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マンガンぱらだいす(5)ばくち打ちの強制連行

  田中 宇

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 マンガン記念館から国道を北へ10キロ、深見峠のトンネルを抜けると、美山町安掛(あがけ)に着く。安掛は、丹波から日本海に注ぐ由良川が流れる、低い山々に囲まれた盆地である。川のさらに上流には、自然の宝庫と呼ばれる京都大学の演習林があるなど、緑の美しい地域だ。周囲の山々の草むらの下には、いくつものマンガン鉱山跡が眠っている。

 安掛のなだらかな山の麓の斜面には、李貞鎬さんの友人、金甲善(キム・カプスン)さんが住んでいる。大正11年生まれの甲善さんは、戦争たけなわの昭和19年12月、22歳の時に、亀岡市にあったタングステン鉱山、大谷鉱山に強制連行(徴用)された。大谷鉱山は、すでに閉山している。

 徴用された日、甲善さんは、朝から近所の家に遊びに行っていた。そこまで面事務所の役人が甲善さんを探しに来た。「面」は日本の「村」に当たる行政単位である。役人は「徴用だ」と言って、甲善さんを家に帰さず、そのまま役所に連れて行った。そのころの徴用は、連れに来たらすぐに出発だった。前もって知らせると、逃げる人が多かったからである。

 役人は、甲善さんを区長のところに連れて行った。「区」は「面」の下にある行政単位で、集落のことだ。区長は「京都の鉱山に行くことになるが、炭鉱ではなく金属鉱山なので安全だ。京都は古い町で空襲にも遭わないだろうから、途中で逃げずに1年間辛抱して行ってこい、家族の面倒は見てやる」と言った。

 人々は、ガス爆発や落盤がたびたびある炭鉱に徴用されることを、非常に恐れていた。

 そのころは、日本に連れて行かれた人で帰って来たのは、ほとんどおらんかった。前に行った人は1年の約束で行ったのに、九州の炭鉱に3年も4年もおった。その話を聞いてたので、行きたくなかった。それに俺は家の長男で、面倒を見なあかん兄弟がおった。結婚して間なしの時で、その年の5月に生まれた自分の娘もおった。そやけど、そのころの区長は、部落の中では権限が大きかったさかい、区長から行けと言われればしゃあない。

 俺はその時、仕事もせんと、バクチばかりしておった。ほかのことは真面目やったけど、バクチだけは大好きで、花札とか、相手がおったらいつまでもやっていた。その日も朝から近所に行ってやっとった。

 部落で誰が徴用に行くか決めて、面事務所に連絡するのは、区長や。区長は、バクチ好きが直るんやないかと思って、俺をわざと徴用に行かせたんや。長男は普通、徴用には行かせへん。俺がバクチ好きやなかったら、行かさへんかったはずや。

 区長の言葉を聞いた後、甲善さんは、面の人と一緒に自宅に寄った。家族は悲しんでいたが、荷物を準備する時間も与えられず、ほとんど着のみ着のままで出発し、面事務所(村役場)に連れて行かれた。面事務所には、同じ面の男たちが5−6人集められていた。甲善さんの顔見知りもいた。徴用対象者の全員が集まると、列を作って出発し、郡の役場に向かった。途中で逃げないよう、前と後ろに一人づつ、面の役人がついて歩き、その日の夕方、郡役場に着いた。

 郡役場には、50人ほどの徴用対象者が集められていた。40歳ぐらいの人から、20代前後の、甲善さんより若そうな人までいた。郡役場には日本人の警察官が一人いて、見張りをしていた。夜になると、一人息子を徴用にとられたという未亡人の女性が役場に来て、「息子を返してください」と、泣きながら役人に頼み込んでいた。追い返されても、役所の入り口にしゃがんで泣き続ける光景を見て、甲善さんももらい泣きしたという。

 翌朝、甲善さんら約50人は列車で釜山まで行き、旅館に泊まった。汽車の中ではずっと、日本の警察が一人、見張りをしていた。釜山の旅館には、亀岡の鉱山から2−3人の職員が迎えに来ており、甲善さんは旅館で警察から鉱山の人に引き渡された。次の日、50人が一緒の船で海峡を渡り、下関から列車に乗り替えた。車中で正月を迎え、村を出発してから5日目、昭和20年正月の2日か3日に、亀岡の大谷鉱山に着いた。

 着いた次の日から、坑内のトロッコ押しをした。鉱石や掘りかすの石を、坑道の外に運ぶ仕事だった。トロッコは一トン積みだったが、山盛りに積んであるから、1トン半はある。それを一人で押した。食事は朝も晩も、麦飯を小さな茶碗に一杯だけ。おかずも少ないので、腹が減り通しだった。戦争末期、日本人でもろくに食べられなかったころだ。日没以降も仕事を続けたら、夕飯のほかに握り飯を2つくれた。甲善さんは握り飯がほしくて、夜まで仕事をした。

 徴用で来た労働者のほかに、前から亀岡に住んでいて、鉱山に通っている朝鮮人も20人ほどいた。日本人も多かったが、坑内の仕事はほとんど朝鮮人がしていた。

 翌年、昭和20年の7月に、鉱山を逃げ出した。腹は減りっ放しやし、戦争がだんだん激しくなって、大阪が空襲された時は、真っ黒な雨が降った。約束の1年が過ぎても帰してもらわれへんで、ほかの場所に行かされると思ったんや。大谷鉱山に徴用で来たもんの中には、俺の前にも3人、逃げたもんもおったし。その3人は、日の暮れに取り締まりの人を叩いて、走って山の中に逃げたんよ。

 逃げる日には、体が悪いさかい、仕事を休む言うて、皆が仕事に行った後、亀岡の街に出た。汽車に乗るつもりで駅の近くまで来たら、鉱山の取り締まりのもんが後ろからずっとついてきて、何しに来たんや言うから、ちょっと買い物に来た言うた。

 取り締まりのもんは、俺より先に歩いて行ったけど、駅に近付いて物陰に隠れて駅の方を見たら、取り締まりのもんが駅の前に立っておった。でも、しばらくすると、俺が駅に来んと思ったんか、行ってしもた。それで、汽車が入ってきてから、走って駅に入って、乗った。

 逃げる前、列車の切符を、鉱山の前で店をやっていた権(ゴン)さんという朝鮮人に買っておいてもらった。そのため、逃亡はスムーズにいった。甲善さんら徴用者がいた飯場は、鉱山近くの田圃の真ん中にあった。晩には鉱山の外を歩くことができたので、甲善さんはよく、権さんの店に遊びに行っていた。 権さんと話をしているうちに、逃げる手引きをしてもらうことになり、カバン一つだけだった持ち物も、前の晩に権さんの家に預けておいた。

 大谷鉱山から逃げた甲善さんは、権さんの弟がいた美山町の土方仕事の飯場に行った。米の配給切符を作ってもらい、土方仕事を始めたら、間もなく終戦だった。土方の方が、大谷鉱山より給料が良かった。大谷鉱山では、1日に2円20銭しかもらえなかったが、土方では5円はもらえた。だが、大谷鉱山にいたときは、故郷に2回、50円づつ送ったのに、土方をしてからは一回も送れなかった。飯場の飯代をとられていたので、雨が3日続くと金がなくなってしまうのだった。

 戦争が終わっても、金がたまらへん。日本に長いこと居って故郷に帰るんやさかい、旅費だけでは帰れん。いったん日本に来たら、金を持って帰らんといかんという心を持っとるさかい、俺だけじゃなしに、まわりのもんも皆、帰れへんかった。金貯めようと思って、1年延び、2年延びしたら、千円や2千円貯めたぐらいでは、故郷のよその家への顔もあるし、恥ずかしくて帰れへん。ちょっとでも金があったら、バクチやって負けてしまうしね。いつまでも故郷には帰りたかったけど、そのうちに朝鮮戦争も始まって、帰れなくなった。大谷鉱山にそのまま解放までおったもんは、解放ですぐに故郷に帰れた。逃げずに鉱山にもう少しおったら、俺も故郷に帰れたんやけど。

 この話を聞いて私は実のところ「本当に、金を持っていないと、恥ずかしくて故郷に帰れなかったのだろうか。自分がその立場だったら、無一文でも帰っただろうに。信じられないな」と思った。甲善さんの言葉を疑ったのである。

 だがその後、クゥエートなど中東にお手伝いさんとして出稼ぎに行った若いフィリピン人女性が、雇用主から虐待され、身の危険を感じて大使館に逃げ込み、フィリピンに帰るケースが急増しているというレポートを、雑誌で読んだ。被害者の中には、マニラまで帰ってきたものの、手ぶらでは故郷の村に帰れないとの思いから、結局マニラの歓楽街で売春などをせざるを得ない人が多いという。

 それを読んで、甲善さんの気持ちも、彼女たちと似たものだったのではないか、と思った。出稼ぎに行く人は、故郷に必ず金を持ち帰るという、堅い意志を持っているのだろう。円高の国で生活し、出稼ぎの必要がない私のような者の想像力の範囲を越えた現実があるようだ。甲善さんの話はまだ続く。

 でも、終戦直後に故郷に帰っていたら、朝鮮戦争でもう、俺は死んどるやろ。故郷の村は戦場になって全滅や。村はちょうど、ここのように山に囲まれてるんやけど、北鮮軍と韓国軍が山の中にいて、代わりばんこに山から降りてきては鉄砲を撃ち合った。北鮮軍は村人を捕虜に連れて行ってしまい、家に油をかけて燃やしてしまった。

 村人が山から木を切ってきて、難民みたいな家を建て直そうとしても、また来て燃やしてしまう。撃ち合いばかりで片付けもせんから、死体に蝿が束になって湧いた。ちょうど7月の暑いときで、伝染病が流行って、生き残ったもんも全滅した。俺の家族も兄弟4人のうち一人生き残っただけ。両親も死んだ。伝染病になって、髪の毛が全部抜けて、死んでしもた。

 戦後、初めて俺が故郷に帰ったとき、生き残った弟と、家族の墓を掃除しようと村に行こうとしたら、弟は足が震えて村に入れんかった。小さい時に目の前で人が死んだりして、恐い目にあってるから、歩けなくなってしまったんや。昔は村には家が150軒ぐらいあったのに、今は馬小屋みたいな小さな家が5−6軒並んでるだけになってる。うちの家も、もうあらへん。

 戦後、ずいぶんたってから、今のおっかあ(日本人)と結婚した。その後、今から10年前ぐらいに韓国へ行って、韓国に残した妻に40年ぶりに会うてきた。ほんまは会うつもりやなかったけど、俺が戸籍を日本に持ってこようとしたさかい、韓国の妻を戸籍から外さなあかんかった。妻の戸籍は俺と一緒になって40年間、そのままになっておった。

 会ったけど、妻はオバアになってしもて、顔見ても分からへんかった。俺が日本に行った後、3年間待っとったが、戻って来いひんさかい、よそに引っ越した。朝鮮戦争の時は、俺の故郷にはもう、おらへんかったから、故郷が戦場になっても死なずにすんだ。今は、妻も娘もソウルにおる。娘も、オバンになっとった。孫娘は今年(平成5年)、大学を卒業したよ。

 娘らは、俺が日本でもう死んどるはずやから、籍から抜いてくれ言うたけど、妻は「死んだら連絡があるはずや、何も連絡があらへんのに、何で死んだといえるんか」言うて、そのままにしとったんや。それ聞いて結局、戸籍はそのままにして帰ってきたよ。

「偽名男のその後」に続く)



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