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キルクークの悲劇(2)

2003年5月20日   田中 宇

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この記事は「キルクークの悲劇(1)」の続きです。

「この近所だけでも、まだほかにもおかしなことが起きている」と言って、ガイドのラムジが次に連れていってくれたのは、ラザック宅から200メートルほど離れた、住宅街のはずれの空き地だった。はるかにキルクーク油田の炎が見える高台の100メートル四方ぐらいの空き地には、白いチョークで縦横に線が引かれていた。

 ここは変電所のとなりの公有地なのだが、スレイマニヤなどからやってきたクルド人たちが、ここに新しく家を建てようとして、勝手に自分たちの家の敷地を決めるためにチョークで線を引いたのだという。白線は、一つの区画が10メートル四方ぐらいで、それが家1軒分の敷地だった。

 空き地の向こう側にいた人々が私たちに気づき、近づいてきた。私たちが行政か援助関係の組織だと思って近づいてきた人もいて、あっという間に20人近くが私たちを取り巻いた。皆、クルド人だった。

 彼らは、以前キルクークに住んでいたもののアラブ化政策で追い出され、スレイマニヤや、キルクーク周辺の村々に住んでいた人々だった。フセイン政権とともにアラブ化政策も終わったので、再びキルクークに戻り、空き地に家を建てることにしたのだという。中には、すでにキルクーク市内に家を持っているものの、狭くなったのでもう1軒ほしいと考え、この空き地にも家を持つことにした人もいた。

▼1街区おきにクルド人を強制移住させた

 クルド人の中には、アラブ化政策によってキルクークから追い出された人と、そうでない人がいる。クルド人の中でも、PUKやKDPの関係者だった人々、もしくはその嫌疑をかけられた人々、徴兵拒否者のいる家などが追い出された。クルド人の中でも、反乱を起こす懸念が高いと考えられた貧しい人々が主に追い出される一方、中産階級でも石油会社に勤めていた人は、政府が石油産業を掌握する上で懸念があるため追い出された。

 クルド人が密集して住んでいる地域では、街区の一つおきにクルド人を追い出し、空いた家にはアラブ人を住ませるようにして、クルド人とアラブ人が混ざって住む状態が意図的に作り出された。クルド人の挙動をアラブ人に監視させるためだった。

 移住してきたアラブ人の多くは、南部からきたシーア派で、多くは貧しい人々だった。ラムジは「南部のシーア派は、北部のスンニ派(のアラブ人やクルド人)と気質がまったく違う。しかも南部から来た人々はあまりに貧しく、学のない人がほとんどだった。家をもらえて生活も楽になると聞いて、大挙してキルクークにやってきたのだ。彼らはクルド人やアッシリア人から仕事を奪ったものの、きちんと仕事ができる人は少なかった」と言う。彼の言葉には、偏見が混じっているかもしれないとも思われた。

 残った人々も、いろいろな制限を課せられた。たとえば土地や家を買うことを許されていたのはアラブ人だけで、クルド人やアッシリア人などは購入を禁じられていた。そのため、クルド人らが引っ越ししたい場合、アラブ人から家を借りるか、アラブ人の名義を借りて家を買うしかなかった。クルド人やアッシリア人は、アラブ風の名前を強制されたし、いったん徴兵に行った若者は、10年は戻ってこないことが多かったという。

▼クルド人がクルド人を追い出す

 今回のイラク戦争によって、少なくとも20年は続いたこうした不自由さから一気に解放されたクルド人たちは、適当な空き地を見つけるや、急いで家を建て始めた。今後、イラクが安定して新しい秩序が回復したら、勝手に家を建てることなどできなくなってしまう。それまでに家を完成させて住み始めてしまえば、その家が公有地に違法に建てられたものであっても、新政府はそれを認めざるを得ないという考えが根底にあるのではないかと思われた。

 彼らクルド人に「PUKやKDPの許可を得て建てているのか」と聞くと「PUKもKDPも私たちには関係ない。私たちには、ここに住む権利がある。これからできる新しい政府は、われわれの居住権を認めてくれるはずだ」という答えが、群衆の一人から返ってきた。

 先ほどまで、ラザック一家と一緒にクルド人を批判していたガイドのラムジは、今はクルド人と穏やかにうまく話をしている。彼はクルド語も達者で、私の質問をクルド語に訳し、彼らに伝えていた。ラムジが生まれ育ったイラク北部の山岳地帯の村には、クルド人も多く住んでおり、そのためクルド語もできるのだという。他民族国家イラクで少数派として生きるには、アッシリア語、アラビア語、クルド語、英語ができるラムジのように、何種類もの言葉を話し、不必要な敵対はしないのが鉄則なのだろう。

 家の奪い合いは、異なる民族間でのみ行われているものではなかった。私たちの周りに集まってきた群衆の中には、クルド人どうしで家を奪い合っている人がいた。

 フレイドン・アブラヒムというクルド人の若者は「あれが私の家だ」と言って、空き地の近くにある1軒を指さした。その家は彼の父親(故人)が1971年に買ったものだが、1991年に一家は政府の命令でその家を身一つで追い出され、アルビルの近くの町に移住させられた。彼らの家はアラブ人の将校の所有となり、その後さらに別のクルド人一家に転売された。

 今回、フレイドンが12年ぶりにかつての自宅を訪れ、住んでいたクルド人一家に1971年の家の購入証明書を見せて立ち退きを求めると、住人はそれを受け入れ、出て行くことを約束した。ところが、それからしばらく経って再び家を訪れると、今の住人はこの件を裁判所に持ち込んでおり、彼らは立ち退いたものの、その家に誰が住むべきか、裁判所が決定を下すまで、家は空き家の状態で裁判所が管理することになった。

▼繰り返されてきた悲劇

 次に連れていってもらった家も、クルド人がクルド人を追い出したケースだった。この家の主人で75歳になるフセイン・メルザ・アッバスは、キルクークの石油会社に勤めていた。彼は人生で何回も略奪や追放を受けた。最初は1964年、バース党がイラクで政権をとったクーデターの直後で、家にアラブ人がやってきて家を奪われた。その後、1968年に今の家を買った。

 だが1974年、イラクがイランと国交を正常化し、イランからの支援を失ったクルド人勢力がイラク軍に大弾圧されたとき、フセイン・アッバスは石油会社を解雇され、キルクークの家も没収され、スレイマニヤに強制移住させられた。その後、スレイマニヤでも略奪に遭ったうえ、5人いた彼の息子はPUKの軍隊に入り、全員が戦死してしまった。

 それから30年近くが過ぎ、つい10日ほど前に、彼はスレイマニヤからキルクークに戻ってきた。かつての自宅には、クルド人の女性が住んでおり、この家をアラブ人から2300万ディナール(約140万円)で買ったと言ったが、話し合いの結果、家を明け渡すことに同意したという。

 フセイン・アッバスの話からは、クルド人に対する弾圧は1979年にサダム・フセインが最高権力者になってから始まったものではなく、もっと以前からあったものだということが分かる。

▼軍事基地に住む人々

 ラムジの家の近くには、ほかにも空き地があった。そこは墓地のとなりだったが、そこではすでに家の建設が始まっていた。それらの空き地を案内してもらっている間にも、通りがかりの人がラムジに私たちの存在について尋ねてきたり「住む家がないんです」と訴えてきたりした。私たちが、クルド人の窮状を救いに来た外国人ではないかと思い、ラムジに話し掛けてくるのだった。

 私たちが次に向かったのは、市街のはずれにある、かつてのイラク軍の基地だった。入り口のゲートわきにはサダム・フセインの肖像画が、ペンキで汚された状態で立っていた。ゲートは開いていて、誰も管理していなかった。

 基地内の道路の両側にある建物は、すべて4月10日の終戦以降にキルクークに戻ってきたクルド人の諸家族によって占拠され、仮の住まいになっていた。かつてイラク軍幹部が事務所として使っていたとおぼしき2階建ての立派な建物には、4家族が住んでいた。

 そのうちの1家族の夫であるマスード・ラシード・アミンという30歳の若者に話を聞いた。彼らはもともとキルクーク郊外に住んでいたが、1988年のある日、町にイラク軍がやってきて突然家から外に出ろと命じられた。軍隊は、一帯の家々の柱に爆弾を仕掛け、次々にすべてを爆破していった。その後、一緒に住んでいた父親と叔父は、他の成人男性の村人たちと軍に連行されていき、二度と戻ってこなかった。

 残った母子は、別々のトラックに乗せられ、離ればなれになった。息子の方はアルビルに連行されて投げ出され、そこに住むように命じられた。一方、母親はロマディという別の町に連れて行かれた。家財道具も家と一緒に破壊され、着の身着のままだった。

▼アンファル作戦

 彼らが体験した弾圧は、フセイン政権が88年に展開した「アンファル作戦」(Anfal Campaign)の一部だった。この作戦によって、クルド人地域の4000以上の村がイラク軍に壊され、5万人以上が殺されるか行方不明になった。話を聞いたクルド人の人々は、死者の数を「20万人だ」と言っていたが、欧米系の人権団体「Human Right Watch」によると、犠牲者は5万人以上とされている。

 その後、息子と母親が別々に暮らす状態が13年間続き、息子の方は結婚して子供も作ったが、母親とは一度も会うことを許されなかった。4月10日のフセイン政権の崩壊によって行動の自由を得た息子は、4月17日に母親が住むロマディの村に行き、13年ぶりの再開を果たした。その後、一家はキルクークに移動してきたが、かつての自宅はアンファル作戦によって破壊され尽くしていた。かつての軍の駐屯地に空き家があると聞き、4月30日にここにやってきて住み着いたという。

 話を聞いているうちに、となりの別の空き家に住む中年男性がやってきた。彼は1991年までキルクークに住んでいたが、湾岸戦争後のフセイン政権によるクルド人弾圧の一環として自宅を壊され、スレイマニヤの近くの村に追放された。このとき、父親がPUKの支持者という疑いをかけられて連行され、二度と戻ってこなかった。追放先の村では、一杯50ディナール(3円)のお茶を売って暮らしたが、生活は極貧だった。

 このたび12年ぶりにキルクークに戻ってきたが、住む家がないので5月3日にこの軍事基地にやってきたという。彼が住んでいるのは、4月30日に来た若者一家が住んでいる立派な事務所のわきの物置のような建物で、3日間の時間差で家の立派さが変わるあたりが、早いもの勝ちの今のキルクークの家探しを象徴していた。

 軍事基地内には、まばらに平屋や2階建ての建物があったが、他の建物にも全部住人がいた。中には、クルド人に家を追われたアラブ人の一家もいた。すべての建物の壁に、新しい居住者が自分の名前を落書きのようにスプレーで書き、居住権を主張していた。

▼再結集をめざす家族たち

 多くの人々から家を壊され、追放された話を聞き、ガイドのラムジは「私の家の近くでも、町の一つの区画がぜんぶ1日の間に壊されてしまったところがある」と言い、次はその場所に連れていってくれた。そこは市内のアラサットという地区で、500メートル四方ぐらいの広い空き地だった。

 そこには以前350軒ほどの家が立ち並んでいたが、1991年のある日、当局によってブルドーザーなどを使って全部取り壊されてしまった。取り壊しの理由は「ケミカル・アリ」の悪名で知られるイラク北部担当のアリ・ハッサン・アルマジド司令官(フセイン大統領の甥)が、何者かに狙撃されて負傷し、その犯人がこの地区にいるという嫌疑がかけられたからだったが、そもそも狙撃事件があったかどうか怪しい、とラムジは言う。

 その地区に住んでいたのは、ほとんどがクルド人だった。湾岸戦争後、クルド人の反政府運動を鎮圧する作戦の一環として、このような弾圧を行ったというのが本当のところらしい。「私はよくこの空き地を横切るが、ときどき空き地の真ん中へんで、かつてここに家があった人が、ぽつんと座っているのを見かける。私が話し掛けると、ここに住んでいたころの昔を懐かしみ、当時の話をしてくれたりする」とラムジは言う。

 私たちが広大な空き地の前に立っていると、一人の男性がこちらに歩いてきた。聞けば、彼の家はかつてこの空き地にあったという。家を壊された後、住人たちのうち男性はキルクーク郊外の収容施設に移されて当局の監視下での生活を強いられ、女性はキルクークとスレイマニヤの中間にある国道沿いの村に追放された。この話をしてくれた男性自身は、3年間収容所で暮らした後、スレイマニヤに移住させられて8年間を過ごし、最近キルクークに戻ってきたという。

 男性によると、フセイン政権崩壊後、キルクークに新しい暫定市政府ができていることに歩調を合わせ、政府の補助金を得て、この空き地にもう一度かつての住人たちが家を再建し、戻って来ようとする動きが始まっており、彼自身もそれに参加している。350家族のうち、連絡が取れた家族はまだ限られており、かつての隣人たちの安否を確かめることから始めているという。

【続く】



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