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米利下げが通貨多極化を誘発する?

2007年10月2日   田中 宇

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 9月19日、アメリカの住宅価格を指数化した「ケース・シラー指数」の発案者であり、米住宅市場の大御所の専門家であるイェール大学のロバート・シラー教授が、米議会上院の経済委員会の公聴会で「今後、住宅価格が大幅に下落したら、米経済は1930年代の大恐慌以来の大きな不況に陥る」との予測を述べた。(関連記事

 住宅価格が下がると、自宅を買うためのローンの担保にした自宅の価格が下がり、契約上、利払いや返済額を増やさねばならない人が増える。多くの人は、今以上のローンを大幅増額に耐えられず、ローン破綻者になってしまう。この現象が、さらに住宅価格を引き下げ、ローン破綻者をさらに増やす悪循環になる。

 アメリカの住宅価格は、昨年から下がり出しているものの、過去1年間の下落幅は6・5%にとどまっている。シラー教授は、まだローン破綻者の増加と価格下落の悪循環は起きておらず、悪循環が始まれば、もっと大幅な下落になるはずだ、と別のインタビューで指摘している。(関連記事

 9月18には、アメリカの連邦準備銀行が0・5%の短期金利引き下げを実施したが、この直前には、ジョージ・ソロスと組んで著名ヘッジファンド「クウォンタム・ファンド」を創設した投資家のジム・ロジャースが「連銀が利下げしたら、米経済は不況に陥り、ドルは崩壊する。連銀はドルを刷りすぎている。利下げではなく、インフレとドル下落を止めるために利上げすべきだ。今インフレを止めないと、大変なことになる」との見方を発表した。彼は個人投資家たちに対し、米ドルや米債券を売り、円や人民元を買うよう勧めた。(関連記事

 9月21日のフィナンシャル・タイムスには「連銀はドル危機を自覚せよ(Fed must beware the dollar danger)」と題する記事を流した。この記事では、連銀の利下げによって外国の投資家がドル建ての投資に魅力を感じなくなり、長期金利の上昇によって米経済が不況に陥ることを懸念している。(投資家が長期債を買わなくなると、連銀が短期金利を下げても、長期金利は逆に上がり、企業の資金調達が難しくなって経済が減速する)(関連記事

▼中国制裁は米経済を崩壊させる

 連銀の利下げを受けて9月24日には、ドルがユーロに対して最安値を更新した。カナダドルも上昇し、米ドルより価値が高くなった。この日のブルームバーグ通信社の記事は「今後、米経済は急速に減速し、連銀はさらなる利下げをしそうなので、ドルはさらに下がるだろう」とする通貨アナリストの分析を載せている。(関連記事

 9月25日には、以前からドル大幅下落の可能性を指摘してきたモルガンスタンレーの分析者スティーブン・ローチが、ニューヨークタイムスで「ドルの急落(The Free-Falling Dollar)」という論文を発表した。(関連記事

 ローチは「アメリカは貯蓄が不十分で、巨大な赤字を抱えているのだから、ドル為替が下がり続けるのは当然だ。これまでは、ドルは少しずつ秩序だって下落してきたが、今後は米経済が不況に陥りそうなので、混乱した急落になる可能性が高まっている。米経済は国民の消費で景気を維持してきたが、失業率も上がり、消費はもう増やせないので、不況は不可避だ。不況を察知した外国投資家は、米ドル建て資産を買わなくなっている。アメリカの金融商品が売れない状態は、今後何年間も続くだろう。これが、さらなるドル安につながる」と書いている。

 ローチはまた、米政界が超党派で「中国が人民元の対ドル相場を切り上げない場合、中国を経済制裁する」という法案を検討していることについて「ドル相場を下げて対外債務を減らそうとするこの政策は、大変な愚策である。アメリカの金融商品を買ってくれるお得意さまに敵対的な罰金を科すもので、中国がアメリカの金融商品を買わなくなる状況を誘発し、ドル安だけでなく、インフレ激化、長期金利の高騰、米経済の不況を引き起こす」と批判している。

▼利下げは銀行救済のため

 米連銀の9月18日の利下げについては、金融危機によって不況に陥りそうな米経済を立て直すためという表向きの理由とは別に、金融危機に苦しんでいるアメリカの金融機関を救済するために金利を下げ、資金調達を容易にしたという見方が出ている。

 同時期にはイギリスでも、不動産専業の金融機関「ノーザンロック」が資金調達難となり、預金者の取り付け騒ぎに発展した。イギリスでの銀行破綻は100年ぶりで、その直前まで銀行救済はしないと明言していたイギリス中央銀行は9月17日、取り付け騒ぎの他行への拡大を恐れて方針を急転換し、ノーザンロックを救済する方針を打ち出した。銀行の取り付け騒ぎはアメリカでも起きる可能性があるので、ノーザンロックの取り付け騒ぎの記事は、アメリカの新聞では小さくしか報じられていないと指摘されている。(関連記事

 1998年のアジア金融危機の際、アメリカやイギリスは、自国の金融機関を救済しようと動いたアジア諸国の政府を「見通しが甘かった金融機関を救うのはモラル・ハザード(倫理喪失状態)を招くので良くない」と非難した。米英は今まさに、モラル・ハザードを引き起こす救済行為をやっている。(関連記事

 利下げが米経済の不況突入を防ぐかもしれないとの期待から、利下げ後、アメリカの株価が上昇し、ここ数年アメリカの株価と連動している日本の株価も上がった。しかし実際のところは、利下げは米経済の不況突入を食い止められないとの予測が出ている。

 今の米経済の危機は、今春以来のサブプライムの住宅ローン債券市場の崩壊を機に、資金の貸し手が急にリスクを意識するようになって慎重になり、貸し渋りが起きていることに起因する。連銀が利下げしても、それで貸し手のリスク意識が以前のようにルーズな状態に戻るわけではなく、貸し渋りの解消にはあまり役立たない、との指摘がある。1990年代の日本のバブル崩壊時、日銀の利下げは、国内金融機関を救済しただけで、バブル崩壊の悪影響を大して緩和しなかったが、それと同じである。

▼プラザ合意時とは全く異なる様相

 ドル安はうまくやれば、基軸通貨としてのドルの地位を維持したまま、世界に損をさせてアメリカが得する効果を生める。円高・マルク高とドル安を政治的に決めた1985年の「プラザ合意」が良い例である。しかしローチも指摘しているように、9月18日の米連銀の利下げによって誘発されたドル安は、すでに世界的にインフレを引き起こしており、これはドルの基軸通貨性(アメリカの経済覇権)の喪失につながる危険を生んでいる。

 国際商品相場では、米連銀の利下げ後、原油価格が史上最高値となり、金相場も28年ぶりの高値まで上昇した。小麦なども高騰が続いている。石油の高騰は、アメリカの備蓄量の減少や、中国の需要増が原因と報じられているが、石油から穀物までの国際商品相場の全般的な上昇は、相場がドル建てになっているため、ドルの価値が下落している反動で上がっているとも考えられる。(関連記事その1その2

 サウジアラビアは、通貨リヤルがドルにペッグ(為替固定)しており、これまでは米連銀の利下げすると、サウジの中央銀行も利下げしていた。固定為替を維持するため、金利の動向をアメリカと連動させておく必要があった。しかし、9月18日の連銀の利下げ後には、サウジ中銀は利下げをしなかった。

 国内製造業が未発達だが、石油成金で消費が盛んなサウジでは、アメリカよりヨーロッパからの輸入品が多い。そのため近年のドル安ユーロ高傾向の中で、ドルペッグしているサウジリヤル建ての輸入品価格が上昇し、サウジではインフレが年率4%となっている。ペルシャ湾岸地域では、アラブ首長国連邦(UAE)やカタールも通貨をドルにペッグしているが、インフレ率はこれらの国々でも上がっており、UAEでは9%、カタールでは13%になっている。(望ましいインフレ率は1−2%)

 サウジ政府(投資庁)は9月27日、ドルペッグをやめるつもりはない、と表明した。しかし、米ドルとの金利連動をやめたままにすると、為替相場の維持は難しくなる。(関連記事

 サウジを中心とするペルシャ湾岸のアラブ6カ国は、裕福な産油国で、何年か前から、通貨統合をした上でドルペッグをやめていく方針を採り、これがドルの基軸性が失われた後の基軸通貨の多極化した世界体制の一部になると、IMFなどが昨春に構想した。その後、ペルシャ湾岸の通貨統合は全く進展していないが、今回のアメリカの利下げに対してサウジが利下げしなかったことは、やはりペルシャ湾岸諸国の通貨は、通貨統合してドルペッグを離脱していくことが必要なことを示している。(関連記事

▼人民元急上昇か、天安門事件の再来か

 サウジと同様に香港でも、アメリカの利下げがインフレの悪化につながるため、1983年以来のドルペッグをやめることを検討せざるを得ないのではないかという見方が出ている。香港に隣接する中国では、人民元の対ドル為替を少しずつ上昇させる過程に入っている。このため、香港ドルが米ドルに完全にペッグしている香港では、中国からの輸入品価格がじわじわと値上がりしている。(関連記事

 対ドル為替を少しずつ上昇させているゆるやかなペッグの中国でも、インフレはひどくなっており、生活に欠かせない豚肉の値上がりが、人々の不満を増大させている。1989年、天安門事件につながった民主化運動が起きたのは、経済自由化によって役人の中に賄賂をとる者が増えたほか、政府がインフレを抑制できず、人々の生活が苦しくなったのが理由だった。インフレを放置すると反乱が誘発されるので、共産党政権は値上がりを食い止めようと必死に策を打っている。(関連記事

 中国がインフレになる理由は、人民元の上昇を少しずつしか許していないからであり、相場上昇を制限している限り、インフレはなくならない。経済減速で利下げしているアメリカとは反対に、中国は経済過熱で利上げを続けており、この面でも人民元のドルペッグは無理な話になっている。(関連記事

 対ドル為替では、日本の円も、対米輸出の振興という日本側の意向で、政策的に円安ドル高が維持されている。だが、日本ではインフレが問題になっていない。これは日本では産業政策で、安全性重視などさまざまなコストを企業に負担させる仕掛けが作られ、国際価格よりかなり高い物価が昔から維持されており、この物価高のクッションで輸入品の値上がりを吸収できるためである。サウジや中国では多くの商品が、日本よりはるかに安い国際価格で売られており、国際的な物資の値上がりが国内物価に直結する。

 中国政府がドルとアメリカ市場に見切りをつけ、人民元相場の上昇を容認し、為替相場維持のために米国債を買う必要もなくなる日が近づいていると考えられるが、そんな中で「米国債を買う必要がなくなった中国は、米国債を買ってほしければ中国が台湾を武力で併合することを容認せよ、台湾関係法を廃止せよとアメリカに要求するのではないか」といった見方すら出ている。(関連記事

▼中産階級の減少で消費力が落ちるアメリカ

 ここ10年ほど、世界経済はアメリカが旺盛な消費を続け、中国など世界から盛んに商品を輸入することで支えられてきたが、アメリカでは最近、旺盛な消費をしてきた中産階級の人数が減少し続けている。米政府が定めた貧困ラインの半分以下の収入(両親と子供2人の世帯で年収9903ドル以下)しかない極貧層が、2005年度の統計で1600万人と、5年間で26%増え、過去32年間で最も多くなっている。中産階級から貧困層に凋落する米国民が増えている。(関連記事

 経済グローバリゼーションの影響などで、米企業は全体として、収益は増えているが、賃金に回す部分が減っている。株主や経営者にあたる裕福層が消費する宝石など高級品はよく売れ、ティファニーの売り上げは2割増となっているが、中産階級や貧困層が買う小売り量販店では、売り上げ減になっている。(関連記事

 昨年以来の住宅バブルの崩壊は、中産階級が組んだ住宅ローンが金利上昇によって返済できなくなっていることから起きている。今後、住宅価格が下がり続けるほど、ローンを返せず債務不履行となり、中産階級から貧困そうに転落する米国民が増える。アメリカは、世界経済を牽引する消費力を失いつつある。中国などから盛んに輸入することができなくなりつつある。

 今のところ、アメリカの株価は高水準にあるが、前回2000年の株急落は、それ以前の段階で連銀の利下げによって株価が最高値を更新した後、急落が起きている。今後アメリカの不況色が色濃くなり、株価が下落していくとしたら、中国やサウジなどの金持ち諸国はドルを買ってアメリカに投資する利点を失う。不況で米市場の消費力が落ち、人民元のドル相場を維持する必要もなくなる。ドルは基軸性を失い、サウジや中国は、ドルに頼ってきた従来の政策をやめざるを得なくなり、世界の通貨体制は多極化に向かう。通貨の多極化は、世界の投資家にとっては、為替のリスク分散になるので、長期的には良いことかもしれない。



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