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インドを怒らす超細菌騒動

2010年8月20日   田中 宇

 インドの首都の名前を冠した「ニューデリー・メタロベータ・ラクタマーゼ1」(NDM−1)という名前の、抗生物質が効きにくい「超細菌」(スーパーバグ。病院で薬を多用した結果、抗生物質など薬剤が効かなくなる耐性が強まった細菌)の感染が、世界的な問題になっている。NDM−1は、腸に入って感染し、肺炎など他の臓器の炎症を起こし、治療薬も少ないので致死性が高いと報じられている。 (New Delhi metallo-beta-lactamase From Wikipedia

 感染者の多くは、医療費を安くあげるためにインドやパキスタンに行って治療・手術や美容整形を受けた欧州人で、印パの病院で感染し、欧州に帰国後、発症が確認されたという。英国で約50人の感染者が見つかったほか、スウェーデン、ベルギー、オーストラリア、米国などでも感染者がいるという。 (New 'superbug' found in UK hospitals

 8月11日、英国の「権威ある」医学雑誌「ランセット」が「NDM−1が公衆衛生の世界的な問題になる潜在性は、非常に大きい。世界的な調査が必要だ」とする論文を載せ、大きな問題になっていく可能性が高まった。ランセットの論文は、インドやパキスタンが欧米などの外国人を目当てに、安い価格で病気治療や美容整形手術などのサービスをほどこす「医療ツーリズム」に力を入れていることが、超細菌の世界的な蔓延に手を貸しているという論調で締めくくっている。 (Emergence of a new antibiotic resistance mechanism in India, Pakistan, and the UK: a molecular, biological, and epidemiological study

 欧米マスコミは、このランセットの結論に飛びつき「インドが医療ツーリズムに欲を出し、治療方法のない病気を世界にばらまいている」といった論調で記事を書いた。WHO(国連の保険機関)関係者の「美容整形による超細菌の感染例は氷山の一角にすぎない。本当ははるかに多くの患者が、この細菌の犠牲になっているはずだ」というコメントを載せる記事も出た(豚インフルエンザの例など、近年のWHOは扇動が目立つ)。 (Scientists find new superbug spreading from India) (A WHO panelist said superbug is probably killing many people

 インドの政府や医療界、マスコミなどは、激しく反応した。ランセットの論文は17人の研究者の共著だったが、その筆頭はインドのマドラス大学のクマラスワミー(Karthikeyan Kumaraswamy)という医学者だったため、ランセットが論文を発表するとすぐ、この研究者に非難が集まった。クマラスワミーは「私はこの論文について、科学的な調査をしただけだ。実際の文章の推敲は、英国人の医学者が行った。発表された論文の内容の一部は、私の知らないものだ」と表明した。 (Did superbug really originate in India?

 インド政府の厚生相は、この表明をもとに「ランセットの記事のインド批判の結論は、純粋に医療の観点で書かれたものではなく、他意があって書かれたものだ」と発表した。ランセットの記事をまとめた医学者たちが、米国の製薬会社ワイエス社(ファイザー傘下)などから資金援助を受けていたことから、製薬会社からの圧力でインドを悪者にする結論が書かれたとの指摘も出た。 (Ulterior motive behind tracing superbug to India?) (We didn't meddle with superbug study: Wyeth

▼インドを批判する不自然

 抗生物質が効かない薬剤耐性菌ができてしまう原因の一つは、病院での抗生物質の使いすぎである。ランセットの論文は、耐性菌の発生の世界的な増加を受けて書かれている。細菌を区分する手法として「グラム染色」があり、細菌はグラム陽性菌と陰性菌に分類できる。ランセット論文によると、従来は抗生物質が効かなくなる薬剤耐性は、グラム陰性菌に起きることが多ったが、最近はグラム陽性菌にも耐性化が起きるようになっており、その一つの例が今回のNDM−1だ。グラム陰性菌に対する薬は種類が多いので、耐性化が起きても薬を変えて対応できるが、グラム陽性菌に対する薬は種類が少ないので、耐性化が起きると対処できないことが多い。これがNDM−1の引き起こす、致死的な問題である。 (Emergence of a new antibiotic resistance in India

 またランセット論文によると、以前は耐性の発生が入院患者に限られていたが、最近は、入院せず、大衆薬として抗生物質などを多く服用している人にも耐性化が起きるようになっている。

 これらの新しい問題の背景には、病院で患者に投薬する処方薬と、病院外で処方箋なしに患者自身が薬局で買って飲む大衆薬の両方で、薬を過剰に服用するケースが増えていることがある。過剰投与による耐性化を防ぐ方法としてまず考えられることは、製薬会社の過剰な営業を抑制し、薬の使いすぎを減らすことだ。ランセットの論文の結論は、本来、製薬会社への指導の徹底などの提案になるべきだった。

 しかし実際の同論文の結論は「英国からインドへの医療ツーリズムの増加は、英国の健康保険への負担を減らす現象のように見えるが、実はこれによってNDM−1の被害が英国で増え、英国の健康保険を逆に圧迫している」と、インドへの医療ツーリズムを批判して締めくくっている。インドへの医療ツーリズムに対する危険が扇動され、英国の患者がインドに行かなくなることによって得をするのは、英国の病院業界である。

 英政府はすでに09年1月、医療ツーリズムが耐性菌の拡大を増やすことについて警告を発している。その警告(National Resistance Alert)には、医療ツーリズム利用者によって耐性菌を英国に送り込んだことがある国々の名前が列挙されているが、インドの国名は出てこない。名指しされたのはギリシャ、トルコ、イスラエル、米国といった国々だった。 (Lancet's superbug report is another misuse of broken peer review

 医療ツーリズムはインドだけでなく、世界の多くの政府が、外貨獲得の手段として奨励している。また、耐性菌の発生もインドだけでなく各国の病院で起きており、世界的な問題である。ランセットの論文で、インドとパキスタンだけが名指しされ、両国の医療ツーリズムだけが耐性菌発生の原因であるかのように書かれたことは、現状を正しく反映していない。インドの厚生相が「他意のある結論だ」と怒ったのは当然だった。 (India attacks resistant superbug study, unscientific and economically motivated

 今回の耐性菌が命名されたのは昨年だが、その名前に「ニューデリー」というインドの首都名が冠されたことも、インドに対する恣意的な中傷だという主張も、インド側にある。今回ランセットが出した37人の症例のうち、過去1年間に印パの病院で治療を受けたのは、約半数の14人にすぎなかった。耐性菌の発生源が本当にインドなのかどうか怪しいという指摘が出るのも自然なことだ。 (Lancet's superbug report is another misuse of broken peer review

▼豚インフルエンザ終結宣言の翌日に超細菌問題の論文

 今回の件は、製薬業界や英国の医療業界が、ランセットの論文の結論をねじ曲げた疑いを、インド側から持たれている。だが、この疑惑の構図は、世界的にあまり報じられずに終わるだろう。欧米日のマスコミと、それ以外の国々の英文マスコミの多くは、英米が保持するプロパガンダ体制(情報覇権体制)のもとにある。そして英国のランセットは、医学分野の世界的な権威であり、世界の医療分野の正否・善悪を決定できる英国の覇権装置(学術プロパガンダマシン)の一つである。世界の主流マスコミが、ランセットを批判する立場をとるとは考えにくい。

 今回のNDM−1と同じ構図を持った医療関係の国際扇動事案として「豚インフルエンザ」(H1N1)がある。WHOがH1N1の危険性を扇動し、世界各国の政府が膨大な量のインフルエンザ・ワクチンを購入し、欧米のいくつかの製薬会社がぼろ儲けした。WHOの顧問をしていた欧州人の医学者たちが、製薬会社から金をもらってH1N1の危険性を扇動していたことが明らかになっている。 (インフルエンザ騒動の誇張疑惑) (Third of WHO advisers on the swine flu epidemic received support from drugs firms) (WHO scandal exposed: Advisors received kickbacks from H1N1 vaccine manufacturers

 しかし世界的な規模で見ると、H1N1の危険性が扇動された誇張だったことは、ほとんど報じられていない。世界で何百万・何千万人もの死者が出るだろうと大々的に報じられた挙げ句、実際に死亡した人がはるかに少なかったのに、その誇張性を指摘する記事もマスコミに出ない。世界の人々の多くも、日々の雑事に追われて誇大報道をすぐに忘れ、マスコミの構造的な問題について考えることはない。私は何度かH1N1の誇張問題について指摘、分析したが、私の記事など、大多数の人々には陰謀論にしか見えないだろう。 (インフルエンザ強制予防接種の恐怖) (豚インフルエンザの戦時体制

 WHOは8月10日、H1N1の世界的流行(パンデミック)の時期が終わり、下火になったと宣言した。WHOは、豚インフルエンザの誇張事件で、ほとんど非難されることなく逃げ切った。そして、H1N1の終結宣言が発せられた翌日付けのランセット誌に、H1N1誇張問題と同じ構造を持った今回のNDM−1の蔓延の可能性についての論文が出るという展開になっている。WHO顧問の腐敗が指摘されてしまったH1N1は早めに終わらせ、次の誇張プロジェクトであるNDM−1に移ろうという感じだ。誇張しても世界の人々が怒らないので、何度でもやるということらしい。 (WHO downgrades H1N1, declares flu pandemic over

▼先進国と新興国の分断に拍車がかかる

 とはいえ、H1N1とNDM−1では、重要な点で構図が異なっている。H1N1は特定の国を批判するものではなかったが、NDM−1はインドを批判するプロパガンダとなっており、インドと欧米との対立を煽るものとなっている。

 インドは中国、ロシア、ブラジルとともに、BRIC(4大新興国)を構成している。中国やロシアは、冷戦時代から、英米が人権や環境、軍事などの濡れ衣的・誇張的な口実を作って中露を非難する戦略の「やられる側」だった。ロシアや中国などの新興諸国、イスラム諸国などの途上諸国は、NDM−1の問題でインドが濡れ衣をかけられる立場にあることを理解し、この問題は、新興諸国・途上国という「非米同盟」と、欧米日(先進諸国)が対峙する構図になる可能性が高い。欧米日のマスコミは、ランセットのプロパガンダを鵜呑みにする報道を展開するだろうが、非米諸国ではランセットのインチキさが指摘される。世界は、すでにイラン核問題などをめぐって価値観の分断状態にあるが、この分断に拍車がかかる。

 価値観の分断状態が続くと、英米中心体制の影響範囲が、全世界から、先進国のみへと縮小する。英米が発するプロパガンダ(情報歪曲、善悪観操作)は、新興諸国や途上諸国に浸透しにくくなる。世界は、経済面でも、債券金融(影の銀行システム)やドルの大増刷(量的緩和)の金融バブルを突っ走る米欧日と、その構図に入らず、製造業や地下資源の分野を世界的に握ることに精を出す新興諸国との分断が顕著になりつつあるが、同じことが情報分野(プロパガンダ、善悪観)でも起きている。

 世界経済に占める新興諸国の割合が増し、欧米日先進国の割合が減る転換が進んでいるが、この転換は、新興国と先進国が経済システムや情報の分野で分断された状況下で起きている。先進国では今後、ドルや米国債、英国財政、金融界など米英経済の破綻が予測されるが、世界が分断状態を強めているので、英米の破綻は特に先進諸国内に大きな悪影響を与え、新興国と先進国の逆転に拍車をかける。米英が破綻する過程で、日本やEUはドルを防衛すべく無駄金を使わされるが、中国など新興諸国はドルを見捨て、あまり無駄遣いをしない傾向となる。

 今回のNDM−1と並び、新興国と先進国が価値観の分断状態にある科学の問題として先行するのが、地球温暖化問題だ。地球温暖化問題もNDM−1と同様、英国主導で扇動され、先進国が新興国から「温室効果ガス排出権」の名目でお金をピンハネし、英米主導の先進国中心体制の延命に貢献する策略だった。しかし、昨年末のコペンハーゲンサミット(COP15)などを経て、新興国が先進国から環境対策費の援助金を出させる構図へと転換し、一転して新興国が優勢になった。この転換を見ると、温暖化問題の策略を練る英米の中枢に、こっそり新興国を優勢にして多極化を進めようとする隠れ多極主義者がいると感じられる。 (地球温暖化めぐる歪曲と暗闘(2)

▼情報操作の過剰行使で覇権の自滅

 インドは、英国から独立して63年経つが、いまだに英国の策略(印パ分断策など)に乗せられたまま、弱い立場にある。インド人はナショナリズムを気取るが、実は英米の傀儡であり続けることに安住している(日本人と似ている)。インドは、これまでBRICの中で最も欧米寄りの国であり、北隣の中国とも、親しくする一方で敵対を煽ることもやり、揺れ動いている。今回のNDM−1の問題は、そんなインドを反英国の方向に押しやっている。問題のランセット論文は、インドの独立記念日(8月15日)の直前という、インド人のナショナリズムを逆撫でする時期に発せられた。今回の問題は、隠れ多極主義的な側面を持っている。

 軍事優先主義的なことを過激に主張するなど、隠れ多極主義的な色彩がある右派の米ウォールストリート・ジャーナルは、NDM−1問題で早速、インド政府を陰謀論者扱いして中傷し、インド人を怒らせるような論評記事を出している。 (How to (Super)bug an Aspiring Superpower

 NDM−1問題は、英国の世界戦略を失敗させる要素すら持っている。英国は第2次大戦以来70年間、米国との「特別な関係」を最重視し、米国に覇権の技能を伝授して、米国を覇権国にしてやる代わりに、英国が米国の世界戦略の立案機能を牛耳る策をとってきた。しかしリーマンショック後、米国の破綻が不可避になる中で、英国は、キャメロン政権ができて政権党が労働党から保守党に代わったことを機に、英米中心主義に対する固執を捨て、BRICの一角であるインドなどに接近する新戦略を開始している。キャメロンは首相就任前に「(米国ではなく)インドと、特別な関係を築きたい」と表明している。 (Farewell, the Special Relationship?

 旧英領であるインドは、英国にとって動かしやすい対象だ(英国は、操作できる仕掛けを作ってから各植民地を独立させている)。インドを通じてBRICを攪乱ないし操作し、多極型の世界体制を弱体化したり動かしたりするのが、今後の英国の世界戦略だと推察できる。NDM−1問題をめぐってインドと英国が対立することは、この新戦略を壊しかねない。

 ランセット自体、今回の論文の結論歪曲問題が今後暴露されていくと、権威の失墜につながる。先進国のマスコミは、ランセットを批判しないプロパガンダ体制下にあるが、歪曲報道に頼らないと権威を保てなくなるほど、プロパガンダ体制は酷使されて弱体化につながる。温暖化問題の「クライメート・ゲート」は、温暖化問題で世界を主導してきた英国の気候学界の権威を失墜させた。 (地球温暖化めぐる歪曲と暗闘(1)

 プロパガンダ(情報操作)は、ごくたまに発動する限りにおいて効果を発揮する。最近のように、イラク、アフガンの占領、韓国の天安艦問題、米英の経済指標、地球温暖化、BPのメキシコ湾原油流出など、あらゆる問題で歪曲報道をしなければならない状況は、情報操作の「過剰派兵」であり、マスコミに対する人々の信頼をそこない、英米の情報覇権の破綻につながる。その意味でも、今回のランセット論文の歪曲は、隠れ多極主義的な色彩がある。



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