チベットをすてたイギリス2008年12月10日 田中 宇地政学というと「シーパワー対ランドパワー」とか「ユーラシア包囲網」など、スケールの大きな話だ。「文明の衝突」など、軍事的で騒々しい感じの概念でもある。しかし、巨大で目立つイメージとは裏腹に、実際に地政学上の大変動が起きるときには、全く目立たない地味な話として起きる(後になってから、いつの間にか地政学的な大転換が起きたことに人々が気づく)のではないかと思わせる事件が、1カ月半ほど前に、私も気づかないうちに起きていた。それは、英国の外務大臣が「わが国は、もう中国の分裂を望んでいません(昔は望んでいました)」「チベットの独立には反対です」という「念書」を書いたことだった。 英国外務省(FCO)は10月29日に「チベットに関する大臣声明文」(Written Ministerial Statement on Tibet)を発表した。声明は、11月初めに行われた、中国政府とダライラマの代理との交渉に対しての英政府の姿勢を表明するものとして発表された。声明の前半は「チベットの人々の人権が尊重されることを(中国政府に)望む」といった、従来の英国の姿勢を改めて表明する内容で、新味はない。(関連記事) 問題は、声明文の後半部分である。トーンが一転して内省的になり、以下のような主旨になる。「わが国は20世紀初頭、チベットの地位について、当時の地政学的な状況に基づいた姿勢を採っていた」「(当時の)わが国は、中国のチベットに対する権益を『宗主権』という(今となっては)時代遅れの概念でとらえていた」「わが国の昔の姿勢が注目されるあまり、わが国がチベットが中国の一部ではないと認識しているとか、わが国が中国の分裂を望んでいるとかいった見方がされてきた。しかし今は(わが国は)そんなことを望んでいない」「わが国はすでに明言しているように、チベットの独立を支持していない」(関連記事) 曖昧な言い回しをしているが、これはつまるところ「以前は、チベットの独立を支持して中国を分裂させるのが英国の戦略だったが、今の英国は、すでにその戦略を放棄した」という宣言である。 ▼英国の歴史的策略と二枚舌 声明文の意味については、歴史的な解説が必要だろう。英国は20世紀初頭、地政学的な影響圏の拡大を狙い、中国の清朝政府が衰退してチベットが半独立状態になった状況を利用して、チベットを英国の傘下に入れようとした。当時は、ロシアもチベットへの影響圏行使を模索していたため、英国はまず、1907年にロシアと結んだ英露協商の中に「英露は、中国がチベットに対して宗主権を持っていることを認め、中国の同席なしにチベットと交渉しない」という条項を入れた。(関連記事) その後、1911年に中国で辛亥革命が起きて清朝が倒され、1912年に中華民国が建国されると、混乱に乗じてチベットは独立傾向を強めた。英国は1913年、中国とチベットの代表をインド北部のシムラに召集し、英領インド(つまり英国政府)・中国・チベットの3者で、それぞれの間の国境を策定するシムラ会議を開いた。英国が出した草案が、チベットに対する中国の宗主権(チベットの主権の一部である外交権などを中国が持つこと)を認めていたため、中国は代表を派遣した。 会議では、英国が国境線の草案を出したが、中国は了承せず、決裂した。だが英国とチベットの代表は「中国が一方的に草案を拒否したのが悪い」という姿勢で一致し、英国とチベットの2者のみで1914年7月、英国草案を「シムラ協定」として締結した。さらに、追加文書として「中国がこの協定文に署名しない限り、中国は、この協定に盛り込まれた一切の権利(中国がチベットに対する宗主権を持っていることを含む)を持てない」とする宣言も作った。英国は「宗主権を認めるから」という甘言で中国を誘ってシムラ会議を開いた(中国が同席したのでロシアは反対できない)が、中国が飲めない国境線案を出して、中国を署名拒否・退席に誘導し、中国が帰った後、チベットと英国の間で「(署名しない限り)中国の宗主権を認めない」とする追加宣言を出し、英国が中国を無視してチベットとの国家関係を拡大できる状況を作った。(関連記事) このような策略をやった英国の責任者は、英領インド外相のヘンリー・マクマホンだった。彼はその後「外交詐欺師」の腕前を買われて中東に担当替えとなり、1915年にアラブ人の代表であるメッカ知事のフセイン・アリに対し、アラブのオスマントルコからの独立を認める「フセイン・マクマホン書簡」という、中東での英国の二枚舌外交の象徴として知られる協定を結んだ。 シムラ協定が結ばれた3週間後、欧州では第一次世界大戦が始まり、英国は中国を味方に引き入れるため、シムラ協定を棚上げした。その後、第二次大戦で英米が中国を味方に引き入れる際、中国(蒋介石)は英米に対し、チベットを中国の一部として認めてほしいと要め、チャーチル英首相は1943年にこれを了承した。だが、チャーチルの部下であるはずの英領インド政府は、シムラ協定は生きていると主張するという、英国お得意の二枚舌が演じられ、英国はチベットとの外交関係を維持した。 その後、1959年のチベット動乱でチベット政府(指導者ダライラマ)はインドに亡命し、1971年には国連の中国代表が中華民国(台湾)から中華人民共和国(北京)に代わったが、この間、英国はチベットを中国の一部と考えているのか、それともチベットに対する中国の宗主権を拒否したシムラ協定をまだ有効と考えているのか、自国の態度を一度も明言しなかった。 72年のニクソン訪中以来、米国が親中国の姿勢を少しずつ強め、国際社会における中国の影響力が少しずつ拡大していく中、英国は、チベットの主権問題について沈黙を続ける一方で、米国の軍産複合体と結託してニクソン以来の米国の親中国・多極主義の動きに抵抗し、チベット独立運動を支援して中国を分裂させる動きを続けてきた。米政界で親中国派と反中国派との暗闘が続く以上、英国はチベットに関する態度を表明しなかった。 今年10月末に英国外務省が「チベットは中国の一部だと、わが国は(前から)思っていた」「宗主権という概念を引きずりすぎた」という、シムラ協定を破棄する主旨の声明を出したのは、チャーチル以来65年ぶりの、チベットに関する英国の態度表明だった。チャーチルの表明は二枚舌の曖昧さがあったので表明ではないと考えるなら、英国の今回の表明は、シムラ協定以来95年ぶりの明言となる。 ▼チベットを捨て駒にして中国を新世界秩序に引っ張り込む 英国はなぜ、これまで意図的に曖昧にしてきたチベットの主権をめぐる態度を、この時期に明確化したのだろうか。この点について、英政府は何も明らかにしていないが、英BBC放送によると、分析者たちが疑っているのは、チベットに関する態度表明をする前後の時期、英政府が試みていた「中国を新世界秩序の中に引っ張り込もうとしていたこと」との関係である。(関連記事) 以前の記事「世界通貨で復権狙うイギリス」に書いたが、9月15日に米国でリーマンブラザースが破綻して米政府財政やドルが破綻する兆しが見えだしてから、11月15日に米国ワシントンDCでG20の「第2ブレトンウッズ会議」が開かれるまでの期間に、英ブラウン政権は、ドル破綻後を想定した「新世界秩序」として、ドルに代わる世界共通通貨を新設しようと、ロシアや中国などの主要国に提案していた。 金融界と、金融で儲けた金が流れ込む不動産やサービス業しか主産業がない英経済は、今回の金融危機で米国以上の打撃を受け、財政破綻に近づいている。中露など新興国の助けを借りないと、英国は国際社会における黒幕の地位を維持できない。英政府は、英国主導の「世界政府」的な新世界秩序の構想に対する中国の同意を引き出すために、チベット問題で中国に譲歩し、シムラ協定を無効と主張し続けてきた中国に同調してみせたのではないか、というのが私の読みである。 英国は、中国に対してはチベット問題で、ロシアに対してはグルジアとウクライナのNATO加盟の先送りに同意することで、中露に譲歩した。これによってグルジアでは、サーカシビリ大統領を追い落とそうとする野党の反政府運動が強まった。英国は、チベットやグルジアを将棋の駒のように使い、自国が優勢なときはチベットやグルジアをけしかけて中露に噛みつかせ、自国が劣勢になるとチベットやグルジアを捨てて譲歩する戦略を採っている。(関連記事) 英国の従来の世界戦略は「ユーラシア包囲網(中露包囲網)」である。英国は第二次大戦後、米国の軍産複合体と結託して冷戦を誘発し、もともとは多極型だった米国の世界戦略を、ユーラシア包囲網に転換させた。チベットの独立運動を煽って中国を分裂させる策動は、英国主導のユーラシア包囲網策の一環だった。米国の覇権衰退の中で、やむを得ず発せられた英国による今回のチベット放棄は、ユーラシア包囲網策の終焉になりそうだ。これは、地政学的な大転換となる。 ▼チベット運動の終焉 チベットを準国家と認めて締結されたシムラ協定は、当時のチベット政府を継承する亡命チベット政府(インド・ダラムサラ)にとって、チベットの国家主権(中国からの独立)もしくは中国内での自治権を主張する権利を裏づける大事なお墨付きだった。英国がシムラ協定を破棄してチベットを見捨てた前後から、中国政府は亡命チベット政府代表(ダライラマ側近)との交渉で全く譲歩しなくなり、ダライラマは「これ以上、中国と交渉しても無駄だ」と表明した。(関連記事) 11月下旬、亡命チベット政府は、全世界の亡命チベット人の代表を集め、ダラムサラで今後の方針について会議を開いた。指導者であるダライラマは、中国の共産主義体制を受け入れつつ、チベットの実質的な自治を中国に要求する「中道的」と呼ばれる方針を採っているが、亡命チベット人の中には「あくまでもチベット独立を掲げて戦うべき」「中国とのゲリラ武装闘争も辞さず」と主張する強硬派もおり、議論となったが、結局ダライラマの方針を持続することに決まった。(関連記事) しかし、チベット人の後ろ盾となってきた英国が見捨てた以上、中国政府が今後、チベット人に対して譲歩する見込みは全くない。11月のダラムサラでの代表者会議は、チベットの自治ないし独立を要求する運動の、事実上の終焉を決定するものとなった。 英国によるシムラ協定破棄は、インドにも重大な悪影響を与えている。インドと中国の国境線は、シムラ協定で決めた線(マクマホン・ライン)が基調となり、このラインを中印国境と主張するインドと、シムラ協定の有効性を拒否して、もっとインド側に近い線を中印国境だと主張する中国は長く対立し、何回か武力衝突も引き起こしている。 シムラ協定におけるインドの主体は、1947年にインドが独立した段階で、英国からインドに移転している。今や当事者ではない英国が「シムラ協定は時代遅れだ」と事実上の無効宣言をしても、国際法上の意味はないとも言える。しかしシムラ協定は、当初から中国が有効性を否定し、しかも協定の調印方法が正式な署名ではなく仮調印的なイニシャル署名でしかないので、英国内でも協定の有効性が疑問視されてきた。(関連記事) マクマホンラインより南にあるインド北東部のアルナチャルプラデーシュ州は、インドが実効支配しているが、中国はここを自国領だと主張している。英国がシムラ協定とマクマホンラインを事実上無効だと宣言した後、インド外相はアルナチャルプラデーシュ州を自国の不可分な領土であると改めて宣言し、中国は脅威だとも表明したため、印中関係は険悪になった。(関連記事) ▼ムンバイテロとの関係 英国がチベット人を見捨てて中国包囲網を解き、中国が優勢になることに対し、インドは脅威を感じている。中国はパキスタンに対して経済援助を出しており、米国に敵視されつつあるパキスタンは、中国とサウジアラビアへの依存を強め、イランとの関係改善も模索している。インドと英国が不利になり、中国とイスラム世界が優勢になる。そんな中でインドで起きたのが、11月27日のムンバイの大規模テロ事件だった。(関連記事) あのテロ事件では、犯人が使っていた携帯電話の番号カードから足がついて逮捕された容疑者の一人が、カシミールのイスラム過激派組織内に潜入しておとり捜査をしていたインド公安当局の捜査官だったことが報じられている。インド当局が、テロのおとり捜査をやるふりをして、本物のテロを誘発した可能性が強くなっている。(関連記事その1、その2) 米ニューヨークの世界貿易センタービルで1993年に起きたものの、大した被害がなかったテロ事件でも、米FBIがテロのおとり捜査をやるふりをして、本物の爆弾をイスラム組織に渡してテロを誘発したことが、FBIの要員をしていたエマド・サレムという男の証言から暴露されている。(関連記事) 2004年3月にスペインのマドリードで起きた列車爆破テロ事件も、スペイン当局が発生を誘発した可能性がある。911事件でも、FBIはテロ組織の動きを知りながら放置していたと批判されている。911を初めとしてテロ事件の多くは、真相が迷宮入りしているが、これらは、政治状況を転換させることを目的に、米欧イスラエルなどの当局(諜報機関や公安警察)がテロを誘発している疑いがある。(関連記事) ムンバイのテロが、インド当局による誘発だったとしても不思議はない。インド当局は、米CIAから9月に「ムンバイのタージマハール・ホテルがテロに襲われる」との警告を受け、しばらくはホテル警備を強化していたが、なぜか実際に事件が起きる数日前から警備が手薄に切り替えられていた。(関連記事その1、その2) ムンバイのテロをインド当局が誘発したのだとしたら、その理由は、米英イスラエル諜報機関とつながっているインド軍の諜報機関が、テロを機に「インド+欧米イスラエル」対「中国イスラム連合」の「文明の衝突」を再燃させ、中国イスラム連合の優勢を跳ね返すという、地政学的な逆襲とも考えられる。 ▼歴史の残滓を払拭して台頭する中国 とはいうものの、英米イスラエルの力は落ちている。インドは結局、BRICやG20の一員として、中露と協調してやっていくしかなさそうだ。印中の対立は再燃せず、むしろ中国は、チベット問題を使った英米からの嫌がらせを受けないようになり、列強に支配された歴史的な残滓をすべて払拭し、東アジアの地域覇権国になる道が開けてきている。キッシンジャーら米国の多極派から賞賛されている米オバマ政権は、米経済建て直しの一環として、中国の台頭を容認するだろう。(関連記事) 台湾独立運動の頭目だった陳水扁前総統が逮捕され、現総統の馬英九は中国との関係を強化しつつあり、台湾問題も希薄になっている。最近、ダライラマは「台湾を訪問したい」と表明したが、馬英九は「時期が悪いので歓迎しない」と拒否した。中国は12月8日、日本が領有権を主張する尖閣諸島の周辺に海洋探査船を派遣してきたが、これも日本の出方や日米同盟による中国包囲網の強さを測定するための動きだろう。(関連記事) 中国は、英米から台頭を容認され、強気になっているが、その一方で中国は、人民元の為替上昇を阻止したりして、世界経済システム(新世界秩序)を主導する一翼を担うという、英米が台頭容認の見返りに求めている役目を果たしていない。そうした中国の不甲斐なさに対し、フランスのサルコジ大統領は、彼らしい行動に出た。サルコジは12月7日、ポーランドでの会合の席を使って、ダライラマと会談した。(関連記事) もはや欧米からチベット問題で意地悪されないだろうと思っていた中国政府は激怒した。サルコジを非難する声明を出し、フランスなどが製造するエアバス旅客機150機の購入を取り消すと脅した。しかし、中国の首脳たちは激怒しながらも、サルコジが発したメッセージはキャッチしたはずだ。サルコジは「お約束の、中国が世界経済システム主導国の一翼を担ってくれるという話は、全然進んでいませんね。こんな調子では、欧米は今後もチベット問題に首を突っ込み続けますよ」と、中国の背中をたたいたのである。(関連記事)
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