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マンガンぱらだいす(6)偽名男のその後

  田中 宇

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 辛秀申(シン・スシン)さんの家を訪れたのは、平成3年11月だった。秀申さんは、マンガン記念館から南へ約10キロ、京都の嵐山につながる桂川の上流、川が大きく蛇行する谷あいの、京北町宇津という集落に住んでいた。秀申さんの家は集落のはずれにあり、後ろにすぐ山の斜面が迫る場所に建つ、古びた平屋建てだった。着いたのが夕方だったため、紅葉も終わりかけた晩秋の山麓には、冷え冷えとした寂しさが漂っていた。

 玄関で何回か声をかけても、誰も出てこない。仕方がないので奥の部屋をのぞいてみると、こたつに入っていた秀申さんと目が合った。李貞鎬さんが「先日電話した仁川です。昔の話を聞きに来たんやけど」と言ったが、秀申さんはぶっきらぼうに「聞こえないよ」と言う。耳が悪いのだ。何回か大きな声で言い直すと、ようやく来訪の意が伝わり、部屋に入れてもらえた。

 その後もなかなか話が通じず、どうも要領を得ないので部屋の隅で困っていると、奥さんの栄子さんが現れた。挨拶すると、「それはご苦労さんです。この人、耳が遠いさかい、私が耳もとで言わないと聞こえないんです」と言う。「まあまあ、せっかく来ていただいたのに、こんな格好のままで」と言いながら、栄子さんは、ズボンからはみ出たままの秀申さんのシャツを直した。

 秀申さんは大正4年、今の韓国の慶尚北道で生まれた。昭和9年、19歳の時に「金儲けをしに」単身で日本に渡り、神戸で港湾荷役の仕事をしたのを皮切りに、大阪の地下鉄工事現場やビルの建設現場など、各地の工事現場を転々とする生活を続けた。「あん時はもう、あっち行ったり、こっち行ったり。気に入らなかったら、すぐやめてしまうしね」。和歌山県の県道工事現場で終戦を迎えたが、「戦争が終わっても、(韓国が)どんな風になるか分からんかったし、父母ももう、おらんじゃろ思って」韓国には帰らなかった。昭和23年ごろに丹波に来て、鉱山や道路工事の現場で土方仕事をした。

 昭和36年に日本人の栄子さんと結婚した。「私と一緒になったころは、極道だったんです、この人。女買うたり、バクチ打ったり、酒飲んだり、なかなかのもんやったけど、人気あったですよ。もてたらしい。極道やけど、嫁をもらったら、ちいとは締まるやろ、と言われて、結婚することになったらしいんです」。  秀申さんの特技は、ゲンノウ振りだった。ゲンノウとは大鎚のこと。鉱山でダイナマイト用の穴を開けるノミを打ち込んだり、土木工事で杭を打ち込んだりする作業に使う。ゲンノウは、よくしなる木でできた、長さ1メートル前後の柄の先に、重さ数百グラムの鉄の塊がついている。それを振って細いノミの先に当てるのは、かなり難しい作業だが、ゲンノウ振りは朝鮮人の特技だった。日本人、朝鮮人を問わず、何人もの元坑夫たちが、そう証言している。秀申さんは、ほかの話には短くしか答えないが、ゲンノウ振りの話になると、大きな声で生き生きと話し出した。

「ゲンノウ振りの立川(秀申さんの通名)といえば、日本一やで。今はもう、駄目だけどね。昔は、目をつぶってもしばけたで。みんながほめたから、カネの2万や3万は、いつでももらえたよ。(土方工事の業者から)手紙が来てね、来てくれ言うんや。静岡とか関東とか、あっち行ったり、こっち行ったり。日本中、足踏まんとこはないぐらい。夏やったら、家にはほとんどいなかった」。そう言いながら、秀申さんはゲンノウを握ったときのことを思い出すかのように、握り拳にした自分の右手を見つめていた。

「私と一緒になったころ、主人は園部町のケイ石鉱山にいて、1年ほど一緒にやりました。主人がゲンノウを振って、私がノミを持って。鉱山のすぐ近くの飯場で生活して。私は初めてノミ持ちをしましたが、一度も手を打たれたことはありませんでした」と言う栄子さんは、インタビューの質問に関係なくどんどん喋り出す秀申さんをたしなめながらも、笑っている。秀申さんの言葉はぶっきらぼうだが、どこかひょうきんだった。

 聞き取りが一段落すると、出身地を教えてもらうために、外国人登録証を見せてもらった。登録証の名前の欄には、「辛東圭」と書いた上に線を引いて訂正し、「辛秀申」と書き直されている。年齢も訂正してあった。不思議に思ってそのことを栄子さんに尋ねてみた。

栄子「これはねえ、ややこしかったんです、この人。戸籍も違とったし、住所も違とったし。私は知らんもんやさかい、ずっと辛東圭で登録してあげてたんですけど・・・」

田中「なぜ、違ってたんですか」

栄子「さあ・・・」

秀申「・・・」

田中「聞いてもらえますか」

栄子「あのね、名前を辛東圭としたときは、なんでそうしたか、と聞いてはる」

秀申「これね、あの時ね、兵隊に取られるかと思ってね。もう、兵隊に取られたらもう、俺はおらんで」

田中「兵隊?」

秀申「一回逃げても、3日もしないうちに、またすぐ取りに来る。行ってたら、ひょっとしたら今ごろ俺はおらんで。死んどるで」

李貞鎬「兵隊に引っ張られるのはかなわんさかい、名前を変えたと言ってはるんや。兵隊っちゅうより、徴用やな。徴用逃れや」

田中「じゃあ、最初からこの名前は嘘だったんですか」

秀申「嘘をついて来なかったら、北海道の炭鉱とか行くいうて、もう、俺は殺されちまっとる」

栄子「ずっと私にも嘘を言うてきたんです。これを直すまでは、私も全然知らなかったんです。初め、辛東圭という名前で登録していたんですけどね。戸籍引いてびっくり、全然違うとった。登録を直すのに、ややこしかったんです。何回も民団やら、法務局に呼ばれて。戸籍を変えるのに3年かかりました。大阪の法務局行くやら、伏見の入管へ行くやら。泊まりがけで大阪の法務局へ何回行ったことか。徴用で来たのか、変な船(密航船)で来たのか、と聞かれて。不法入国だから、ちょっと刑務所に入ってもらわなならん、韓国に帰ってもらわなあかん、と言われましたが、日本人の妻の私がいるから、言うて、どうにか何とかできました。私もだまされた、言うて、この人と喧嘩したんやけど」

貞鎬「兵隊に取られるのはかなわんから、名前を変えるとは、ほんまに面白い人もおるもんや」

栄子「(笑いながら)ほんまにねぇ」

田中「歳も若く言ってたんですね」

栄子「五つも若くねぇ、ほんまに」

貞鎬「それぞれの知恵や。歳を若く言っておけば、徴用にも行かなくてすむしな」

田中「この住所は、誰のを使ったんですか」

秀申「従兄弟の。従兄弟はもう、死んどる」

栄子「いやになっちゃう」

田中「名前は、どうやって付けたんですか」

秀申「辛東圭いうんは、自分で勝手に作った」

貞鎬「あの時分は、そういうことができたんや。自分の名前も知らん人がようけおった。お前、この名前にせい、って親方に言われてつけてたぐらいのもんが、鉱山の飯場にもようけおった」

田中「故郷に帰ったことはありますか」

秀申「ソウルへ4回行った。俺の金が全部とられてた。半分はもらう権利があるで」

栄子「民団と一緒に、辛東圭の名前で韓国に行って、それで戸籍のことが分かりました。でも、この人が日本に行ってしまって音沙汰がないまま、両親が亡くなったので、末の妹が養子をもらって、跡を継いでました。それで、この人は長男だけども、財産は渡せない、と言われたんです。この人の実家は、ソウルの街の中にマンションを持っているぐらいの家です。この人は、長男だから財産をくれと言ったけど断られ、怒ってる。それで、この人、今でも財産、財産と言ってますねん」

貞鎬「わしも大阪の弁護士に相談したんやけど、40年も音信不通なら、失踪と同じで、裁判をしてもあかへんと言われた」

秀申「韓国におるんは、皆、盗っ人ばかりや。口ばかり達者で。俺、日本にいて、金も送ったのに、あほみたいやで。馬鹿みたいやで。金は、孫まで取る権利があるで」

栄子「この人には妹が2人いるんです。この人がいないので、男手がなくて、女ばかりで戦後、苦労しはったらしい。この人は、家に金を2−3回、送ったので、それで田圃が買えたはずやと言ってはる。妹さんは、戦前に一回だけ送ってもらったと言っている。戦後は昭和30年ごろまで、手紙が行かない時期があったので、届かなかったんです。

 昭和56年に、最初に主人が実家に帰ったときは、向こうの親族にも感激されて、それゃ、すごい歓迎ぶりだったみたいです。その後、妹さんに向こうで戸籍を引いてもらって、日本で使ってる名前も、住所も、何もかも違うと分かった。戸籍が直ってから、昭和61年に私も一緒に韓国へ行きました。あの時はまだ、この人の実家にはオンドルがあって、昔のままのようでした。

 次に行った時も、私と二人で行きましたが、オンドルがなくなって家が新しくなっていました。その時に財産の話が出て、一銭も出さんぞ、と言われました。家の近くは食べ物とかを売ってる大きな市場になっていて、そこがこの人のものになるはずでしたが、一銭ももらえなかったんです。日本で大怪我をして生活できなくなったので、財産を少し分けてくれれば、日本で私が面倒を見ます、と言ったら、それならこの人を韓国に置いて行ってくれたら良い、みんなで面倒を見るから、と言うんです。主人に、実家におりなさいと言ったら、一人でおるのは嫌だ、と言う。向こうの人は、主人一人なら置いておいても良いが、私と二人では駄目だと言うんです。しょうがないから、二人で帰ってきました。

 その次に行ったときは、家はごっついビルになっていて、市場は全部、マンションになってました。ソウルの郊外の、地下鉄で一時間ほど行ったところで、マンションが良く売れているらしいんです」

秀申「家は8階建てやで。もういっぺん行くで、俺は」

栄子「まだこんなこと言ってる」

栄子「この人、京都で道路工事の土方仕事をしているとき、大怪我したんです。昭和39年でした。頭も肩も腰もくちゃくちゃで、5日間病院で意識不明だった。入院してるときに、故郷に手紙を書いておきなさい、と言ったんです、私。でも、金を儲けてからでないと、手紙を出せん、と怒りはって、出さなかった。あのとき、出していれば良かったのに。戸籍も、その時に直していたら、まだ、向こうのお父さんもお母さんも生きてはった時やから、ややこしくならずに、直せたんです。名前を変えて日本に来たりして、自分の身に降りかかってくる不幸を、何とかして避けようとしたんですけど。結局、また自分に降りかかって来てるんです、この人。

 耳が遠いけど、私より元気です。自転車乗ってうろうろするし。こないだひっくり返って怪我して帰って来たけど。言うこと聞かへんねん、この人。仁川さんがやってはる記念館も、ちょいちょい自転車で行ってるらしい。あんな遠くまで。私に言うと叱られるから、行ったこと黙ってはるけど」

 辛秀申さんは、その一年半後の平成5年に亡くなった。マンガン記念館には、取材した元坑夫たちを写した写真が並べて展示されており、秀申さんと栄子さん夫妻の写真もある。夫婦が寄り添って暮らしていた家の前で、髪がぼさぼさの秀申さんの隣に、エプロンをつけた小柄な栄子さんが立っている。惚けたような秀申さんと、ちゃきちゃきとした栄子さんのやり取りは、掛け合い漫才のようだった。歳をとったらこんな老夫婦になりたい、と思わせるような温かみがあった。秀申さんが亡くなったいう知らせを聞き、写真をながめて思い出し、胸の中が暖かくなって、少し涙がにじんだ。

(続く)



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