派の宗教指導者ニムル師を斬首刑で殺した。当局はこの日、反逆罪を適用した反政府の47人を同時に処刑した。アルカイダ系のスンニ派43人と、ニムル師らシーア派の反政府活動家4人だった。ニムル師は、シーア派が多く住むサウジ東部州に住み、サウジ政府(スンニ派国民)から2級市民の扱いを受け差別されているシーア派の地位向上や政府批判をモスクの説教で展開することで知られ、シーア派の若者に人気があった(サウジは人口の約1割がシーア派)。サウジ当局は、反政府的なニムルを逮捕しては釈放することを繰り返した後、2011年のアラブの春の時に逮捕し、14年10月に死刑判決を下していた。 (Nimr al-Nimr From Wikipedia) (Protesters Set The Streets On Fire In Bahrain After Saudis Kill Top Shiite Cleric) 昨年サウジでは、20年ぶりの多さである157人が斬首で処刑された。今回処刑された47人の大半は、03-06年に反政府テロ活動をしたスンニ過激派(アルカイダ)の構成員だが、過激派を「純粋なイスラム教の信奉者」とみなして支持するサウジ人も多く「何で彼らだけ殺すんだ」という政府批判が高まることを恐れた当局が、バランスをとるために、シーア派の反政府活動家を処刑対象に入れたという見方が出ている。 (Saudi beheadings soar in 2015 under discretionary rulings) サウジ王家がつかさどる「正統」なイスラム教から見ると、イスラム以前の信仰を秘匿的に内包しているシーア派は「異端」であり、シーア派はサウジで2級市民扱いされている。処刑対象者にシーア派を混ぜることで、シーアを嫌うサウジの多数派住民の不満を散らそうとしたとみられている。サウジ政府は、長引く原油安で財政収入が減り、国民の歓心を買うためにばらまく補助金を削っており、市民の不満が鬱積している。だから処刑にもバランスが必要というわけだ。 (Riyadh feels force of Shia anger) こうしたサウジの国内事情だけがニムル処刑の理由だったとしたら、処刑は愚策だった。ニムル処刑の報道が流れたとたん、中東各地に住むシーア派がいっせいに激怒し、サウジ大使館前などで抗議のデモを開始し、サウジとイランの国交断絶にまで発展したからだ。サウジの国内事情だけを考えても、ニムル処刑は、サウジ東部州のシーア派の反政府傾向を扇動し、東部州に隣接するサウジの属国バーレーン(君主がスンニ派、国民の大半はシーア派)の反政府運動もひどくなり、サウジと隣国イエメンの戦争も悪化するので、サウジの国家安全に全く寄与しない。 (バーレーンの混乱、サウジアラビアの危機) 「シーア派世界」の全体が激怒した理由は、私が見るところ、ニムルが特に有名あるいは敬愛される宗教指導者だったからではない。ニムルは地元で、最も権威ある宗教指導者群の中に入っていなかった。 (Sheikh Nimr al-Nimr: Who is Saudi Arabia's most vocal Shia critic sentenced to death and crucifixion for dissent?) ニムル処刑がシーア派世界を激怒させたのは、タイミング的に、シーア派の全体が自信をつけ、勃興していることが関係している。昨年、イランが米国から核兵器開発の濡れ衣を解かれ、国際社会での影響力を蘇生している。今秋からは、イランの特殊部隊やレバノンのシーア派民兵ヒズボラが、ロシア軍に支援されてシリアでスンニ過激派ISISを打ち破っている。03年のイラク侵攻後、イラクも、スンニ派(フセイン政権)がシーア派を弾圧する国から、シーア派が統治する国に転換している(こんどはスンニ派が痛めつけられている)。シーア派は千年以上、スンニ派に支配され、弾圧される民だった。それが、この10年(もしくは長く見積もって1979年のイラン革命以来の30年)で、シーア派は影響力を拡大し、スンニ派の支配を打破し、自信をつけている。 (イラク「中東民主化」の意外な結末) (「イランの勝ち」で終わるイラク戦争) そんな中で、サウジや、その傀儡国であるバーレーンだけは、スンニ派がシーア派を支配し、痛めつけている。他の地域でシーア派が台頭する中で、サウジだけシーア派を弾圧し、サウジ政府を批判し続けたニムル師を処刑してしまった。絶対許さないぞ、というのがシーア派の気持ちだろう。サウジはISISを支援してきた。サウジとISISは宗教的に同一(ワハビズム)であり、サウジ当局の斬首刑は、ISISの斬首刑と同じ作法だ。イエメンでサウジが空爆している相手もシーア派の武装勢力「フーシ派」だ。 (World Muslims Rise to Condemn Execution of Sheikh Nimr by S. Arabia) (イランも、人口比で見るとサウジと同じかそれ以上の人数を毎年処刑しているが) (Executions in Saudi Arabia and Iran) 中東の長い弾圧の歴史の中で、無数のシーア派指導者がスンニ為政者に殺され、その結果、シーア派の教えに「殉教」の精神、指導者の殉教を各信者が自分の痛みとして受忍する精神が埋め込まれている。ムハンマドの最後の正当な子孫イマーム・フセインの戦死(お隠れ)をいたみ、無数の信者が自らを鞭打つ殉教祭(アシュラ)は有名だ。サウジ当局がニムル師を処刑したことは、まさに、信者たちを守るために闘っていたシーア派の指導者が、独裁的なスンニ為政者に処刑され殉教するという、シーアの教えにぴったり適合する。ニムル師処刑は、シーア派を激怒させ、決起・団結させるために挙行されたかのようだ。 (Saudi Arabia Or Iran? It's Time For Obama To Choose) (動き出すイラクの宗教と政治) サウジ政府は、ニムル処刑がシーア派を激怒させ決起させることを予測していたふしがある。サウジ政府は、ニムル処刑の同日、イエメンとの戦争で、敵方であるシーア派民兵団フーシ派と12月中旬から結んでいた停戦合意を一方的に破棄すると発表している。ニムルを処刑したらシーア派であるフーシが激怒し、戦争が再発すると予測したので、先に停戦を破棄したと考えられる。 (Will the US fall for Saudi Arabia's deliberate provocation?) (Saudi-led coalition ends Yemen ceasefire) (米国に相談せずイエメンを空爆したサウジ) サウジ政府は、シーア派が激怒・決起するとわかっていたのに、あえてニムル師を処刑した。それだけでなく、イランの首都テヘランで、激怒した群衆がサウジ大使館を襲撃し、大使館に放火する事態(警察は傍観していた)になると、サウジは待ちかまえていたかのようにイランを非難し、国交を断絶してしまった。最初からイランとの敵対扇動、国交断絶が目的だったかのようだ。サウジの傀儡国であるバーレーンや、サウジから資金をもらっているスーダンも、イランと国交を断絶した。 (It's On: After Saudis , Bahrain, Sudan and UAE sever ties with IRAN) 分析者の間では「サウジは、イランとの敵対関係をわざと煽り、核開発問題でイランを許したオバマ政権をもう一度自国の側に引き寄せ、米サウジ対イランという敵対関係を復活するため、ニムルを処刑した」という見方が出ている。「サウジは、米国を引っぱり込んでイランと戦争するつもりだ」「サウジは、近く確定する予定の、米イラン間の核協約を壊すつもりだ」「サウジは、支援していたISISがイランに打倒されるのを防ぐため、中東全域でのスンニとシーアの敵対を煽った」といった分析も出ている。 (Oman Criticizes Saudi Arabia for Cutting Ties with Iran) (Saudi Arabia sees survival in escalating tensions: Iran) (Will Mideast Allies Drag Us Into War?) もし、サウジがニムルを処刑した理由が、こうした「米国引っぱり込み」や「米イラン和解の破壊」「ISIS支援」だったとしても、それらの目的は、いずれも達成されそうもない。オバマはここ数年、米国が能動的にイランに接近するのでなく、イランが反米・非米諸国の雄として勝手に台頭するのを看過(隠然と扇動)する受動的なやり方で、イランを押し上げてきた。米国自身は、イランの台頭につながるような、中東での失策を繰り返しただけだ。いまさらサウジが米国を中東に再度引っぱり込んでも、米国は頓珍漢な失策を繰り返すばかりで、事態の流れを変えないだろう。オバマ政権は今のところ、イランとサウジの対立激化を、懸念しつつ傍観しているだけだ。 (U.S. fears Saudi tensions with Iran could affect fight against ISIS) (対米協調を画策したのに対露協調させられるイラン) (シリアをロシアに任せる米国) ロシアは先日、高機能な地対空ミサイルS300を実際にイランに配備し始めたと報じられている。S300が配備されると、空爆のため領空侵犯してくる外国の空軍機を撃墜できるようになる。サウジがイランとの戦争を考えてニムル師を処刑したとしたら、わざわざイランを攻撃できなくなる時期を選んで挙行しており、全く馬鹿だ。(S300は何年も前からイランに「配備される」「された」と報じられており、本当に今回配備されたのか怪しいが) (Russia starts delivery of S-300 missile systems to Iran) イランとの核協約をめぐって米国(議会)は、核協約でイランへの経済制裁を解く代わりに、今度はミサイル開発でイランを制裁しようとしている。これは「サウジ好み」の展開のように見えるが、よく見ると違う。新しいミサイル制裁は、以前の核開発(濡れ衣)での制裁と異なり、欧州や他の国際社会が追随せず、米国だけによる制裁だ。他の諸国は、イランとの経済関係をどんどん強化している。米国企業だけが自国の新たな制裁に規制され、イランの石油ガス利権にもありつけず損をするという自滅的な展開になっている。米企業の圧力を背景に、オバマ政権は、議会が決めたイランへのミサイル制裁を無期限に棚上げした。 (White House Delays Imposing New Iran Sanctions) 米国との関係で考えると、トルコが昨年11月下旬にシリア上空を飛行中のロシア軍機を撃墜した事件は、今回のサウジのニムル師処刑と、似たところがある。トルコによる撃墜は、米国の敵であるロシアとの敵対を強めるもので、サウジによる処刑は、米国の敵であるイランとの敵対を強めるものだ。トルコもサウジも、米国の同盟国で、露イランを敵視する米国の軍産やタカ派の諜報筋が、両国の意志決定に影響を与えた可能性がある。しかも、両方の事件とも、露イランを弱体化するという、推定される目的を達成できないどころか、逆に、露イランの正当性や国際影響力(イランの場合はシーア派の結束)を強める結果になっている。同盟国をそそのかして露中イランなどの敵を弱めるはずの策をやらせるが、実際のところ敵を強化してしまう「隠れ多極主義」的な謀略が想起される。 (トルコの露軍機撃墜の背景) あれも違う、これも違うという書き方になってしまったが、ニムル処刑の目的として考えられるものが、ないわけではない。それは、元旦にバグダッドでサウジ大使館が25年ぶりに再開されたことに象徴される、サウジとイランとトルコが協力してイラクのスンニ派地域からISISを追い出して安定させていく計画が、ニムル師の処刑によって、妨害されたことだ。 (Saudi Arabia reopens embassy in Baghdad) 以前の記事に書いたように、この計画は当初、トルコが北イラクの基地に軍を越境駐留させ、北イラクのクルド軍(ペシュメガ)とスンニ派に軍事訓練を施し、スンニ派地域の大都市モスルをISISから奪還し、ISISに代わる親トルコのスンニ派政府を樹立して、イラクでクルド地域と同様、スンニ地域もトルコの経済圏に組み入れる構想だった。イラク政府がトルコ軍の勝手な駐留に強く反対したため、トルコ軍がいったん引き上げた後、トルコとサウジが昨年末に戦略的な協力関係を締結するとともに、サウジがバグダッドに大使館を再開した。 (イラクでも見えてきた「ISIS後」) (Riyadh announces joint strategic council with Ankara) イラク軍(シーア派)は最近、スンニ派地域の一部であるラマディをISISから奪還しており、次はモスル奪還を視野に入れている。トルコ軍が、クルド軍とスンニ派軍を訓練してモスルを奪還する計画から、イラン傘下のイラク軍(シーア派)と、トルコ傘下のクルド・スンニ連合軍が協力してモスルを奪還する計画に、拡大されたように見える。ISISを追い出した後のイラクのスンニ派勢力を、スンニ派諸国のトルコとサウジがなだめ、経済開発をやってトルコとサウジが果実を得るシナリオだろう。 (Iraq PM: Mosul Is Next Target After Ramadi) この計画には米露も賛成していると考えられるが、スンニとシーアを恒久対立させたい軍産(やイスラエル)にとっては、まずい計画だ。軍産はサウジ王政をそそのかし、ニムル師を処刑させることで、サウジとイランの仲を引き裂き、スンニとシーアの対立を再燃させ、計画を破綻させたいと考えられる。 トルコ政府は1月5日に「死刑反対の立場から、サウジのニムル師処刑には賛成できない」と発表した。数日前に戦略協力関係を締結したばかりなのだから、沈黙していればいいのに、わざわざサウジを批判する内容の表明を行ったのは、トルコのエルドアン政権が、ニムル処刑によってイランとサウジの仲が悪くなり、イラクのスンニ地域をトルコ・サウジ・イランで安定させて儲ける計画が妨害されたことに不快感を表明したと受け取れる(クルド人を大量殺害したエルドアン政権が「死刑反対の立場から」とは笑わせる)。 (Turkey says cannot support Saudi execution of Shi'ite cleric) サウジ王政の上層部は、軍産複合体とつながった親米派と、イランやロシアとの協調関係を作っていきたい非米派が、ずっと暗闘している感じだ。イランやトルコと組んでイラクのスンニ派地域を安定させる計画に乗り、バグダッドの大使館を再開したのは非米派の策だろう。そして、ニムル師を処刑してイランとの関係を悪化させ、イラク安定化計画を妨害したのは親米派の策だと考えられる。 (米国依存脱却で揺れるサウジアラビア) (米国を見限ったサウジアラビア) イラク安定化計画は、妨害されたものの、潰されたわけでない。ISIS退治は、イラクでもシリアでも進められている。すでに述べたようにシーア派は「殉教精神の民」なので、イラクやシリアでISISと戦うシーア派軍勢の士気は、ニムル師がサウジ(=ISIS)に殺されたことによって、むしろ高まっている。いずれISISが掃討されていくと、ISIS退治後のイラクのスンニ派地域をどうするかが再び問われ、サウジとイランの協調が再び模索されるようになると予測される。 (いずれ和解するサウジとイラン)
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