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キルクークの悲劇(1)

2003年5月16日   田中 宇

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 イラク北部の中核都市の一つキルクークは、いくつかの役所らしき建物が略奪されていたものの、市内は平穏で、バグダッドに比べて危険がずっと少なかった。米軍は市内を巡回しているものの、バグダッドのように略奪を防ぐために米軍戦車が主要な建物の前に止まっているようなことはない。夜間の外出禁止令も出ておらず、商店街は店の明かりがこうこうとついて賑やかだった。

 フセイン政権は、近くに油田があるキルクークを重視していたが、今回の戦争末期の4月10日、イラク軍は町の近郊に陣取っていた米軍とクルド軍(ペシュメガ)の連合軍との戦いを放棄して町から撤退し、結局戦闘はほとんど行われなかった。

 キルクークは、アラブ人、クルド人、トルクメン人、アッシリア人など、いろいろな民族が混住している町である。フセイン政権の消滅後、これらの各民族がいくつもの集団(政党)を作り、各集団が6人ずつ代表者を出し、暫定的な市議会のようなものを作り、町の運営を引き継いでいる。

▼米軍の貸し切りになるホテル

 5月11日、私たち(私とジャーナリストの常岡浩介さんら)は、スレイマニヤからキルクークに着いた。先日まで閉ざされた国だったイラクに関してはガイドブックが何もないので、キルクークにもどんなホテルがあるか分からない。アラビア語が少しできる常岡さんがタクシーの運転手に「中心街のホテルに行ってください」と言い、連れて行かれたのは、カスル・キルクーク(Qasr Kirkuk)という、比較的大きなホテルだった。バグダッドの最高級ホテルだった「ラシードホテル」(戦後略奪された)と同様、フセイン政権時代を彷彿とさせる社会主義風のロビーが、そのまま残っていた。

 ホテルに入るなり、私たちが行き違ったのは、3人連れの米軍兵士(将校?)たちだった。行き違いざまに、きちんと「Good aftermoon」と声をかけてきた。バグダッドでも、駐留米軍はこちらに話し掛けるときに末尾に「Sir」をつけて礼儀正しくしていたが、これらの態度は心からのものというより、地元民やマスコミに嫌われないためのイメージアップ作戦なのだろう。

 ホテルのフロントで宿泊したい意を告げると、明日からは米軍兵士で一杯になってしまうので、一泊だけだと言われた。聞けば、先ほどすれ違った米軍将校が、約50人分の宿泊を申し込んでいったという。宿泊期間は「今後少なくとも2週間」だそうだ。

 なぜ米軍がホテルに引っ越してくるのか、ホテルの人も知らなかった(現場の米軍は、自らの行動についての質問には、まず答えない)。ホテルの人々によると、それまで米軍は、市街地のはずれにある空港の建物や、市内のイラク軍将校クラブなどを占拠して泊まっていたという。占領が長引くことが確実となり、兵士の待遇改善を図る必要があり、ホテルに引っ越してくることにしたのかもしれない。

 私がキルクークで取材したかったのは、アラブ人とクルド人との関係だった。フセイン政権は、キルクークその他のイラク北部で、もとから住んでいたクルド人らを追い出して代わりにアラブ人を南部から移住させてくる「アラブ化政策」を過去30年間にわたって続けた。フセイン政権の崩壊とともに、追い出されていたクルド人がキルクーク市内に戻り、こんどはアラブ人を追い出そうとしていると報じられている。

 この件に関し、スレイマニヤで話を聞いたクルド人自治組織PUK(クルド愛国連盟)の広報担当者は「アラブ人に対して私的に報復せず、裁判所を通して問題を解決せよ」と配下のクルド人たちに求めていると語っていた。(関連記事

 だが、実際にそうした上からの指示にクルド人たちが従っているのかどうか。 それを知るためにキルクークにやってきた。

▼ガイドはアッシリア人

 ホテルのフロントで、英語のできるガイドを頼んだ。フロントの主任らしき女性と話していると、彼女がキリスト教徒だと分かった。そして、その後やってきた私たちのガイドは、彼女の兄だった。兄はラムジ、妹はセルバという名前だったが、彼らはキリスト教徒だがアラブ人ではなく、アッシリア人だという。

 アッシリア人は、今から2500−4000年ほど前にこの地域にあった古代国家「アッシリア」の遺臣たちの子孫だ。彼らの母語であるアッシリア語は、アラビア語と同じ系統の言葉だが、イスラエルの国語であるヘブライ語にも近く、キリストが話していたアラム語とも重なる言葉だという。古代の人々の末裔といっても、外見は驚くようなものではない。ラムジきょうだいの顔かたちは、他のアラブ人とあまり違いがない。

 ラムジによると、フセイン政権時代にアッシリア人は自分たちのキリスト教会を持つことは許されたが、アッシリア語で教える学校を持つことは禁じられた。そのため、アッシリア語を話せる人は、若い世代ではかなり限られているという。

 また、フセイン政権は、アッシリア人が子供にアッシリア風の名前をつけることを許さず、アラブ系の名前による出生登録しか認めなかった。この政策は、アッシリア人に対してだけでなく、クルド人、トルクメン人など、イラク国内のアラブ人以外の諸民族に対しても同様に行われたという。

 日本は戦前、朝鮮人に対して日本風の名前にするよう事実上強制して「日本人化」する「創氏改名」政策を行い、学校でも日本語で教育を行い、校内での朝鮮語使用を禁じていた。それと同様にフセイン政権も、アラブ人以外の民族を「アラブ人化」する政策を行っていたというわけだ。

 また、アッシリア人やクルド人といったイラク北部の少数民族の団結力を削ぐため、フセイン政権時代には子供が25歳になったら地元から出てバグダッドやその他のイラク南部地方に移住しなければならない、という規定も作っていた。このため、イラク在住のアッシリア人のうち、イラク北部には20万人ほどしかいない一方、バグダッドなど他の地域には50万−100万人程度が住んでいる。

 アッシリア人に対するアラブ側からの弾圧は第一次大戦前後からずっと続いてきた。そのため、アッシリア人の大半は、今やアメリカのシカゴ周辺など海外に住んでいる。ラムジ自身はイラク北部の山岳地帯の村で生まれ、その後キルクークに引っ越してきたが、同じ村の出身者の中には、アメリカに住んでいる人が多いという。

 アッシリア人はキリスト教徒なので、欧米のキリスト教会からの支援や交流があり、そのためラムジ兄弟のように英語が話せる人が多く、教育水準も高く、弾圧を避けて欧米に移住する道も開けていた。

▼立ち退きを迫るクルド人の男たち

 ガイドのラムジが最初に連れていってくれたのは、閑静な住宅街にある、彼の自宅の3軒となりの家だった。その家に住んでいるのは、アッシリア人のアブドル・ラザック(Abdul Razzaq、70歳)の一家で、彼らは1986年にこの家の土地を買ったという。当時、その土地は政府が所有しており、アブドルは政府に金を払って土地を買い、キルクーク市内の別の場所から引っ越してきた。ラザック家の人々は当時建っていた古い家を壊し、今の家を新築して住んだ。

 ところがその土地は、それ以前に、政府があるクルド人一家を立ち退かせて接収したものだった。フセイン政権による「アラブ化政策」によって、クルド人一家はキルクークから追い出され、スレイマニヤに強制的に引っ越しさせられた。

 1991年、イラクが湾岸戦争に破れ、フセイン政権はもうおしまいだと思われていたとき、ある日の深夜、突然ラザックの家を武装したクルド人の男たち数人が訪れ、この土地は自分たちのものだから出ていけ、と迫った。

 男たちはナジュマディン・カラ・ムハンマドという人物を中心とする一族で、この土地にもともと住んでいたと言った。彼らは、自分たちは政府にこの土地を奪われたのだから、その後政府がアブドルに土地を売却した取引も無効だと主張した。このときは結局フセイン政権は崩壊せず、クルド人に対する弾圧は再び強化された。クルド人の男たちは、一回来ただけだった。

 だがその後、今年の4月10日、米軍の侵攻によってフセイン政権が崩壊し、キルクークが米軍とクルド人の連合軍によって「無血開城」した日、武装した数人の同じ男たちが再びラザック家にやってきた。アブドルは、政府からこの土地を買った証明書を見せたが、クルド人たちは納得しなかった。男たちは4月10日、4月15日、5月7日と3回この家を訪れ、立ち退きを迫った。

 アブドルは、戦後創設されたキルクーク市の暫定市議会の、アッシリア人の市議に、この件について相談した。フセイン政権時代の警察官がそのまま勤務している警察署にも行って相談した。彼らは一様にアブドルの主張を記録して「何とかする」と約束したが、何もしてくれなかったという。「強い政府がない以上、こういう問題を解決するのは難しい」とガイドのラムジが言う。

 同席したアブドルの娘は「私たちは、もちろんサダムを支持していない。だが、戦前と今を比べると、今は秩序も法なく、暴力が支配している。サダムの時代の方が安全だったといわざるを得ない」と言った。

 男たちが3回目に来たときは、近所の人々が心配して集まり、男たちと交渉して帰ってもらった。だが、いつまた男たちがやってくるかもしれず、ラザック一家は、暗い表情で私に上記の経緯を話してくれた。スレイマニヤでPUKの広報担当者が語っていた「私的な報復を禁止する」という政策は、ここでは守られていないのだった。

 クルド人たちが武装していることに対し「あなたがたも武装しないのですか」 と尋ねたところ「キリスト教徒は暴力に訴えてはいけないのです」との返事だった。アブドルは元英語教師で、英語がかなり達者だった。

 ラザック一家やラムジ一家が住んでいるこの界隈は、政府による「アラブ化政策」が始まる前は、クルド人とアッシリア人の町だったが、今ではアラブ人も多く住んでいる。ラザック家だけでなく、どこの家に以前住んでいたクルド人が押し掛けてきてもおかしくない状態になっている。

▼レバノン方式の民主主義は成功するか

 今後、キルクークで市議会や市役所ができると、こうした問題が解決されるかといえば、それほど簡単ではないだろう。そもそも、市議会では民族間の対立がそのまま政治対立となり、収拾がつかなくなる恐れがある。

 イラク北部のもう一つの主要都市モスルでは、5月5日に間接選挙方式の市議会選挙が行われた。アメリカは、各民族の人口比に応じて市議会での議席を割り当てる「レバノン方式」の民主主義をイラクで実験し始めており、その最初のケースがモスルだった。モスルでは、アラブ人とクルド人の対立が、キルクークよりも激しく起きたので、その対策が実験選挙だった。キルクークでもいずれ似たような選挙が行われるだろうと報じられている。(関連記事

 モスルでは、米軍が市民の人口比に応じて各民族に議席数を割り当てた上で、200人の市民代表(市民の間で比較的よく知られた人々)が5月5日に投票を行い、全部で18議席の新しい市議会を発足させ、この市議会が合議の結果、新市長を任命した。

 だがこの方式には、クルド人の側から批判が出ている。モスルはキルクークと同様、フセイン政権時代にアラブ化が進められた結果、アラブ人の人口が増えた町である。ところがアメリカは、現在の人口比に沿って、18の全議席のうち10議席をアラブ人に割り当てた。議席の過半数をアラブ人が占めたため、市長にはイラク軍の元将軍が任命されることになった。(関連記事

 こうした事態に対し、クルド人の側からは「アメリカは、人権侵害の政策だったフセイン政権のアラブ化政策を追認している」と批判し、アラブ人に割り当てた議席数を減らすよう求めている。

 モスルの例から考えると、他人の家を奪ってまでキルクーク市内にクルド人が殺到していることは、単なる個人のエゴではなく、クルド人が今後のキルクークでの「民主主義」の戦いでアラブ人など他民族に勝つための「人口復活作戦」であるとも思えてくる。

 今は米軍がにらみを効かせているので、クルド人も批判するだけで実力行使には出ないが、今後イラク国内の事態が安定せず、アメリカがさじを投げるような事態になった場合、内戦に陥る危険性が出てくる。

 そもそも、民族ごとに議席数を固定化する方式がすでに行われているレバノンでは、民主主義は内部では一応機能したものの、イスラエルやシリアなど外部の国々の介入を受け、長い内戦を体験している。イラクが「レバノン化」する懸念については、すでにあちこちで指摘されている。(関連記事

 アブドル・ラザックの家をおいとました後、ガイドのラムジは「この近所だけでも、まだほかにもおかしなことが起きている」と言って、別の場所に私たちを案内してくれた。

【続く】



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