歴史は繰り返す? 湾岸戦争とイラク戦争2003年7月22日 田中 宇アメリカ政権中枢の中道派の戦略を知りたいと思い、パウエル国務長官についてネット上でいろいろ探して読んでいたら、1991年の湾岸戦争について興味深い分析にめぐり合った。「パウエル伝説の裏側」というタイトルのこの記事は、20歳代のときにベトナム戦争に参加して以来、パウエルが米軍と政権内でどのような仕事をしてきたか、ということを詳細に書いた連載記事の中の一つである。 この連載は反戦運動系(リベラル系)の評論サイト「コンソーシアムニュース」に掲載されている。この連載は全体的にみて、アメリカの権力中枢に長くいたパウエルに対し、反感を持って書かれている。だが、盛り込まれた分析の中にはなるほどと思う点も多く、特に今回私が注目した、湾岸戦争時のことを書いた部分は、湾岸戦争そのものの意味について、これまで全く気づかなかった視点を私に与えてくれた。 ▼どうしても戦争したかったパパブッシュ この記事によると、イラクがクウェートに侵攻した後、当時のブッシュ大統領(父親の方、以下「パパブッシュ」と呼ぶ)は、イラク軍を平和裏にクウェートから出て行かせることを絶対に避けたいと考えていた。 巨額の軍事費をかけて米軍の大部隊をペルシャ湾岸まで派兵しておきながら、イラク側との和平交渉が成立して戦争に突入せず、イラク軍が無傷でクウェートから出て行くことになったら、パパブッシュ大統領は戦争に勝てなかったことになり、米国内で人気が落ちかねない状況だった。逆に、何とかイラクとの地上戦に持ち込めば、米軍(多国籍軍)は楽勝できるうえ、ベトナム戦争以来のアメリカ国内の反戦気運(ベトナム症候群)を打ち払うことができる、と考えられた。 パパブッシュ大統領は、何としてもイラクと地上戦を戦い、圧勝したかったが、それをマスコミや国民に悟られるのはまずかった。アメリカ政府は「戦争挑発屋」ではなく「平和の使徒」でなければならなかった。「あらゆる手を尽くして戦争を回避しようとしたが、イラク側が好戦的なため、やむを得ず戦争に入った」という物語にする必要があった。ホワイトハウスはイラク問題を外交的に解決するふりをしつつも、外交努力が失敗するように仕掛けていた。ボブ・ウッドワードの本「Shadow」には、1991年1月9日にベーカー国務長官が提示した撤退要求書の受け取りをイラクのタラキ・アジズ外相が拒否したとき、米政府の高官たちはひそかに大喜びした、と指摘されている。 ところが、サウジアラビアに駐留する米軍の司令官たちは、外交で解決できるものをわざわざ戦争に持ち込むと米軍兵士に無用な犠牲を強いるので、反対していた。 米軍が何週間も続けた空爆によって、イラク軍はすでに武器のかなりの部分を失い、総崩れになる可能性が増していた。1991年1月中旬、イラク政府はソ連にアメリカとの仲裁を頼み「クウェートからの撤退を準備している」とソ連に伝えた。当時のソ連のゴルバチョフ書記長は、イラクに6週間の期間を与え、クウェートから撤退させる停戦案をアメリカに提案した。 パパブッシュ政権は、この停戦案を頭から拒否してしまうわけにはいかなかった。彼らは、平和を愛しているふりをしなければならなかったからだ。当時はソ連が崩壊する数カ月前で、ゴルバチョフはソ連を親米に転換させた後の改革政策を進めていた。アメリカは、せっかく親米に転じたゴルバチョフの面子を潰さぬよう配慮する必要があった。 ▼停戦協定を書き換えて開戦を不可避に ホワイトハウスに何とか地上戦を回避する策をとってもらおうと、当時、米軍制服組の最高位である統合参謀本部議長だったパウエルと、その下にいた中央軍司令官のシュワルツコフは、1991年2月21日に、ゴルバチョフの案を修正した停戦案を作った。それは、イラク軍に1週間の期限を与えて無条件撤退させる案だった。撤退完了までの期限をゴルバチョフ案の6週間から1週間に縮めることにより、イラク軍は人員は撤退できても、大型の武器をクウェートからに運び出すことはできないはずで、イラク軍に実質的な被害を与えることができる、という案だった。 だが、パパブッシュ大統領は、どうしても戦争がやりたかった。イラク軍が自主的に撤退する終わり方では「戦勝」にならなかった。 ホワイトハウスの会議に出たパウエルは、大統領が何としても戦争をやりたがっているのをみて、シュワルツコフと作った停戦案に、さらに修正を加えて提案した。それは、イラク軍の撤退完了までの期限を2日以下の短期間に設定することだった。こんな短期間では、人員だけの撤退でも無理である。イラク側は撤退できず、地上戦に突入せざるを得なかった。撤退期間を1週間から2日以下に変更したことで、停戦案は事実上、地上戦を防ぐための案から、地上戦を無理やり行うための案に変身した。パウエルは、米軍兵士の命より、イラクとどうしても戦争したいパパブッシュの政治的策略を重視した。このあたりが、パウエルが「現実派」としてブッシュ家に重宝されるゆえんなのだろう。 以上は、冒頭でアドレスを紹介した「パウエル伝説の裏側:湾岸戦争編」に書いてある筋書きだが、私自身が見るところ、湾岸戦争の際にアメリカ側の岐路となった意思決定のポイントは、地上戦の開始だけではない。 開戦後、イラク軍をどこまで追いかけるかという点について、パパブッシュ政権内のタカ派(チェイニー国防長官ら)は「イラク国内まで入り、フセイン政権を倒すまで戦争を続けるべきだ」と主張したが、その一方で慎重派(パウエル、ベーカー、軍の制服組など)は「イラク軍をクウェートから追い出すだけにして、イラク領内に入って戦うことまではやるべきではない」と主張して対立した結果、慎重派の意見が通った、ということがもう一つのポイントとして存在する。 そこまで目をやると、パウエルは「開戦」では大統領の「どうしても戦争したい」という意志を汲んで自らの提案をタカ派的な内容へと修正する代わりに、その後の「イラク軍をどこまで追うか」という点では、自らがもともと属している慎重派の主張が通るようにした、と考えることができる。 ▼湾岸戦争とイラク戦争を重ねて見ると・・・ こうやって見ていくと、もしかするとアメリカの政権中枢では、湾岸戦争のときと似たような駆け引きが、最近のイラク戦争に至る過程でも繰り返されたのではないか、と思われてくる。まず、ブッシュ大統領が、父親と同様にイラクで「戦勝」する手法で支持率を上げたいと思い、その結果「どうしても戦争したい」という意志を持った、という推論が成り立つ。 また、パパブッシュに対し、戦勝すれば人気取りになり、政権のパワーアップにつながると勧めたタカ派(チェイニー、ウォルフォウィッツら)は、息子のブッシュ政権でも再び政権中枢に入り、イラク戦争の「効用」を説いて再び大統領の心をつかんだ。 一方、父親の政権のときの柔軟な発案力が評価され、息子の政権では昇格して国務長官になったパウエルは、今回も「柔軟さ」を発揮し、慎重派からタカ派に寝返って(もしくはそのふりをして)まで、戦争に至る過程で主導権を握り続け、戦争後のアメリカの外交政策を決定する政権中枢にとどまり続けた、と考えることができる。 湾岸戦争と、今回のイラク戦争とで繰り返されたことは、ほかにもある。「米国民や世界をウソの情報でだまして戦争に持ち込んだ」という点である。このことについては次回に書くことにする。 【続く】
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