イランの英兵釈放と中東大戦争2007年4月5日 田中 宇3月23日、イラク南部に駐留するイギリス海軍の15人の兵士がゴムボートに乗ってイラク・イラン国境付近の海域で船舶の臨検中、イラン軍(革命防衛隊)の軍艦に拘束され、イラン当局に捕らえられた事件は、発生から13日後の4月4日、イラン側が恩赦によって英兵士全員を釈放し、解決した。 この事件で英政府は、英兵士は拘束時にイラク側の海域にいたと主張したが、イラン政府は、イラン側の海域にいたと主張していた。この食い違いは、この海域に確定した国境線が存在しないことが原因である。 イラク南部では、イラン・イラク間の国境線は、シャトル・アラブ川(チグリス・ユーフラテス川の最下流)の中を通り、河口地点から先の海上では、イランとイラクの海岸線から等距離にある地点をつないで線にしたものが国境線になる。しかし、この地域の海は遠浅で、海中の砂が移動するため、砂州ができたり消えたりして、海岸線がしばしば変わる。このような地理的条件から海上の国境線が定めにくい上、イランとイラクは長く対立してきたため、海上の国境線に関する合意が達成されていない。イラクはペルシャ湾に面する海岸線が非常に短いため、できるだけ広い海域を自国内に取り込もうとしてイランと対立してきた。同様にイラクはクウェートとも、海上国境線で対立している。(関連記事) こうした経緯から、この海域の国境線は二重の状況になっている。イラン軍が英軍兵士を捕まえた海上の地点は、英側(イラク側)から見れば、国境線よりイラク側になる一方、イラン側から見ればイラン側になる。つまり、英の主張もイランの主張も、ともに正しいことになる。英政府が発表し、世界のマスコミで報じられた地図では、英兵士が捕まった地点は国境線よりイラク側になっているが、この国境線は英・イラク側が主張している線にすぎず、イラン側と合意した公式の国境線ではない。 ▼英兵は意図的に越境させられた? 英軍は、すでにイラク侵攻以来4年もこの地域に駐留し、国境線の複雑な事情を熟知している。イランが主張する国境線を越えて進むと拿捕される懸念があることも知っていたはずだ。英側上層部は、イラン側を挑発する目的で、兵士のゴムボートに対して無線で命令し、イラン側が自国内と主張する海域に意図的に越境させた可能性がある。 米英の分析者の間では、米英がイランを攻撃する戦争の開戦事由を作るため、英兵がイラン軍の捕虜になる状況が作られたのだという見方や、ブレア政権は、反米的でイランとの対立を好まないイギリスの世論を変えるため、イランを意図的に挑発したのだという見方が出ていた。 英軍兵士が捕虜になった後、英のブレア政権は、英・イラク側が主張する国境線だけを示した地図をマスコミに配り「イラン軍がイラク側に国境侵犯して兵士を拉致した」とイランを非難した。この点からも、越境は英の対イラン挑発作戦だったと考えられる。英政府は「イラン側の主張に基づけば、兵士が捕まった地点はイラン国内の海域になる」という、もう一つの事実を隠蔽してイランを非難したので、当然イラン側は激怒し「英兵士をスパイ容疑で裁判にかけて刑罰を科す」と言い出した。 イランの革命防衛隊は今年1月、イラク北部のアルビルのイラン領事館に外交官として駐在していた5人の隊員らを「ゲリラ支援」の容疑で、イラク駐留米軍に拉致・拘束されている。米軍が拘束した5人を返すまで、イラン政府は英兵士を返すべきではないという主張も、イラン政界内から出てきた。 ▼強まった米イラン開戦予測 英兵士がイランに捕まった後、機を一にするかのように、アメリカとイランの緊張が高まった。まもなく米がイランを空爆するという見方が、欧米の分析者の間で強まった。(関連記事) 4月2日には、米空母「ニミッツ」が、イラン近海のペルシャ湾海域に向けて米本土を出港した。ニミッツは、現在イラン近海にいる空母アイゼンハワーと交代することになっているが、アイゼンハワーはすぐにはイラン近海を離れず、イランを威嚇する空母はもう1隻のステニスと合わせて3隻になる可能性もある。同じ海域に空母が3隻とは異様だ。(関連記事) ロシアの諜報機関は3月27日、イラクに駐留している米地上軍が、イラン国境近くに結集していると指摘した。ロシア軍の陸軍司令官は4月3日、米はイランと戦争しても勝つことは無理で、中東全域を戦争にしてしまうだけなので、イランを攻撃すべきではないと警告した。(関連記事その1、その2) また、これとは別に3月下旬、ロシアの通信社が軍事専門家の話として、アメリカが現地時間4月6日午前4時から12時間のイラン空爆を挙行する予定だという話を流した。空爆は「かみつき作戦」(Operation Bite)というコードネームだという。「bite」には「かみつく、ひとかじり、一刺し」といった意味があり、イランの施設を徹底空爆するのではなく12時間という短期間の限定的な空爆を行い、核開発を数年間遅らせるためのちょっとだけの攻撃という意味と読み取れるが、奇妙な命名であり、信憑性に疑いがある。アメリカのマスコミは、この話を無視したが、イランなどでは大々的に報じられた。英兵拘束で戦争が始まるのではないかという懸念から、国際石油価格が上昇した。(関連記事その1、その2) ▼ブレアは対立激化を望まなかったはず とはいえ、今の状況下でイランを挑発することは、イギリスの国益とブレア首相の戦略に反していた。アメリカは昨年来、イランを追い詰めたり、激怒させたりして、一触即発の戦争寸前の状況を作り出してきた。英兵の拘束は、米英とイランとの戦争につながりかねなかった。 戦争になったら、イランは破壊されるだろうが、同時に米英は、中東全域での反対運動やゲリラ活動に見舞われ、イラクからの惨敗的な撤退や、中東での覇権失墜を覚悟せねばならない。これはチェイニー米副大統領らの戦略的自滅策(隠れ多極化戦略)としては成り立つが、米英中心主義のもとで儲けてきたイギリスにとっては、アメリカの覇権失墜は大打撃である。 ブレアの対イラン戦略は、米イラン戦争を何とか回避しつつ、イランを譲歩させて対立を解消し、米英中心の世界体制と、その一部であるアメリカの中東覇権を維持するというものだ。ブレアは、米英とイランとの対立を深めたくなかったはずである。何かの間違いで英兵士が捕虜になったのなら、イランをできるだけ非難せず、隠密の交渉をして返してもらうのがブレアの戦略に沿っている。 そのような利害があるにもかかわらず、ブレア政権は、一方的な内容の地図を示しつつ、イランを声高に非難した。イギリスの軍と政府の上層部に、ブレアの戦略よりチェイニーの戦略を好む好戦的な勢力がいて、ブレア首相は彼らに間違った情報を与えられ、騙されて声高なイラン非難をしてしまったのではないかと推測できる。 イギリス政府の上層部にチェイニーとつながった好戦派がいるふしは、以前からあった。イラク侵攻の開戦事由となった、イラクの大量破壊兵器に関するいくつかのウソ情報の発信地は、イギリス政府内である。ブレアはイラク侵攻前から、アメリカとの強調戦略をめぐり、政府内の諜報機関などにいる隠れ反乱分子から何度も引っかけられている。 ブレアが政府内の好戦派に引っかけられたことは、ブレアが途中で態度を変えたことからもうかがえる。事件発生から数日間は、ブレアはイランを強く非難する姿勢を続け、3月28日には、イランとイギリスとのすべての経済関係を凍結する決定を発表した。しかしその後、英側は一転して柔軟な姿勢に転じ、3月31日には、海軍の将校をイランに派遣し、兵士返還の交渉をする計画が政府内から出てきた。(関連記事その1、その2) この構想は、兵士がイラン側の海域に入ったことを認めつつも、それは過失によるものであるという点をイラン側と合意し、兵士の返してもらうことを目指した。ブレアは4月3日に、5日までの2日間が、英兵士を返してもらうために重要な期間だと述べた。そしてこの指摘どおり、翌4日に英兵の釈放がイラン側から発表された。(関連記事その1、その2) ▼ブレアは米のイラン空爆を阻止した? イギリス側は、兵士を取り戻せて安堵しているだろうが、イラン側には、英兵士の早期釈放にどんなメリットがあったのか。イランのアハマディネジャド大統領は、経済政策が失敗して国民から不満を持たれているが、核問題などで欧米に対して強硬姿勢を採ってイラン国内のナショナリズムを煽り、それを自らに対する人気保持の源泉としてきた。捕虜問題でイギリスと対立が長引くほど、アハマディネジャドにとっては好都合だった。 イギリスとの交渉でイラン側は、イラク駐留米軍に1月から拘束され続けているイランの外交官5人の解放を、交換条件に出したと考えられるが、アメリカが釈放したのは、5人のうち1人だけだった。(詳細は報じられていないが、ブレア首相がブッシュ大統領に拘束中のイラン外交官の釈放を頼み、ブッシュは5人中1人だけの釈放に応じたのだろう) 私の推測は、米軍は英兵捕虜問題を理由に4月の早い段階でイランを攻撃することを計画しており、イギリス側は「米軍に攻撃されたくなかったら、早く英軍兵士を返した方が良い」とイラン側を説得し、兵士の返還と、アメリカによるイラン空爆阻止の両方を達成したのではないかということだ。英兵が返還されれば、米は空爆の理由を失う。すでに述べたように、米軍がイランを攻撃して戦争になると米英の中東覇権を失墜させるので、ブレアは攻撃に反対のはずである。 一触即発の状況を自らの人気保持につなげてきたイランのアハマディネジャドも、ぎりぎり瀬戸際の状況は望んでも、戦争になって国を破壊されることは望んでいないはずである。 ▼開戦の可能性は減った? 米イラン戦争の開戦事由になりそうだった英軍捕虜事件は解決したが、これによって米イラン戦争はもう起きなくなったのだろうか。たとえばロシアの言動からは、開戦の可能性は減ったと考えられる。ロシア政府は3月22日、原子炉建設をめぐるイラン側の契約金未納の言いがかりを口実として、イランから原子力技術者を撤退させると発表した。だが4月4日には一転して、今週中にイランに代表を派遣して未納金問題について解決すると表明した。(関連記事その1、その2) ロシアが未納金門題を口実に技術者をイランから出国させると発表したときには、間もなくアメリカがイランの原子炉などを空爆するので、ロシアは自国の技術者を避難させるのではないかと欧米の分析者から指摘されていた。その後ロシアの諜報機関は、アメリカがイランを攻撃しそうだと警告した。こうした経緯をふまえると、今回ロシアが、未納金の問題を解決して技術者のイラン駐在を続けさせる方向で動き出したことは、アメリカによるイラン攻撃の可能性が低下したとロシアが考え始めたことを示している。 英兵捕虜問題が解決したので、アメリカは4月中にも、イラク復興のための関係国外相会議を開くかもしれない。この会議は、3月10日に開かれた最初のイラク復興関係国会議の続きで、1回目の出席者は次官級だったが、イランやシリアの代表も呼ばれて出席している。イランとシリアは外相会議にも呼ばれる見込みで、これが開かれると、アメリカとイラン、シリアとの緊張は緩和され、アメリカが苦労しているイラクの復興にイランとシリアが協力する態勢が強くなる。中東大戦争の可能性は低下する。(関連記事) 今後、米イラン戦争がなかったとしても、もはやアメリカが中東の覇権を失わないですむことはない。米軍の惨敗のイラク撤退は時間の問題だ。キッシンジャー元国務長官は先日東京に来たときに「アメリカはもう、イラク全体の統治を復活することはできない。もはやイラクで勝つことはできない」と述べた。アメリカの外交戦略の黒幕的シンクタンク「外交問題評議会」は、すでに昨秋「アメリカ中東支配の終わり」を宣言している。(関連記事その1、その2) ▼韓国の滑り込み イランは豊富な石油とガスを埋蔵している。アメリカによる空爆の懸念が低下したら、EU諸国やロシア、中国などの企業が、今までよりもっと、イランに商談に押し掛けるだろう。 イランは、アメリカに敵視されている時期にイランと経済関係を維持・強化してくれた中国やロシアを厚遇し、その時期にイランを非難したり冷たくした日本や西欧などを冷遇するだろう。そんな条件下で運良く英兵の釈放直前に滑り込んだのが、韓国である。韓国は、盧武鉉大統領の3月下旬の中東歴訪(イランは行かず)に関連した動きとして、韓国政府の大韓貿易投資振興公社(KOTRA)が3月31日、イラン政府の投資促進組織との間で、貿易投資関係を強化する協定を締結した。(関連記事) イランはアメリカの宿敵だから、イランと経済関係を維持・強化することは、アメリカからひどい制裁を受けても不思議はない。少なくとも、日本の外務省や経済紙などでは、そのように明言されてきた。だから、日本はイランのアザデガン油田の開発をあきらめた。しかし韓国は、イランとの貿易投資促進の覚書を締結した2日後、アメリカとのFTA(自由貿易協定)の締結にこぎ着けている。韓国がイランと貿易投資関係を強化することについて、アメリカからは何の批判も聞こえてこない。 韓国がイランとの関係を強化し、アメリカともFTAを結んだのをしり目に、日本は、親日国だったイランとの経済関係を切り続け、同時にアメリカからは従軍慰安婦問題で非難され、次には捕鯨問題でも非難され始めている。日本が採っている対米従属戦略は、アメリカの自滅的覇権衰退とともに、転換が必要になっている。だがマスコミや政府内には、そのことに気づいている人自体、ほとんどいない。(関連記事) ▼4月末にイラン空爆? ・・・今回の記事はこれで完成したと思って、情報確認のためにインターネットで英文記事をチェックしていたところ、驚かされる記事を見つけた。ブッシュ政権は、4月末までにイランの原子炉などを空爆することをすでに決定し、米政府の各省は、空爆実施直後にブッシュ大統領が行う、空爆の理由(イランによるイラク介入が理由になるらしい)を発表する演説の文案作成に入ったという。これは、クウェートの新聞アッシヤサ(As-Siyasa)とアラブタイムスが、ワシントンの匿名関係者の話として4月4日に報じた。(関連記事) 同じ4日、ロシア軍の幹部は、イランにはロシア製のミサイル防衛システム(地対空ミサイル)があり、アメリカの空爆を迎撃できるだろうと述べている。一方、別のロシア軍幹部は同日、米軍は最初の攻撃でイランの核施設の50%を破壊する大打撃を与えるが、アメリカは最終的には勝利できないと述べた。(関連記事その1、その2) これらの話からは、やはりアメリカがイランを空爆しそうな兆候があると感 じられる。空爆が行われるのかどうか、まだ注目し続ける必要がある。 ●追加記事あり。
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