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ロッカビー事件・はめられたリビア

2007年9月25日   田中 宇

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 1988年12月21日、ロンドン発ニューヨーク行きのパンナム航空機103便が、イギリス・スコットランドの町ロッカビーの上空を飛行中に爆発・墜落し、乗客乗員270人が死亡する「ロッカビー事件」が起きた。

 その後、約3年間の捜査を経て、米英当局は事件について、北アフリカの国リビアの諜報機関が仕掛けた爆弾テロだったと断定し、1991年11月、リビアに近い地中海の小さな島国マルタの首都のルカ空港に事務所を持つリビア航空の駐在員だったアブデルバゼット・メグラヒ(Abdel Basset Ali al-Megrahi)と、カリファ・フヒマ(Lamin Khalifah Fhimah)の2人を起訴した。2人は、リビア本国から送られてきた爆弾入りスーツケースを、ニューヨーク行きの荷物に仕立てて送り出した容疑をかけられた。

 フヒマはリビア航空のルカ空港事務所長、メグラヒは同じ事務所の警備担当責任者で、リビアの諜報機関の要員でもあった。米英は1986年、ベルリンのディスコ爆破テロの報復としてリビアを空爆しており、その再報復としてリビアの最高指導者カダフィが、諜報機関に米旅客機の爆破を命じたに違いないというのが、欧米での大方の推測だった。

 これに対し、リビア政府は事件への関与を強く否定し、すでにリビアに帰国していた2人の容疑者の引き渡しに応じなかった。米英は国連に働きかけ、92年からリビアに対する国際的な経済制裁を発動し、7年間に及ぶ経済制裁の後、リビアは1999年に容疑者の引き渡しと、第三国での裁判開始に応じた。裁判は、オランダの米軍基地跡地の施設に特別法廷を設け、スコットランドの判事と法律によって行われることになった。2001年に判決が出て、フヒマは証拠不十分で無罪となったが、メグラヒは有罪で27年の禁固刑になった。メグラヒは上訴したが、02年3月に却下された。(関連記事

 一時は世界最大手の国際航空会社だったパンナムは、この事件の悪影響から脱することができず、1991年に倒産した。

▼怪しげな証言を軽信したCIA

 この事件の捜査や裁判については、判決の前から、やり方がおかしいという指摘が出ていた。たとえば、2000年9月28日の英ガーディアン紙の記事によると、犯人はメグラヒらリビア要員であるという米英当局の主張は、アブドル・ギアカ(Abdul Majid Giaka)というマルタ在住の亡命リビア人が、米諜報機関CIAに対して話した情報がもとになっているが、ギアカはCIAから支給されるお金をもらい続けるためにウソをついた可能性が高い。(関連記事

 ギアカは、それまで一度もメグラヒら容疑者のことについて話したことがなかったのに、給金を切られそうになった1991年7月になって突然「メグラヒらが、リビアから送られてきた(爆弾入りの)スーツケースを取り扱っているところを見た」と証言した。マルタに駐在するCIA担当者は、当初からギアカを疑っていたが、アメリカのCIA本部はギアカを信じて重要視した。

 米当局の自信の後押しを受けた英当局(スコットランド当局)は、ギアカの証言から4カ月後、メグラヒら2人を起訴した。米当局の自信の裏づけが、ギアカの怪しげな証言でしかないことを英当局が知ったのは、裁判開始から1年も経ってからだった。(関連記事

 特別法廷の判決後の2002年には、国連から派遣された監視員として特別法廷を傍聴していたオーストリアの大学教授が、米英はリビアを犯人に仕立てるという政治的な意図に基づいて特別法廷をねじ曲げたと非難した。(関連記事

 2005年8月には、スコットランドの元警察長官が、リビアが犯人だという決定的証拠となった、事件後に現場近くで発見されたとされる時限起爆装置のプリント基板の断片について「CIAが証拠としてでっち上げたものだ」と、メグラヒ被告の弁護団に対して証言した。「CIAはリビアを犯人に仕立てるため証拠をでっちあげた」という指摘は、03年に元CIA幹部からも発せられ、この事件を調査するジャーナリストたちからも、ときどき語られる話だった。(関連記事

 問題のプリント基板は、時限起爆装置の一部としてスイス企業「メボ社」が製造した。同社は主にドイツなどの軍や警察に装置を売っていたが、1986年にはリビアの軍隊に20セットを売った。そのうちの一つが、リビア諜報機関によってパンナム機爆破に使われたというのが、検察側である英当局の主張だった。

 事件発生後、メボ社の経営者だったスイス人エドウィン・ボリエ(Edwin Bollier)は、捜査当局から、証拠物件となった基板の断片の写真を見せられたが、写真はうつりがはっきりしておらず、これでは判断できないから実物を見せてくれと、その場で当局に頼んだが受け入れられなかった。

▼見せられるたびに様相が変わっていた証拠物件

 その後、裁判開始前の1998年になって、ボリエは英当局から再び呼ばれ、実物の証拠物件を見せられたが、それはボリエがリビアに売った型番の緑色の基板ではなく、製品の試作品として発売以前に作った茶色の基板の断片だった。試作品は手作業で作ったので、リビアに売ったオートメーション製造のものと半田付けのやり方が違っており、一見して違いが分かった。ボリエは、当局の担当者にそのことを指摘したが、英当局は、基板を裁判の証拠物件として採用してしまった。

 裁判開始後の2001年、ボリエは証人として特別法廷に呼ばれた。ボリエは、証拠物件の基板断片の写真を見せられた。それは、焼けて炭化した基板断片だった。以前に現物を見せられた基板とは、明らかに様相がまったく異なっていた。ボリエは驚き、そのことを裁判官に告げた。だが、裁判官はボリエのいうことを信じず、ボリエは証人として信用できないとして、裁判で証言が使われないことになった。信用を疑われたボリエのメボ社は、ドイツ政府などの得意先から発注を止められ、倒産した。(関連記事

 ボリエの信用はその後、最近になって劇的に回復されることになった。今年7月、チューリヒでメボ社の元従業員だったウルリッヒ・ルンパート(Ulrich Lumpert)という男が、チューリヒの警察署に自ら出頭し、メボ社勤務中に作った試作品のプリント基板を、その後ロッカビー事件の捜査を担当する英当局者に渡したことを自供したからである。ルンパートは以前、特別法廷に証人として呼ばれ、証拠物件のプリント基板は、リビアに売ったものに間違いないとウソの証言をしていた。(関連記事

 問題のプリント基板は、事件から数カ月後に森の中で、衣類の断片と一緒に発見されたことになっている。だが、当局がこの衣類の断片を入れた袋のラベルには当初「衣類」とだけ記されており、その後いつの間にか「衣類と断片」と書き直されていた。(関連記事

 どうやら英当局の何者かが、ルンパートをけしかけて(もしくは脅して)メボ社のプリント基板を入手し、それを破砕した断片を、すでに証拠物件となっていたシャツと一緒に袋に入れてラベルを書き直すことで、証拠物件に紛れ込ませたようだ。その後、裁判開始前に、確認のためにメボ社のボリエに基板を見せたところ、これはリビアに売った基板とは違うと一目でばれてしまったため、英当局者は基板を焼いて判別できないようにした上で、特別法廷に証拠物件として提出したのだろう。

 信じられないような当局による暴挙であるが、英当局は、ほかにも証拠物件のねつ造をやっていることが、当局自身のその後の調査で分かっている。

▼再審を避けたかった英当局

 容疑者のメグラヒは、1審の特別法廷で有罪になり、2審のスコットランド上告審で上訴が却下された後、2003年9月にスコットランドの再審調査委員会に再審の申し立てをした。(関連記事

 ちょうどその後の時期は、アメリカがイラクの開戦事由として主張したイラクの大量破壊兵器の件が、亡命イラク人らの誇張された証言を軽信したがゆえの大間違いだったことが分かった時だった。アメリカの誇張やウソに乗って一緒にイラク侵攻し、占領の泥沼に陥ったイギリスの政府内やマスコミでは、アメリカ発のニセ情報に乗せられることの危険さについての議論がさかんになり、それはロッカビー事件裁判のインチキさに再び焦点を当てることにつながった。

 これは、メグラヒが申し立てた再審請求を却下せず、ロッカビー事件について再度、法廷や、政府の調査委員会で調べるべきだという英政府内の意見の高まりとなった。再審調査委員会は2006年に結論を出す予定だったので、2005年の後半には、事件の捜査や特別法廷の進め方についてのウソやずさんさが次々と暴露された。

 05年11月には、特別法廷の開始時に英政府の法律顧問をしたエジンバラ大学の法学教授が、特別法廷での政府の進め方は非常にずさんであり、再審が必要だと主張した。同時期にスコットランドの元法務大臣(lord advocate)も、特別法廷のあり方を批判した。また、すでに書いたように「CIAが証拠をでっち上げた」とスコットランドの元警察長官が言い出したのは05年8月だった。(関連記事

 05年10月には、裁判で証拠物件として当局が提出したスーツケースの焼け焦げた破片が、実はアメリカで「スーツケースが焼けたらどうなるか」という事件に関連した実験に使われた試料であり、墜落現場で見つかった証拠物件ではないという指摘がスコットランドの新聞に出た。(関連記事

 一方、英当局はこの時期に、被告のメグラヒをリビアに返してしまうことで、再審をできなくしてしまおうと動いた。英米の諜報機関は、リビアの諜報機関とロンドンなどで密会し、英がメグラヒをリビアもしくは近隣国の監獄に移送する代わりに、リビアはメグラヒの再審請求を取り下げることで密約できないか話し合った。

 この件は05年10月にスコットランドの新聞で暴露され、すでに当局のやり方に疑念を持っていた被害者の遺族会や政界などからの反発を受け、実現は見送られた。遺族会の代表はこの時、初めて獄中のメグラヒと面会し、メグラヒの再審請求の意志が変わっていないことを確認した。遺族会は、犯人はメグラヒではないと考え始めていた。(関連記事

 これらの騒動を受け、再審調査委員会の結論は1年延ばされた後、2007年6月末に発表された。メグラヒは、再審を受けることになった。証拠の一つだったプリント基板が実は盗まれたものだったことを、メボ社の元従業員ルンパートが自ら進んで自供したのは、再審決定が出た3週間後のことだった。

 今年6月の再審決定と同時に、再審調査委員会は、1審の特別法廷のずさんさを示す報告書を発表した。それによると、判決の中で爆弾を包んでいたとされている乳児服について、地元民によって事件現場近くで発見されたときにはきちんとした服だったのに、法廷に証拠として出されたときにはビリビリに破かれた状態だった。

 爆弾と時限起爆装置は東芝製のラジカセに仕込まれていたとされるが、ラジカセの取り扱い説明書も、発見時にはきちんとした状態だったが、法廷に出されたときにはビリビリだった。いずれもプリント基板を焼いたのと同様、英当局が証拠物件をそれらしく見せるために「加工」したのだろう。(関連記事

 また判決によると、トランク内の爆弾の周りには洋服類が詰め込まれ、それらの服はメグラヒがマルタの洋服屋で買ったことになっており、洋服屋の店主の証言がそれを裏づけているとされる。だが実際には、店主は問題の洋服類を売った覚えはないと当局に供述し、メグラヒの顔写真を見せられても記憶にないと答えていた。

▼真犯人はPFLP−GC?

 ロッカビー事件は、サッチャー政権時代に起きたが、同政権も、次のメージャー政権も、英政府はロッカビー事件の真相について政府の特別委員会を設けて調査することを拒否している。当時野党だった労働党は、自分たちが政権についたら事件の真相を究明すると言っていたが、実際に政権をとったブレア首相は、真相究明委員会の設置を拒否した。おそらく歴代政権は、ロッカビー事件の捜査や裁判が、ねつ造やウソ証言の多いものと知っていたのだろう。

 なぜ英米政府は、リビアを犯人に仕立てる必要があったのか。米英マスコミでときどき言われていることは「真犯人は、シリアとイランに支援され、レバノンや西ドイツなどで活動していたパレスチナの過激派組織PFLP−GC(パレスチナ解放人民戦線総司令部)である」というものだ。「パンナム事件後、1990年にイラクのクウェート侵攻と、その後の湾岸戦争があり、米英はイラクと戦うため、反イラクの立場をとっていたシリアやイランと親しくする必要があり、シリア・イラン系のPFLP−GCを犯人扱いできず、リビアに濡れ衣を着せることにした」とか「米政府は、レバノンの過激派(ヒズボラ)に誘拐されたアメリカ人の人質の解放を成功させるため、PFLP−GCへの敵視を止めておく必要があった」と説明されている。(関連記事

 ロカビー事件の直前、西ドイツ当局は、フランクフルトのPFLP−GCの拠点で、家電製品の中に組み込んだ爆弾が開発されていることを突き止め、検挙している。ヨルダンの諜報機関は、レバノンのパレスチナ難民キャンプで、PFLP−GCが東芝のラジカセに爆弾を組み込む開発をしているとの情報を得ていた。

 ロカビー事件から半年後の89年春、スコットランド当局は、レバノンのキャンプにいるPFLP−GCの幹部マルワン・クリーサット(Marwan Khreesat)を容疑者として逮捕状を発行しようとしたが、アメリカのFBIが、クリーサットはFBIに情報提供してくれるエージェントでもあるので逮捕するな、と止めたという。(関連記事

 1審判決によると、爆弾を入れたスーツケースは、マルタからフランクフルトに飛び、そこで積み替えられてロンドンに行き(PA103A便)、そこで墜落したパンナム機(PA103便)に積み込まれるという複雑な経路をたどっている。犯人が、わざわざこんな複雑な経路を選ぶとは考えにくい。その点、フランクフルトのPFLP−GCが真犯人だとしたら、話がすっきりする。

▼CIAは爆破を黙認した?

 PFLP−GC真犯人説には、もう一つのポイントがある。それは「PFLP−GCがパンナム機に爆弾入りのスーツケースを乗せることができたのは、CIAが黙認したからだ」というものである。このことは、以前の記事でも触れた。

 CIAの元要員らが語るこの説によると、CIAは、PFLP−GCに対し、毎週パンナム機を使って中東方面(アフガニスタンなど)の麻薬をアメリカに運んで密売することを黙認していた。CIAは、フランクフルトの空港のパンナム職員の中に要員を送り込み、PFLP−GCのメンバーが空港に持ち込む麻薬入りのスーツケースを無検査で通し、旅客機の荷物室に乗せていた。PFLP−GCは、無検査で通るスーツケースの一つの中に、麻薬ではなく爆弾を仕掛け、爆破テロを成功させた。(関連記事

 CIAが麻薬の密輸を黙認していたのは、密輸の儲けを身代金として、レバノンの人質を解放するためだったと説明されているが、私が見るところ、麻薬資金は広範囲にCIAの秘密作戦の裏金資金として作られており、PFLP−GCはCIAのエージェントとして動いていた。(関連記事

 作戦にはイスラエルの諜報機関モサドも協力し、イスラエルは米軍の中東駐留を引き延ばすため、意図的にアラブの反米過激派が強力になるように動き、アメリカの作戦に協力するふりをして失敗させたりした。CIAは1980年代を通じて、南米コロンビアの麻薬を米本土に運んで売る密輸商売も展開していたが、これにもレバノン人やアラブ人、そしてイスラエルも絡んでいた。

(レバノンのベカー平原には、コロンビアの麻薬取引で儲けたエージェントたちの実家が、お城のような豪邸として並ぶ村がいくつもある。南米から米本土へのCIAの麻薬密輸には、サウジアラビアのナイフ王子の自家用ジェット機も使われていた。麻薬密輸との関連を問われたナイフは「米当局から頼まれて運んでいたので犯罪ではない」と釈明している。ビンラディンの「アルカイダ」も、911前は、CIAに協力して麻薬の運び屋をやっていた。1986年に暴露された、武器密輸のイラン・コントラ事件は、レバノンと中南米をつなぐCIAが運営していた麻薬密輸ネットワークに武器の乗せて売買したのが問題視されたものである)(関連記事

 PFLP−GCがパンナム機に積んだ密輸麻薬の中に爆弾をしのばせて爆破テロを挙行した理由は、事件の5カ月前の88年7月にイランの旅客機が米軍機に撃墜されたことの報復だとされているが、これについても裏の説がある。

 爆破されたパンナム機には、レバノンで調査を終えてアメリカに帰国する途中だったCIAとDIA(米軍の諜報機関)の要員4人が乗っていた。彼らは米諜報機関の中でもまじめな善玉の人々で、自分の組織の裏の事情を知らず、レバノンからアメリカに麻薬が密輸されているのを取り締まろうとしてレバノンで調査し、帰るところだった。CIAの中でも、麻薬密輸を担当している人々は、PFLP−GCをけしかけて爆弾を仕掛けさせ、他の乗客もろとも、まじめな4人を殺してしまったのだという。(関連記事

 これらの、アメリカ側の謀略説に真実性があるのだとしたら、CIAなど米当局がロッカビー事件の真相を必死に隠そうとしたのは良く理解できることになる。中東で米英イスラエルの諜報機関がイスラム過激派を動かし、麻薬密輸やテロなどを扇動する戦略は1970年代に始まり、911事件を経て、現在も活発に続いている。そのため、ロッカビー事件の再審裁判が行われても、諜報機関が絡んだ真相については、公式の話として確定することはないだろう。

 その一方で「ロッカビー事件の真犯人はリビアではなく、PFLP−GCの背後にいたイランやシリアなのだ」といった話は、米英マスコミで、イランやシリアの政権を転覆せよという主張を補強するものとして、今後しだいに強く主張されるようになるかもしれない。

 2005年以降、イランやシリアが真犯人だという説が、ネオコン系の執筆者によってアメリカのマスコミに良く出るようになったのと並行して、米英はリビアと交渉し、リビアが核開発を放棄する見返りに、リビアとの国交回復へと動いている。

 ロッカビー事件の再審決定が発表される1カ月前、ブレア英首相はリビアを訪問し、イギリス製の武器を売り込んでいる。イギリスの石油会社BPは、リビアでの天然ガス開発を発表した。(関連記事その1その2

 米英は、自分たちの中東戦略が転換するたびに、中東における悪者を入れ替えている。米英のマスコミも「ジャーナリズム」という名の正義のふりをした詭弁術を駆使して、この善悪の転換に協力し、欧米や日本の読者たちは簡単に騙され、頭の中の善悪観を、米英政府に都合の良いように操作されてしまう。

 日本のNHKなどは最近、イランを悪者として描くことに精を出している。今後、米イスラエルとイランとの間で戦争が起きるかもしれないので、その時に日本国民に親米・反イランの感情を抱かせようと、日本政府にやんわり頼まれ、準備しているのだろう。



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