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WTOの希望とTPPの絶望

2013年12月11日   田中 宇

 12月7日、インドネシアのバリ島で開かれていたWTO(世界貿易機関)の閣僚会議で、WTOの18年の歴史上初めて、すべての参加国による合意が成立した。合意に達したのは、議論されていたドーハラウンドの貿易交渉の幅広い諸分野のうち、通関の効率化や農業補助金など、一部にすぎない。 (WTO overcomes last minute hitch to reach its first global trade deal

 しかも農業補助金の削減に関し、来年の選挙で与党が苦戦しそうなインドが、国内農民の支持喪失を恐れて強く反対し、一時は合意達成が無理と予測されていた。結局、農業補助金は本格交渉を延期する暫定合意を結び、インドの反対に白黒をつけず、合意に至ることを優先した。このまま合意できなければ、WTO自体の存続が危ぶまれていた。 (India faces WTO crunch in food wrangle

 WTOは、第二次大戦直後に設立された前身のGATTが先進諸国間の工業製品貿易における関税引き下げが交渉の中心だったのを拡大し、途上諸国を参加国に加え、農産物やサービスの取引、投資や知的所有権の問題も交渉する場として1995年に創設され、01年からドーハラウンドとして交渉が始まった。しかしこのころから、WTOやGATTを主導してきた米国が、単独覇権主義の傾向を強め、米国の企業や農家に有利な貿易体制を提案する一方で、他の国々の反対に直面しても譲歩せず、交渉が頓挫するようになった。 (世界貿易体制の失効

 ドーハラウンドは多くの分野で、05年の交渉妥結が目標だったが、05年をすぎても全体合意できる点が一つもなかった。加えて米国は、NAFTAやTPP、TTIP(米欧FTA)など、WTOの枠組みを無視した米国中心の多国間貿易体制の創設に傾注し、WTOの座礁を放置した。ドーハラウンドやWTOの「死」が語られ、今年の閣僚会議で何も決められなければWTOはおしまいだといわれていた。今回、問題は残りつつも、ようやく159の全加盟国が合意に達したことで、WTOは蘇生への道が見え始めた。 (WTO: Up in the air

 主導役だった米国が交渉を頓挫させたまま放置したWTOが、今回初めての全体合意に達することができたのは、今年9月にWTOの事務局長に就任したばかりのブラジルのアゼベド元貿易交渉担当が、中国など他のBRICSや新興諸国をまとめつつ、インドを説得したからだった。WTOの主導役が、米国からBRICSへと交代した結果、米国が進めなかったドーハラウンドの合意が実現した。WTOの今回の合意は、これまでの米国覇権よりも、顕在化しつつある多極型の覇権体制の方が、国際社会の運営がうまくいくことを示している。 (WTO chief urges last-ditch talks as draft deal nears) (Global deal shows `coming alive' of WTO

「地球温暖化」対策の分野でも、似たような動きが進んでいる。温暖化対策の世界的な主導役は、09年のCOP15の前後、米国から中国へと交代している。米国は1997年に京都議定書を決めたが、米国自身が議会の反対で議定書を批准せず、議定書の実施は挫折した。その後、英国などが主導役に入り、温室効果ガスをこれまで排出してきた先進諸国が、これから排出する新興諸国から資金を取るかたちでの温暖化対策を進めようとした。 (新興諸国に乗っ取られた地球温暖化問題) (Last-minute deal saves fractious UN climate talks

 しかしCOP15を機に「チャイナグループ」や「G77」と呼ばれる中国などBRICSや途上諸国が反対を強め、主導役の座を先進国から奪った。温室効果ガスをこれまで排出してきた先進国が、途上国に金を払えという要求がCOPの議論の中で強まり、11月下旬にワルシャワでおこなわれた国際会議では「誰が金を払うかは2015年のパリサミットより後に決める」と先送りを狙う先進諸国を非難して、132の途上諸国退席するなど、先進国と主導権争いをしつつ、途上国がしだいに優勢になる流れが続いている。 (Poor countries walk out of UN climate talks as compensation row rumbles on) (地球温暖化の国際政治学

 覇権の多極化は05年ごろから少しずつ顕在化しているが、これまで「覇権国は一つの方がうまくいく。国の体制や得意分野が食い違う中国やロシア、インド、ブラジルが、うまく協調していけるはずがない。途上諸国は自国のことしか考えていない。多極化すると世界の混乱がひどくなる」「民主主義と自由貿易を国益とする点で一致している米欧など先進諸国が世界を主導する体制にまさるものはない」とあちこちで指摘されてきた。たしかに、今回のWTO会議でも、農業問題の棚上げでインドが納得し、解決の道筋が見えてきた土壇場になって、キューバが、米国に長年の経済制裁を解除してもらおうとする策にマイナスだとして反対するなど、途上諸国の中に身勝手な動きがある。 (WTO global trade deal hangs in balance

 しかし同時に今回、BRICSが自らの国益と世界全体の利益を何とかすりあわせ、WTOを初めての合意に導いたことは「身勝手なBRICSは、多極型覇権など運営できるはずがない」と豪語してきた先進国の「専門家」たちが間違っていることが示された。この10年ほど、世界でダントツに最も身勝手なのは米国だ。しかも最近、米国は身勝手さに拍車がかかっている。それは、世界の外交官の多くが感じているはずだ。そのような中で、米国が棄てて死に体になっていたWTOが、BRICSに拾われて蘇生し始めたことは、特に途上諸国にとって新たな希望となっている。

 12月7日、バリでWTOの会議が終わると同時に、シンガポールでTPPの交渉が始まった。TPPの交渉は12月10日まで続いたが合意にいたらず、目標としていた年内合意を達成できなかった。合意できなかった理由の一つは、企業が政府の経済政策を不公正だとして提訴できる国際法廷を新設する米国の案に、反対する国が多かったことだった。 (貿易協定と国家統合

 米国が進めるTPPとTTIP(米欧FTA)の大きな特徴は、企業に政府と並ぶ権限が与えられることだ。昨今の米政府は企業の政治圧力に弱い。TPPはその象徴で、米国の大企業群(財界)と大統領府(ホワイトハウス)の高官だけで案が練られ、米議会にも内容がほとんど知らされていない。最近は、議会も米財界からの圧力を受け、米政府が他の諸国とTPPやTTIPで合意したら、時間短縮の名目で、米議会の承認(批准)を経ずに法制化できる「ファストトラック法案」を、米議会が来年早々に可決しようとしている。 (U.S. Congress could OK trade promotion bill in early 2014, lawmaker says

 TPPやTTIPが現実になると、たとえば政府が官制健康保険の対象となる医薬品の薬価について、製薬会社が高すぎる値段をつけても値引きを求めにくくなる。米国はすでにブッシュ政権時代に、この薬価交渉を政府に禁じる法律を作り、その結果、官制健康保険であるメディケアの赤字が急増し、保険料が高くて払えない米国民が増え、無保険者が急増した。メディケアを立て直すために今年始まったオバマケアも、申し込みウェブサイトの失敗などで、すでに破綻に瀕している。 (米財政赤字の何が問題か

 米国の官制健康保険の中でも、上層部の人々が破綻させたくないと思っている米軍の健康保険は、製薬会社に薬価の値下げを求めるの交渉が認められ、赤字になりにくい。対照的に、貧困層や一般市民が加入するメディケアやオバマケアは、近視眼的な製薬会社の金儲けに乗り、制度ごと破綻しかけている。健康保険制度の破綻は、長期的に製薬業界にも大きなマイナスなのに、そんなことはおかまいなしの自滅策がおこなわれている。 (飢餓が広がる米国

 TPPなどが実現すると、健康保険制度が破綻させられる流れが、米国以外のTPPとTTIPの加盟国に波及する。TPPでは、健康保険制度が充実している日本が、特に大きな被害に遭うだろう。TPPが実施されて10年もすると、国民健康保険の破綻色が強まっているだろう。TPP推進派の米企業のお先棒担ぎとして、安倍首相に医薬品取引の自由化を迫ったミキタニ某などは国賊級だ。 (TPPが日本の政界再再編につながる?[その後つながってないけど]

 同様に、バブルを膨張させる金融界の動きを規制しようとする日本政府などの政策も、不公正だと米金融界から訴えられかねない。日本などTPPの加盟国が、こうした米国流の自滅的な自由化を止めようと政策を変更すると、TPPの「投資」の項目に沿って設立される「国際法廷」で米国企業などと闘わねばならない。国際法廷の判事をどのように選定するか、完全秘密のTPP交渉は明らかにしていないが、法廷は米国主導で作られるのだろうから、米企業に有利な判決を出す人々が判事になるのだろう。

 まるで昔の共産主義国(や今の北朝鮮)の「人民裁判」のように、最初から判決が決まっている茶番劇だ。国家が企業人を処刑した共産主義の法廷と逆に、TPPの国際法廷では、企業の代理人たる判事が、国家を処罰する。スターリンと米大企業の配役が逆になっただけだ。TPPは、ジョージ・オーウェルの「1984」の構図にまさに当てはまる、逆説的な国際共産主義「逆人民裁判」である。TPPは「自由貿易」と正反対のものだと英ガーディアン紙が指摘している。 (The Trans-Pacific Partnership treaty is the complete opposite of 'free trade'

 茶番法廷の存在は、90年代に米国、カナダ、メキシコが締結したNAFTAの自由貿易協定に、すでに盛り込まれていた。NAFTAの法廷では、環境保護を理由に石油開発を認可しなかったカナダ政府が米石油会社から訴えられるなど、市場や資源開発で有望なカナダの国権が特に否定される事態になった。TPPやTTIPでは企業の権力が、NAFTAよりさらに大きく認められている。TPPが実現すると、茶番法廷で最も米企業の標的にされ、食い物にされるのは、大市場である日本だろう。TPPは長期的に(財界人以外の)日本人の生活を悪化させることがほぼ確実だ。TPPは日本人に絶望をもたらす。 (The lies behind this transatlantic trade deal

(カナダはNAFTAを強化した国家統合をやるべきだという主張が最近、米財界と近いWSJ紙に載った。日本もあわれだが、カナダもかわいそうな国だ) (Why Canada and the U.S. Should Merge, Eh?

 TPPの構想は米財界が決めてオバマが承認したもので、本質的な全容は交渉参加国も知らされていない。交渉参加の諸国は、米国との同盟関係を維持したいので、全容を把握しないまま合意してもかまわないと考える傾向がある。安倍首相も明言するように、TPPは日米同盟強化という安全保障のためにある。しかし最近になって、ウィキリークスなどが、茶番劇で企業が国家を処罰できる国際法廷の案など、米国のTPPとTTIPの提案内容を暴露すると(日本以外の)交渉参加国の世論が「これはひどすぎる」と言い出した。11月の段階で、茶番国際法廷に賛成していたのは、提案者の米国をのぞくと、悲しい対米従属一本槍の、わが日本だけだった。 (Obama Faces Backlash Over New Corporate Powers In Secret Trade Deal

 今回のシンガポール交渉で、米国はオーストラリアに対し、豪州が米国に輸出したいが米国が輸入規制しているサトウキビについて、輸入規制を弱めるから、見返りに茶番国際法廷などへの反対をやめてくれと提案し、豪州は了承した。しかし、他の諸国は依然として反対で、そのためTPP交渉は来年に持ち越された。 (Deep divisions over TPP as US pressures to close controversial deal - WikiLeaks

 シンガポール交渉の失敗の主な理由は、茶番法廷など、米国の無茶な提案に各国がついていけないからだ。しかし、今回の交渉の中で、米国が日本に牛肉の輸入規制の劇的な緩和を求め、日本側がそんな劇的な緩和は国内で通らないのでもう少し現実的な提案をしてほしいと米国にお願いしたところ、米国は、冗談じゃないと拒否し「日本が牛肉の輸入規制をゆるめないせいで、年内合意締結の目標が達成できなかった」と主張し、日本が悪者にされた。日本が従順さを発揮して茶番法廷を支持してあげた努力はむくわれなかった。 (US and Japan differences stall Pacific Rim trade deal

 多くの日本人にとって幸いなことに、TPPの締結は来年に持ち越された。しかし来年は締結されるかもしれない。日本は、金融の量的緩和から国家秘密法、沖縄米軍の辺野古移転問題まで、なりふりかまわず求めてくる米国に、なりふりかまわず言いなりになっている。暴力団から麻薬を買わざるを得ない中毒者のようだ。TPPを通じた米国の要求を、日本が拒否することはない。交渉内容が不確定だし、マスコミは対米従属的なので、反対運動も広がりにくい。 (Japan Strengthens State Secrecy, Beefs Defense Role to Placate US

 日本がTPPに入らずにすむとしたら、それは日本が決めることでなく、他の交渉参加国が米国の提案を拒否し続け、来年TPPの交渉が頓挫した場合だ。日本人は、他の諸国がTPPを拒否してくれることを祈るしかない他力本願な状況だ。この点で今回、WTOが合意に達したことは、日米以外のTPP交渉国が「TPPよりWTOの方がましだ」と考える機会を作っており、日本がTPPに潰されずにすむ希望のみなもとになっている。

 WTOとTPPの会議が同時期に開かれたことが重要だ。WTO交渉の主導役になった中国などBRICS諸国は「バリ会議でWTOが合意に達しない場合、アジア太平洋諸国はWTOをあきらめてTPP交渉に本腰を入れるだろうから、何としてもWTOを合意させねばならない」と考えたのでないか。インドが農業補助金問題をテーマとすること自体に反対していた姿勢を緩和し、WTOの合意締結に道を開いた背景に、WTOとTPPのせめぎ合いがあったと考えられる。

 WTOが多極型の世界運営組織として蘇生しているのに対し、TPPは米単独覇権体制そのものだ。日本は対米従属一本槍なのでTPPに無条件で賛成せざるを得ないが、TPPに入ると国民経済が悪化する。日本がTPPに入らずにすむには、他の交渉国が、TPPよりWTOが良いと考え、米国の無茶な要求に乗らないようになることが必要で、そのためにはWTOを主導する(日本人が大嫌いな)中国をはじめとするBRICSに頑張ってもらうしかない。日本は、逆説的な他力本願の状態にある。WTOは日本人にとっても「絶望」を食い止めてくれるかもしれない「希望」だということになる。

 もう一つ「国賊」扱いをおそれず書くと、もしかして日本にとって、TPPの魔物が全部出てきたあと「パンドラの箱」の隅から最後に出てくる「希望」になるかもしれないのが、人知れず3カ国の話し合いが進んでいる「日中韓FTA」だ。中韓と犬猿の仲である今の日本では想像しにくいが、いずれ世界経済の主導役は中国(などBRICS)の内需拡大になる。その時に日本経済にとって重要なのは、米国市場でなく中国市場だ。 (China, S.Korea, Japan start 3rd FTA talks) (TPPより日中韓FTA

 とはいえ、中国が米国よりましな従属先になるわけではない。従来のように、覇権国に従属するばかりで自分たちの頭で国際戦略を考えないままでは、米国の代わりに中国に食い物にされてしまう。悪いのは米国でも中国でもなく、他国に従属するしか能がない日本の権力機構や、それに洗脳されている日本人の頭のあり方である。



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