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悪化するガザの状況

2005年11月9日  田中 宇

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 今年9月、イスラエルの軍と入植者が40年近く占領し続けてきたパレスチナ人のガザ地区を撤退してから、2カ月がすぎた。この間、ガザの治安は、悪化する傾向にある。

 ガザは、南北40キロ、東西10キロの細長い地中海沿いの砂地の平地に、200万人近いパレスチナ人が住み、人口密度は香港に匹敵する世界最高レベルにある。しかも、南部の海岸沿いなどガザの土地の約3割は、イスラエル人の入植地として使われ、パレスチナ人は入ることができない。入植者は約4千人しかおらず、広々とした入植地で畑を耕すイスラエル人と、残りの土地で密集して住むパレスチナ人との住環境の違いが非常に対照的な場所である。(関連記事

 ガザのパレスチナ人の多くは、1948年のイスラエル独立時の戦争と、1967年の第三次中東戦争で、イスラエル軍などに家を追われ、難民としてパレスチナ各地からガザに流入してきた難民たちである。

 長引く難民生活の中で、人々は、出身地ごと、血族ごとの派閥集団を形成し、その中で助け合って生きてきた。ガザのパレスチナ人はほぼ全員がスンニ派イスラム教徒だが、その社会の内部は、地縁血縁でつながったいくつもの集団に分かれている。パキスタンのペシャワールに何十年も住んでいるアフガニスタン難民が、いくつもの集団に分かれているのと同じ構造である。また、米軍占領下のイラクでの社会変化とも似ている。

 1994年、オスロ合意に基づき、アラファト議長らPLO首脳が亡命先のチュニスからガザに戻り、パレスチナ自治政府を作った。自治政府内には「部族担当省」(Ministry of Tribal Affairs)が作られ、地縁血縁ごとの派閥(部族)の代表者たちの会議を作り、彼らを通じて統治を行おうとした。PLOには、ガザの統治機構をゼロから作っている時間的な余裕が与えられていなかったので、既存のガザ社会の地縁血縁関係を、そのまま行政機構として活用した。

 その後、1995年のラビン首相暗殺を機に、イスラエルはオスロ合意の施行を阻止し、イスラエルはパレスチナ人に対する抑圧を強め、自治政府の機能を破壊した。その結果、ガザのパレスチナ人社会は、地縁血縁の派閥関係に頼らざるを得なくなり、自治政府の警察や裁判所も機能しなくなった中で、ガザの治安維持は、各派閥の男たちが武装して自警団を作って行う傾向が強まった。公式な自治政府の警察隊も、派閥ごとに組織され、派閥ごとに隊員募集を行う状態になった。

 同時に、伝統的に相互扶助の機能を持っているモスクの役割が重要になり、イスラム原理主義と地縁血縁主義が混合した社会秩序が作られるようになった。

 イスラエルが占領していた間は、共通の敵があったため、ガザに武装した諸派閥が存在していても、相互に敵対することは少なかった。ところが、今年9月にイスラエルが撤退した後は、力の真空状態を埋めようと、諸派閥の武装勢力どうしが対立する状態が強まっている。(関連記事

 自治政府によると、ガザと西岸では今年1−9月に、イスラエル側に殺されたパレスチナ人が218人だったのに対し、パレスチナ人どうしの抗争で死んだ人は、それを上回る219人だった。(関連記事

【続く】



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