イラン訪問記(2)民族の網の目2006年4月21日 田中 宇この記事は「イラン訪問記」の続きです。 今回のイラン訪問では、首都テヘランのほかに、どこか地方都市にも行こうと考えていた。イランは広く、行ったことのない場所は多かったが、結局その中でクルディスタン州の州都サナンダジを選んだ。クルド人の居住地域であるクルディスタンは、100年ほど前に欧州列強が引いた国境線によってバラバラにされ、イラン、イラク、トルコ、シリアに分かれている。(各国の総人口に占めるクルド人の割合は、イラン10%、イラク15%、トルコ17%、シリア3%) 私は2003年5月に、イラクのクルディスタン地方を旅行したことがあり、今回は、イラク側から山を一つ越えたところにあるイラン側のクルディスタンがどのように違うのか見たかった。 先に結論を書くと、イラン側のクルディスタンは、イラク側と雰囲気が似ているところが多いと感じられた。すぐに分かることは、だぶだぶの黒いズボンをはき、腰に布の帯を巻いた、クルドの民族衣装を着た人が多いことだったが、それだけではない。私が「イラクのクルドの町と同じだ」と思ったことの一つは、サナンダジが人口30万人程度の町なのに、その規模の町にしては異様に多くの人々が毎日繁華街を歩いていたことである。 私はサナンダジに1泊2日滞在したのだが、2日間とも、午後になると、町の中心のエンゲラーブ広場のロータリーから放射状に伸びる長さ数百メートルずつの繁華街は、人々で賑やかにごった返し、夕方には週末の東京渋谷あたりに匹敵するような、歩くのも大変な大混雑の状態となった。裏道にある市場(バザール)の奥の方には、対戦式のテレビゲームができる店が何軒も並んでいたが、そこは子供たちであふれ、外国人と見るや、私に「ハロー、ハロー」といっせいに呼びかけてきた。 町中のどこにでも人々が歩いているわけではなく、エンゲラーブ広場から各方向に5分も歩くと、人々の数が急激に減り、歩道は閑散としてしまう。どうやら、多くの人は繁華街を行ったり来たりして、そぞろ歩きを楽しんでいるのだと思われた。 そぞろ歩きする大群衆は、サナンダジから国境の山をへだてて100キロほど離れたイラク側のクルド人の町スレイマニヤを03年に訪れたときにも接した。スレイマニヤの夕方の繁華街は、表通りも、市場の細い路地も、そぞろ歩きを楽しむ老若男女たちで大混雑していた。私の感覚では、イランでもイラクでも、他の町ではこんなに人通りが多くない。どうやらクルド人は、イランでもイラクでも、繁華街のそぞろ歩きが大好きな人々であるようだった。 ▼クルド人は決起するか イラク側のクルド人地域は湾岸戦争後、アメリカやイスラエルの軍事支援を受け、フセイン政権の支配が及ばない事実上の自治状態だったためか、英語が話せる人がけっこういた。だがイラン側のサナンダジでは、他のイランの諸都市と同様、英語のできる人はほとんどいなかった。好奇心のある道行く若者に英語で話し掛けられることを期待しつつ、繁華街をゆっくり歩いて何往復かしたが、話し掛けられなかった。 結局、道を尋ねた繁華街の若い店員が、英語を少し話したので、雑談の中で「クルド人は独立してイラクのクルディスタンと統合すべきだと思うか」と尋ねてみた。すると答えは「われわれはイラン人であり、イラク人とは違う」というものだった。イランではナショナリズム教育が強いので、これは本心なのかもしれないが、むしろ模範解答であるとも思った。秘密警察の強いイランでは、外国人から街頭で話し掛けられた人が、反政府的なことを言うはずがない。イランとイラクのクルド人は、国境貿易(密貿易)をさかんにやっているので、相互の交流は多い。イラクのクルド人が独立に向けて政治基盤を固めていることを、イラン側のクルド人はよく知っている。 イランのクルド人は、クルディスタンに最も多いが、テヘランなどにも多く住み、他の系統のイラン人と結婚したりして、イラン社会の網の目の中に入り込み、イラン社会の中で一定の地位を築いている。前回の記事にも書いたが、イラクのフセイン政権のように、アメリカに攻撃されてイラン政府が消滅した場合は、その後のクルド人はイラク側との統合に動くだろうが、イランの現政権がテヘランに存在している限りは、大きな反政府運動は起こらないと予測される。 イランでは最近、クルド人の著名なリベラル系の元国会議員が中心となり、クルド人の権利を拡大する運動を始めたが、支持者は3000人ほどと少ない。昨年以来、リベラル派は一般にアメリカの傀儡と見なされる傾向が強まり、支持を減退させている。(関連記事) ▼分離独立より金儲けのアゼリ人 同じことは、イランのもう一つの有力な少数派であるアゼリ人(トルコ系、総人口の25%)についてもいえる。アゼリ人の居住地域は、北半分が旧ソ連のアゼルバイジャンで、南半分がイランである。 (ソ連は第二次大戦直後、イラン西部のアゼリ人とクルド人をイランから独立させて社会主義政権を作らせ、ソ連圏を拡大しようとしたが、アメリカの強い反対などを受け、短期間であきらめた) アゼリ人は商売がうまく、テヘランにもアゼリ人が経営する店がたくさんあった。ペルシャ語は形容詞より名詞が先にくる言語だが、トルコ語はその反対だが、2つの言語は似ている単語が割と多い。イランの諸都市にはトルコ語系の語順の看板がけっこうあり、トルコ系が経営する店ではないかと思って店員と話してみると、だいたいがアゼリ人であるという。トルコ語とペルシャ語の両方ができる日本人(テヘランの安宿で偶然会った旅行ガイドブック作家Fさん)に聞いた話である。 イラク侵攻後、アメリカのラムズフェルド国防長官がアゼルバイジャンを訪問し、有事になったら米軍基地を置かせてもらう話を進めたりした。この影響で、アゼルバイジャンはアメリカからの援助を期待して、イラン側のアゼリ人にアゼリ民族主義を吹き込む宣伝活動をした。イラン西部を分離してアゼルバイジャンと併合して「大アゼルバイジャン」を作る構想らしいが、イラン側のアゼリ人は無関心だった。 アゼルバイジャンは長く無神論のソ連の一部だったため、イランより宗教的な寛容度が高く、イランより売春行為が大っぴらに行われている。このためイラン人男性の間では「アゼルバイジャン」という名称は好色な響きを持つと聞いた。反政府の民族主義からは遠いイメージである。 テヘランで聞いた小話に「アゼリ人はすでにイランを支配している」というのがある。最高権力者のハメネイ師はアゼリ人の血が入っており、イラン経済界ではアゼリ人が強く、イランのサッカーチームの大人気の有名選手もアゼリ人だからだという。こういう話を聞くと、イランのアゼリ人が反政府運動に無関心なのは納得できる。 ▼イスラムからの「分離独立」を望む人も イランにはアゼリ人以外にもいくつかのトルコ系少数派がいる。合計すると、トルコ語系の言葉を話す人口が全体の4割近くになり、人口の5割を占める多数派のペルシャ系に匹敵する勢力となる。だが、トルコ系が政治的に結束してペルシャ系に対抗しているという話は聞いたことがない。 イランには、アゼリ人やクルド人に対する差別がある。だが、スンニ派がエリート層であるという構造が明確だったフセイン政権までのイラクや、逆に少数派のアラウィ派がエリート層を握って多数派のスンニ派を支配しているシリアなどに比べると、イランは多民族的な網の目が複雑に入り組み、民族間での婚姻も多い。民族別にペルシャ系が支配層でその他が被支配層という区分は弱いように見える。 私がイラン社会に対して持った印象は、民族とは別の軸を持ったナショナリズムがある点で「中国と似ている」ということだった。中国ではここ60年近く共産党が支配し、共産党員というエリート層があって、ナショナリズムに基づく国内の結束や富国強兵を鼓舞する役割を担っている。一方、イランではイスラム革命以来30年近くイスラム教の法学者集団を中心とする宗教勢力が支配し、宗教系の青年組織がエリート予備軍として存在し、ナショナリズムを鼓舞する中核となっている。アハマディネジャドは宗教青年組織のリーダーで、胡錦涛は共産党青年団のリーダーだった。 とはいうものの、イランではイスラム革命後、権力を握った宗教学者の中にはラフサンジャニに象徴される私腹を肥やす人々がおり、宗教の名のもとに腐敗がまかり通っていることに怒り、自国の政治体制に失望しているイラン人が多いのも確かである。 テヘランで話したイラン人の中には「本当はアメリカに移住したい」と漏らす人が複数いた。カリフォルニア州を中心にイラン人の移民社会があり、そこへの合流を目指す動きなのだが、911以降、イラン人がアメリカに入国できる可能性は激減した。 「イスラム教には失望している」「イスラム革命前の方が良かった」「イスラム教はイランをダメにした。イスラム以前の古代ペルシャの文化が本物のイランの文化だ。ムハンマド(イスラム教の創始者)の軍隊にイスラム教を押しつけられて以来、イランはダメになった」などと言う人にも何人か会った。イランには、イスラムから「分離独立」してイスラム以前の状態に戻りたいと望んでいる人々がいるのである。 ▼行き場のない人々の不満 ここ数十年、パレスチナ問題やアメリカのテロ戦争によって、イスラム世界は欧米との対立を扇動され続けた結果、イスラム教はどんどん非寛容な宗教、自宗教への批判や客観視を許さない宗教になっている。「ムハンマドが自国をダメにした」といった発言は、公的な場所で発せられたら、イラン以外の国でも、死罪に値する。「自国の宗教指導者は腐敗している」という批判より、はるかに危険な反逆行為である。 中国との比較で言うと、中国では今や、建前としての国是である共産主義を馬鹿にする人の方が多いが、イランでは国是のイスラム教に対する勝手な発言は許されない。潜在的な批判や不満はかなり強く、抑圧はかなり大きい。こうした状況は、私が前回イランを訪問した1999年にはすでに存在しており、当時の旅行記にもそう書いた。(関連記事) イラン人の体制への不満が大きくても、それがブッシュ政権の望む政権転覆につながるかといえば、それは多分ない。現状に不満なイラン人は、自国の政権を倒すことなど考えず、むしろアメリカに移住することを考えている。以前なら、アメリカが自国の政権を武力で倒してくれれば、その後は良くなると考える人がいたかもしれないが、イラク占領の惨状を見た今では、それを期待する人もいないだろう。ブッシュを動かしているのは、中東イスラム諸国を混乱させ弱体化させたいイスラエルであると、今ではイランを含む中東の多くの人が思っている。 これでは、たとえイランの選挙で親米的なリベラル派が勝ったとしても、対米関係が改善できる見込みはない。アメリカとの対立激化の中で、リベラル派に対する支持は消滅し、反米ナショナリズムを扇動するアハマディネジャド政権の力が大きくなり、政権に対する人々の不満は、この激動に押し流されている。 ▼難民申請を求めて日本人に近づくアフガン青年 テヘラン滞在中のある日、市内のとある観光スポットの近くを歩いていたら、若い男性から英語で声をかけられた。話してみると「自分はアフガニスタン出身のハザラ人で、何とかして外国に移住したいと思っている」と言い出した。彼は、市内の観光地の近くをうろうろして、日本人旅行者らしい人を見ると近づいて話し掛け、難民として日本に行きたいので申請を手伝ってほしいと頼み続けているらしい。 ハザラ人は、アフガニスタンの諸民族の中で唯一のモンゴロイドで、日本人と似た顔立ちである。彼は、ハザラ人は日本人と似ており親近感があるはずだとか、日本人は欧米人より親切だと語り、だから日本人に頼んでいるのだと話した。彼は、ポケットから小さな自分の顔写真2枚を取り出し、申請用紙にはこれを貼りつけてください、2枚で足りますか、と言って、私に手渡そうとした。私が日本に帰国したら、彼のために難民申請してほしい、という要請らしかった。 アフガニスタン西部ではペルシャ語(ダリ語)が主要言語で、ヘラートを中心とする西部は歴史的にイランの影響圏である。その関係で、アフガニスタンからイランへは以前から農閑期の出稼ぎ者が多い。1980年代以降のアフガン戦争で100万人近くのアフガン人がイランに避難してきたが、イラン政府はこれらの人々を出稼ぎ者とみなし、欧米が求めるような、難民としての待遇をしていない。 アフガン人に難民の地位を与えているパキスタン側でも、アフガニスタンの故郷の町と、パキスタン側の難民キャンプとを行ったり来たりして、まるで出稼ぎ者や行商人と同じ生活パターンをしているアフガン人が多い。それを考えると、難民申請を許したら出稼ぎ者がみんな申請してくると考えるイランの対応は理解できる。逆にパキスタンや米英は、アフガン人を反ソ連のゲリラ戦士として使う必要があるので、難民の地位を与えたと考えられる。難民問題は米英にとって、国際政治を操るための道具の一つである。悲惨そうな子供らの映像を使った宣伝を鵜呑みにしない方がよい。 とはいえ、アフガン人の出稼ぎ者がイラン社会の最底辺を支えていることは確かである。建設現場の飯場に住みこんで作業員として働くことが多い彼らは、質素な生活をしている。私が会ったハザラ人青年は、ソ連の侵攻から数年たった20年前に家族でイランに逃げてきて、今はテヘラン郊外の工場に家族で住み込み、働いていると言っていた。 私は、アフガン人が日本に難民申請しても最近は認められていないと聞いていた。その旨を彼に伝えると、がっかりした様子で「日本には迷惑をかけない。すぐにアメリカかイギリスに行くつもりだから」と言う。彼はまた「イスラム教は、人々の生活を悪くしている。キリスト教か仏教に改宗したいと思っている。タリバンの仏像破壊には怒りを感じる。仏教徒になるには、どうすれば良いのか」とも言っていた。 イランに来てから、イスラム教を否定する話を何回か聞いていた私は、問題はここまで来ているのかと一瞬思ったが、今回のはどうも違う主旨の話ではないかと考え直した。というのは3月末、アフガニスタンでイスラム教からキリスト教に改宗したために弾圧され、欧州に亡命した人のニュースが世界に流れたからだ。ハザラ人の青年は、改宗したいと言えば欧米や日本の機関が助け船を出してくれると考えたのだと思われた。(関連記事) 私が見るところ、難民になることは、先進国の余裕ある人々の同情心を喚起する国際政治の業界人になることである。難民申請を望む青年が、日本人に近づいて「仏教徒に改宗したい」と言うのは、国際情勢を分析して彼なりの政治戦略を考えた結果である。彼は、私が今回イランで会った現地の人々の中で最も英語が上手かった。政治屋的な難民なんかになるより、英語を使ってビジネスをやることを考えた方が良い人生になる。私がそう言うと彼は、自分の英語をそんなに上手いと思うのか、と嬉しそうに言い、私が言いたいことを理解してくれたように見えた。
田中宇の国際ニュース解説・メインページへ |