基軸通貨でなくなるドル2005年3月15日 田中 宇為替相場は先週後半、ドルが世界各国の主要通貨に対して売られ、大幅下落した。その後、今週に入ってドルは円などに対し、やや値を戻した。だがこの過程で、これまでは可能性としてのみ語られていた「ドルが世界の基軸通貨でなくなること」が、先週の後半を境に、現実のものになり始めるプロセスに入った観がある。 先週後半、3月9日から11日にかけて、ドルにとって重要な発言が3つ発せられた。その一つは、中国の中央銀行である中国人民銀行の周小川総裁が、人民元の為替相場をドルに対して一定に保つ(ペッグする)ことをやめ、代わりに円や他のアジア通貨、ユーロなどを含む世界の主要通貨を加重平均したもの(通貨バスケット)に対するペッグに移行することを検討していると明らかにしたことである。(関連記事) 中国当局が人民元のペッグ先を、ドルのみから主要通貨の加重平均値に変えようと検討していることは、かなり前から知られていた。だが「それが実行される時期はずっと先の話になる」というのが大方の予測で、今年1月末の時点では、中国当局筋の人々も「今年じゅうに人民元の相場を変動させることはない」などと話していた。(関連記事その1、その2) ▼人民元は6月までに切り上がる? だが、今はすでに様子が違う。リーマン・ブラザーズとメリルリンチというアメリカの2つの大手金融機関が、中国は今年6月末までに人民元の相場を動かすだろうと予測している。2社は、人民元の対ドル相場は今より最大で10%上がり、同時にドルのみに対してペッグしていたのをやめ、代わりに通貨バスケットに対するペッグに切り替えると予測している。(関連記事) 2社は、為替の予測がよく当たることで知られている。しかも、6月末というと3カ月後である。こんな短期間での変動予測の裏には、それが実現するだろうと考える確証があるのではないかと思われる。 2社が中国政府の中枢(中南海)の意志決定について何か秘密のことを知っているとは考えにくい。中国は結束を重んじる共産党なので、上層部の意志決定の機密が保持される傾向が非常に強く、中南海での議論内容が外部に漏れることは、意図的な漏洩以外はほとんどない。それに、人民元の切り上げは中国経済を不安定にするし、為替の自由化は投機筋に狙われやすい状況を生むため、中国政府はできる限り人民元の現状を維持したいはずである。(関連記事) それなのに、中国が今後3カ月以内に人民元の対ドルペッグをやめる方向に動かねばならないのは、人民元ではなくドルの方に大きな変動が起きるからだろう。リーマンブラザーズなど2社は、ドルの下落を予測し、その影響で人民元の切り上げと制度変更が不可避になると予測しているのではないか。 今後3カ月以内にドルがユーロや円など世界の通貨に対する為替相場を維持できなくなり、大幅に下がった場合、人民元がドルだけにリンクされ、ドルの急落に合わせて人民元も急落し、中国は通貨が安すぎる状態になってインフレ懸念が増える。(関連記事) それを避けるには、中国政府は人民元をドルだけにリンクさせる状態をやめて、通貨バスケットへのリンクに切り替える必要がある。加えて、ここ1−2年のドル安で、人民元はすでに安すぎる状態になっているので、その分の10%程度を切り上げる必要もある。 ▼アジア通貨バスケットの可能性 人民元がドルとの単一リンクをやめて通貨バスケット方式に移行することは、アジアの通貨システム全体のあり方を根本的に変える可能性が大きい。 アジア諸国の多くは従来、主な輸出先がアメリカだった上、外交的にもアジア域内の協調体制よりアメリカとの2国間関係が重要で、経済的にも外交的にもアメリカとドルを中心に動いてきた。アジア諸国は自国の通貨を安定させるためにドル(米国債)を貯め込み、1997年のアジア通貨危機後は、危機の再来を防ぐため、アジア諸国のドル備蓄に拍車がかかった。 ところが最近のアメリカは、世界から借金をして消費する態勢を続けすぎたため巨額の貿易赤字を抱え、ドルに対する懸念が増している。アジア諸国は、域内の取引にもドルしか使う通貨がない状態をじょじょに脱していこうと、アジア地域の外交的な意志決定機関になりつつあるASEAN+3で、2003年にアジア諸国の諸通貨を加重平均した「アジア通貨バスケット」(ACB)の利用を拡大することを決めている。(関連記事) ACBの構想はその後、下火になった観があるが、人民元が通貨バスケットへのペッグに切り替えることは、おそらくこの構想が復活することを意味している。最近の中国は、東南アジアや韓国などアジア全域に対する影響力が増している。中国が人民元とACBのつながりを深め、その影響を受けた他のアジア諸国も、ドルよりACBを重視する傾向を強めると、これまでドルや米国債を貯め込んできたアジア諸国は、ドルの代わりにACBや人民元、円などを貯めるようになる。(関連記事) ドルは下落し、米国債は売られてアメリカの金利は上昇し、世界からの借金で消費ブームを続けてきたアメリカの経済発展のメカニズムも崩れ、アメリカは商品の輸出先としても機能しなくなる。アメリカに輸出できなくなるとアジアの製造業は窮するが、長期的には中国や、その後はインドも大きな消費市場として勃興する可能性があり、アジア域内で生産と消費が完結する体制へと変わっていくと予測される。(関連記事) ▼ドルはアメリカの支配力の源泉 このように、人民元がドルへの単一ペッグを外すことは、アジアがアメリカに頼る時代が終わっていく過程が始まることを意味している。ドルのパワーが落ちることは、アメリカのパワーが落ちることである。世界がドルを買わなくなると、国債を発行して軍事予算を作ることもできなくなり、軍事力も失われてしまう。(関連記事) 中国は、日本に次いで世界で2番目に多くドルを保有している国だが、その中国の通貨当局(中国人民銀行)は昨年1年間で、外貨資産全体の中のドルの割合を82%から76%へと下げ、その分ユーロの比率を増したことが分かっている。(関連記事) アメリカ中枢には、議会や財務省など、中国に圧力をかけて人民元の対ドルペッグをやめさせようとする組織がいくつもある。彼らは、表向きは「中国からの安い輸入品にさらされている米国内の産業を守るため」と称しているが、実際には人民元のドルペッグの終わりはドルの覇権の終わりにつながるので、彼らはアメリカを自滅させて世界を多極化しようとする「多極主義者」ではないかと私は以前から疑っている。(関連記事) ここ1−2年、英米の新聞で中国やインドが大国になると予測する記事をよく目にするが、それらを見るたびに「これも多極主義のシナリオライターの手によるものか?」と感じる。(関連記事) ▼グリーンスパンの警告 3月9−11日に発せられてドル相場を下落させた発言のもう一つは、アメリカの中央銀行にあたるFRBのグリーンスパン議長が外交問題評議会(CFR)での講演で「アメリカの財政赤字の拡大がこのまま放置されると危険だ」という趣旨の発言をしたことである。(関連記事) グリーンスパンは、財政赤字、貿易赤字、家計の赤字(クレジットカードの使いすぎ)というアメリカが抱える3つの大赤字のうち、最も危険なのは財政赤字で、これが拡大していくと、各国の中央銀行を中心とした外国人投資家がアメリカへの投資を嫌がるようになって赤字の穴埋めができなくなり、ドル下落と高金利によってアメリカ経済が縮小する形で、貿易赤字が強制的に抑制されることになるだろうと説明した。(関連記事) グリーンスパンの警告は今に始まったことではない。昨年から彼は同じことを言っていた。グリーンスパン以外にも、昨年から今年にかけて、同様の警告は多くの専門家から発せられている。問題は、ブッシュ政権がこれらの警告にもかかわらず、双子の赤字をどんどん拡大させていることである。(関連記事) 3月10日に発表されたアメリカ連邦政府の2月の財政赤字は、イラクの戦費などがかさんだため、ウォール街の予測を上回る1139億ドルとなり、月間の財政赤字の額として史上最大となった。ブッシュ政権は、財政赤字を削減するとは言っているものの実現しておらず、その一方でイラクでの占領費のうち90億ドルが使途不明のまま消えていたことが発覚するなど、巨額の軍事費やテロ対策費が無駄に使われていることが分かっている。(関連記事その1、その2) 貿易赤字についても、3月11日に発表された1月の数字は、1月としては過去2番目に巨額のものだった。アメリカではトヨタや日産の自動車がよく売れる半面、GMなどの国産車が売れず、GMはもうすぐ社債がジャンク級に格下げされそうな事態になっている。アメリカの貿易赤字が増えるのは、アメリカから世界に輸出できるものが減っている半面、米国民は借金漬けになりながら消費し続けているからである。(関連記事) ▼ブッシュ政権のドル自滅政策 にもかかわらず、貿易赤字の拡大に対して3月11日にアメリカのスノー財務長官が発したコメントは「世界各国が経済成長しないので、国内消費が増えず、その分がアメリカに輸出されてしまうのだ」という趣旨の責任転嫁のものと「中国は人民元を切り上げるべきだ(そうすれば対米輸出が減る)」という自滅主義的なものだった。(関連記事その1、その2) 「ブッシュ大統領はEUと、ドルの将来について話し合うべきだ」という主張も出たが、これも無視されている。米政府は、ドルの下落を防ぐための手だてを何も採らず、他人のせいにしたり、逆に自滅的なことを言ったりするばかりである。たとえ双子の赤字が増大しても、米政府の高官が上手なコメントを発すれば、危機の回避は難しくなくなる。ところがブッシュ政権は逆に、ドルに対する懸念を高めるような姿勢をとっている。(関連記事) 今のところ、ドルが売られても、その後再び元に戻す傾向が続いている。これに対しては、ニューヨークタイムスが2月14日付けの社説で「ドルは短期的には上昇する動きもあるが、これは為替ディーラーたちがFRBの利上げなど、短期的な材料を使って利益を出そうとしているからにすぎない」と書き、ドルの下落をはっきり予測している。(関連記事) 半面「フォーリン・アフェアーズ」最新号には「双子の赤字はあるものの、世界に対して経済的に優位に立っている以上、アメリカは覇権を維持できる」と主張する論文が掲載されている。(関連記事) 双子の赤字の急増はレーガン政権時代にもあったが、アメリカは破綻せず乗り切った。それを考えると、双子の赤字だけでアメリカの世界支配が崩れると考えるのは無理があるかもしれない。だが、ブッシュ政権はドルを不必要に危険な状態にするような政策や無策を続けており、単なる双子の赤字の増大だけでなく、このことがドルを破綻に近づけている。(関連記事) 日本や中国などアメリカの外の勢力は、ドルの覇権が続いた方が安定すると考えているのに、当のアメリカの内部にドルの覇権を崩して世界を多極化したい勢力がいる。この状態は、911以来ずっと続いている。 ▼ドルを売りそうな日中韓 中国がドル離れの方向を模索する中で、日本もドル離れを模索しているふしがある。3月9日、日本の小泉首相は国会で、日本の外貨備蓄がドルに偏っている危険性を指摘した民主党議員の質問に答えて「投資先を分散することは必要だと思う」と発言した。これは、世界最大のドル保有国である日本の金融当局が、ドルを売ってユーロなどを買う動きを強めるのではないかという思惑を生み、ドルが急落した。(関連記事) 小泉発言の後、財務省の渡辺財務官が「今(ドル売りに)動くつもりは全くない」と述べるなど、市場の動揺を抑える対策をとり、ドル売りを沈静化させた。だが、この渡辺財務官の発言に対しても「今は売らないと言っているだけで、今後は売るかもしれないと読める」という解読もあり、日本がドル売りを開始するのではないかという懸念は市場に残っている。(関連記事) 2月22日には、世界第4位の外貨備蓄を持つ韓国の中央銀行(韓国銀行)が、外貨備蓄の収益性を上げるために、保有する通貨を多様化する方針を盛り込んだ報告書を議会に提出したことが海外で報じられ、韓国がドル売りを始めるのではないかとの懸念からドルが急落した。(韓国銀行の方針は以前からのものだったので、韓国のマスコミでは特に注目されなかった)(関連記事) 巨額のドル備蓄を持っている日本、中国、韓国など東アジア諸国の当局は、ドルを真っ先に投げ売りしてドル相場を崩壊させたとアメリカから非難されるのは困るが、かといって他国がドルを売り逃げる中で、自国だけが価値の下がったドルを保有し続けるというババつかみも避けたいと考えており、アジア諸国はドル売りの機会をめぐり、横にらみの状態になっているという指摘がある。(関連記事) ▼弱くなるアメリカに寄り添う日本 通貨の世界におけるドルの覇権が弱まり、政治の世界でのアメリカの覇権も弱まることを見越したと思われる動きも出ている。韓国では、従来のようにアメリカとの関係を第一に考える国家方針を続けるか、それとも北朝鮮を敵視するばかりで朝鮮半島問題の安定化を阻害しているアメリカと疎遠になり、代わりに中国との関係を強化する方針に転換するか、という議論が始まっている。(関連記事) 今後ドルとアメリカの覇権が弱まるという前提で考えると、こうした議論が出てくるのは当然だ。似たような動きは世界中で始まっており、今後、世界は多極化する傾向を強めると予測される。 そうした中で奇妙なのは、わが日本の動きである。アメリカが衰退しそうなのに、日本政府は対米従属の強化と、周辺諸国との関係悪化策を採っている。何でこんな戦略を採るのか。以前の記事で推測したように、憲法9条を改定するために周辺国との関係を悪化させているのか、それとも日本の上層部はアメリカの潜在的な衰退に気づいていないのか、どちらなのかはっきりしない。(関連記事) もし後者だとすると、今後ドル基軸が崩れていく過程で、日本政府はどこかの時点で遅まきながら事態の展開に気づき、あわてて方向転換を余儀なくされることになる。それが後になればなるほど、アジアは日米抜きで結束し、中国の隠然とした影響力が拡大し、日本が後から入っていくことが難しくなり、日本の国益が損なわれる。
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