イラク「中東民主化」の意外な結末2010年9月14日 田中 宇2003年3月の米軍イラク侵攻前、イラクの首都バグダッドは、イスラム教徒のスンニ派とシーア派が混ざって住んでいる町だった。シーア派が多いのは、バグダッドに流入した貧しいシーア派の人々を集めて住ませた巨大なスラム街である北東郊外のサダムシティ(現在のサドルシティ)や、シーア派の廟カズミヤ・モスクの門前町カズミヤ(カージマイン)など、そしてスンニ派が多いのは、スンニ派のアザミヤ・モスクの門前町アザミヤなどに限られていた。その他の多くの地域が、スンニ派、シーア派、クルド人の混住だった。 (イラク日記(5)シーア派の聖地) イラクでは、7世紀にイスラム教が興されてから、19世紀のオスマントルコ帝国末期まで、住民の約2割を占める少数派のスンニ派が政治経済の権力を握り、6割を占める多数派のシーア派の多くは貧民だった。第一次大戦でトルコ帝国が滅び、イラクを植民地支配した英国は、支配を容易にするため、意図的にシーア派の決起やクルド人の独立運動を扇動し、シーア派、スンニ派、クルド人という3派のイラク人が対立する構造を作った。 1960年代に英国傀儡の王制が倒された後、政権をとった左翼のバース党は、欧米に付け入るすきを与えるシーア派とスンニ派などの対立をなくすことを目指し、イラクの人口の3割が住むバグダッドの混住状態を政策的に強化し、この過程でシーア派やクルド人を弾圧した。米国コロンビア大学の研究者たち(SIPA Gulf/2000 Project)が2003年に作ったバグダッドの各派の居住分布地図を見ると、サダムシティ、カズミヤなどいくつかが緑色のシーア派地区で、アザミヤなどいくつかが赤いスンニ派地区になっているが、のこりの多くはオレンジ色の混住地区となっていることがわかる。 (Baghdad, Iraq, Ethnic composition in 2003) しかし、同じ研究者が作った2009年後半のバグダッドの地図は、大きく様変わりしている。オレンジ色の混住地区が激減し、緑色のシーア派地区が急拡大するとともに、赤いスンニ派地域はバグダッド空港近くの市街地の西側に圧縮して集められている。スンニ派地区の外側をシーア派地区が取り囲んでいる。スンニ派は、反米感情が特に強い。米軍占領後、巨大な米軍基地と化したバグダッド空港に対し、付近のスンニ派が砲撃を続けたのは、市街地から空港に向かう道路に沿ってスンニ派が住まわせられるようになったからだ。 (Baghdad, Iraq, Ethnic composition by the end of 2009 Small) (Gulf/2000 Project at the School of International and Public Affairs of Columbia University, Map Collections) コロンビア大学の研究者は、06年や07年時点の地図も公開している。それらを見ると、06年時点では、まだ混住地区が多かったのが、その後07年末にかけて混住地区が急減し、シーア派地区が急増していることがわかる。 (2006年の段階の地図) (2007年末の段階の地図) ▼米当局がシーア派にスンニ退治をさせた なぜバグダッドでシーア派地区が急増し、スンニ派が追い込まれたのか。中東に詳しい分析者ガレス・ポーター(Gareth Porter)によると、米政府は05年末まで、スンニ派の武装組織が「アルカイダ」の根絶に協力することを条件に、米軍とスンニ派武装組織が和解する方向で、スンニ派と交渉していた。だが、05年6月にザルメイ・カリルザドがイラク大使となった後、06年初めにカリルザドは、スンニ派との和解交渉を破棄し、代わりにシーア派武装組織にスンニ派武装組織を退治させる政策に転換した。 その後「マフディ軍」を中心とするシーア派武装組織が、バグダッド全体からスンニ派の武装勢力や政治的影響力を排除する作戦を開始し、殺し屋部隊を編成し、バグダッドの各地区からスンニ派を追い出す軍事行動を開始した。06年から07年にかけて、バグダッド中でシーア派とスンニ派の内戦が激化したが、シーア派の勝ちとなり、スンニ派は軍事的、政治的にバグダッドにおける影響力を失った。多くのスンニ派の一般市民が武装したシーア派に家を追われ、国内避難民にされた。混住状態は失われ、シーア派がバグダッドを席巻した。 バグダッドの内戦は07年夏におさまった。米軍は自分たちの占領が成功した結果だと発表したが、実はそうではなく、バグダッドにおいて、シーア派がスンニ派を狭い地域に封じ込める軍事戦略がほぼ完成し、シーア派が勝利した結果だった。スンニ派がシーア派との内戦に負けて弱体化したのはバグダッドだけでなく、スンニ派の拠点であるファルージャを含むアンバール州でも同じ傾向だと、ポーターは分析している。 (Joe Biden and the False Iraq War Narrative by Gareth Porter) (ポーターが定期的に発表する分析の中には、今回のように根拠のある驚くべき指摘が含まれており、注目に値する) (Battle over Afghan peace talks intensifies) (Iran nuclear leaks 'linked to Israel') ムクタダ・サドル師が率いるマフディ軍をはじめとするイラクのシーア派の主要勢力は、すべてイランの影響下にある。シーア派がスンニ派を駆逐してしまったことは、現在と今後のイラクが、イランの影響下に置かれることを示している。イラク戦争にあたって米国は、イラクの次にイランを政権転覆し、イラクとイランの両方を「強制民主化」して米国の傀儡政権を置き、両国の豊富な石油資源を米国のものにする見通しだった。しかし現状は、米当局の容認のもと、イラクで親イランのシーア派が支配勢力となり、反米のイランがイラクを傘下に入れ、世界の石油埋蔵量の2割以上を占める存在にのし上がりつつある。対照的に、米英は中東での影響力を失い、イスラエルは国家存亡の危機にある。 米政府がイラクを傀儡化しておきたかったのであれば、シーア派とスンニ派を競わせ続け、双方を弱体化して手なづけることが必要だった。スンニ派の大黒柱だったバース党に「悪」のレッテルを貼り、シーア派をけしかけてスンニ派の影響力を消してしまったのは大失敗の政策だ。英国がイラク占領を立案したら、もっとうまくやったはずだ。英国は、米国の自滅的なイラク政策を変えていくため、米国と一緒にイラクに侵攻した。だがブッシュもオバマも、英国の忠告を聞かなかった。 英国は、米政府がシーア派をけしかけてスンニ派を追い出す自滅的な作戦を完遂し、イラクが親イランのシーア派のものになることが決定的になった07年後半、英軍が占領していた南部の町バスラから撤退することを決め、地元のシーア派武装勢力に統治権を移譲し、英軍は09年に撤退を完了した。英国は、米国がみすみすイラクの利権をイランにくれてやるのを目前で見つつ、何もできなかった。そして英国の世論は、米国を説得するためにイラク侵攻につきあったブレア前首相を悪者扱いしている。ブレアは失敗したものの、英国にとって最重要の国家戦略である米英同盟(英国が米国の世界戦略を動かせる体制)を救済するつもりだった。 ▼イラクは内戦にならない 米軍の戦闘部隊も、今年8月にイラクからの撤退を完了した。前述の分析者ガレス・ポーターらは、米国の正規軍がイラクから撤退する代わりに、米軍傘下の数万人の傭兵部隊がイラクに派遣されているので、今後も米国は武力でイラクを制圧し続けると予測している。しかし米軍が撤退した今後、マフディ軍などシーア派諸派は、しだいに大胆に軍事行動を行い、これまで避けてきた米軍や傭兵部隊との戦闘に踏み出す可能性が強まる。好戦的な傭兵部隊を下手に使うと、正規軍が減って全体的にイラク駐留勢力が弱くなっている米軍は、シーア派によって追い出されかねない。戦争で最も難しいのは撤退である。撤退時に敵を威嚇するのは愚策だ。米軍が撤退し、傭兵部隊に任せると、イラク占領は最終局面で失敗する。 (Obama drops pledge on Iraq - Gareth Porter) 米国が軍事的にイラクから撤退しても、スンニ派とシーア派、クルド人が永久に内戦をするように仕組んでいるので、イラクは永久に安定しないと、米国のイラク専門家が言っていた。これも、お門違いな予測だと思う。すでにシーア派がスンニ派の武装勢力を駆逐した以上、恒久内戦にならない。米軍撤退後のイラクは、イランの影響下で安定し、大産油国になるだけだ。イランは、トルコ、シリアとも協調関係を築いており、イラク、イラン、トルコ、シリアに分かれて住んでいるクルド人は、すべての国から監視され、決起できない。クルド人の決起を扇動してきた米英イスラエルの影響力は落ちている。 イラクのシーア派の主要な政治家として、イスラム指導者であるムクタダ・サドル、シーア派イスラム政治活動家としてサダム・フセインに追われ、イランで亡命生活を送っていた現首相のヌーリ・マリキ、1975年にフセインが権力を取った後にハース党を辞めて反サダム人士として英国で亡命生活を送っていた前首相のイヤド・アラウィなどがおり、連立政権を組むべく合従連衡している。米軍撤退後、親米のアラウィと反米・親イランのマリキらの対立が強まるという見方がある。サドルはアラウィに接近してイランに叱られ、逆切れしてイランからレバノンに引っ越しすかもしれないとまで言われている。 (Sadr Threatens to Leave Iran and Relocate to Lebanon) しかし、イランを中心とするシーア派の宗教・文化・政治のネットワークは隠微で奥が深い。米国の傀儡だったはずの、ネオコン傘下のアハマド・チャラビ(シーア派亡命イラク人)が、イラク戦争後、見事に反米親イランの政治家に変身したのに象徴されるように、イランの政治力はかなりのものだ。シーア派政治家が本気で内部分裂するとは思えない。サドルが本当にレバノンに行ってヒズボラに合流したら、それはむしろイスラエルにとって脅威だ。 (Iran's Power Rooted in Shia Ties) 米国のネオコンの方は、イランと対を成すかのように、隠れ多極主義的、ユダヤ的に奥義が深い(親イスラエルのふりをした反イスラエル)。ネオコンは、イランのスパイだったチャラビを、スパイと知りながらネオコンの仲間に入れ、チャラビがフセイン政権転覆後のイラクをイラン寄りにしていくエージェントとして活躍することを黙認したふしもある。スンニ派との和解を破棄してシーア派にスンニ派退治をやらせたカリルザド(アフガン系米国人)も、ネオコンと近い存在だ。 (Chalabi Factor in Iraq) ▼ネオコンの中東民主化は本気だった? 英国の「権威ある」医学論文誌「ランセット」やその他のシンクタンクの概算によると、イラク侵攻後、イラク国民(2200万人)の5%前後にあたる100万人前後が死んだと言われている。この数字は、ランセットが時々やるように、政治臭が感じられるが、無数の市民が殺されたのは確かだ。 (Lancet surveys of Iraq War casualties From Wikipedia) (インドを怒らす超細菌騒動) 死者の大半は、銃撃や爆弾によるもので、その中には今回とりあげた、バグダッドでシーア派がスンニ派を駆逐する作戦の犠牲になった人が、かなり含まれているはずだ。これは、シーア派がスンニ派を民族浄化した犯罪行為だった(米国が黙認・扇動し、マフディ軍などが挙行)といえる。スンニ派の武装組織も、報復としてシーア派市民を殺し、脅して立ち退かせ、国内避難民にしている。 (Displaced Iraqis: Sunni family's story) (Displaced Iraqis: Shia family's story) 自分が「良心派」であることを示すため、これらの戦争犯罪を許すな、と免罪符的に叫ぶ必要があるかもしれないのだが、私はここで思考を停止して良心派になるよりも、イラクがシーア派主導の国になることの意味を考えたい。これは「シーア派イスラム教徒」というものが初めて形成された西暦635年(イスラム軍がササン朝ペルシャを破りバグダッド陥落)以来、約1400年ぶりに、初めてイラクが、多数派のシーア派が統治する国になるという「民主化」を達成したということである。 (私が見るところ、シーア派のシーア派性は、イスラム教に帰依する前に彼らが持っていたペルシャ・メソポタミアの古来の高度な宗教が、イスラムによって消化しきれずに残っているものであり、文明がなかったアラビア半島の人々は、そのような「余計な昔の迷信」が信仰に含まれないので、正統派を意味するスンニ派になった。私がこの説を言いすぎると、イスラムを冒涜しているとして殺されかねない。今のところ「空想屋」と揶揄されるだけだが) ブッシュ政権が掲げた「中東民主化」の結果としてイラクの政権転覆が行われ、それから7年たってみると、イラクがシーア派の国になるという究極の民主化が達成されている。イラクをシーア派主導に転換させ、史上初の民主体制を作ることを誘導したブッシュの中東民主化は、非常に暴力的で大量殺戮的なやり方であるが、本当に中東(イラク)を民主化したのである。 ブッシュの中東民主化は「パレスチナ(イスラエル、西岸、ガザ、ヨルダン)」を「民主化する」ことも実現しかけている。イスラエルは、イスラム勢力に囲まれ、中東和平のふりをした引き延ばし戦略しかできないほど追い込まれている。いずれ事態が再び悪化して暴発すると、最後には、パレスチナは「パレスチナ人の国」になる。イスラエル(ユダヤ人にしか主権を与えず、アラブ系を抑圧している)とか、ヨルダン(英米傀儡の王室が、国民の大半を占めるパレスチナ人を支配している)といった「民主的」でない国々は、消えゆく方向にある。この「民主化」の前に核戦争(イスラエルの核兵器200発)が起きるかもしれないという、非常に暴力的な民主化が進んでいる。 (ヨルダン国王は、1960年に政権転覆されて殺されたイラク国王の兄弟の家系。ハーシム家。ヨルダン国王の祖先は第一次大戦前、アラブ民族主義を掲げて英国のオスマントルコ潰しに協力した見返りに、英国から、ヨルダンとイラクの王家の地位をもらった。1915年に英国と「フセイン・マクマホン書簡」を交わしたフセイン・アリ) エジプトの親米の独裁ムバラク政権も、イスラム同胞団に取って代わられる可能性が増しており、これも「中東民主化」だ。これらの中東民主化は、ネオコンやチェイニー前副大統領による画策である。ネオコンの詭弁の奥の深さを考えると、この一致は偶然と言いがたい。ネオコンは、中東民主化を、非常に暴力的なやり方で、本当に実現するつもりだったのではないかと思えてくる。彼らは、隠れ多極主義者として、米英イスラエルの覇権解体や、中露の台頭も、合わせて実現するつもりだったのではないか。それらの多くが成功しつつある。 私のこうした考え方に「それは考えすぎ」「戦争や人殺しは悪です。民主化とは全然違うものですよ」とお怒りになる「良心派」の読者が多いかもしれない。だが、左派(良心的市民運動)や右派(対米従属者)の人々が陰謀論と切り捨てて見えないようにしている間にも、イラクやパレスチナの暴力的な「民主化」や、覇権の多極化は、着々と進んでいる。
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