変質するパレスチナ問題2002年4月4日 田中 宇2月下旬、サウジアラビアのアブドラ皇太子がパレスチナ和平に関する新しい提案を行ったとき、エジプトのムバラク大統領は「あんなもの、うまくいくはずがない」といった感じのコメントを発し、冷ややかな対応をした。 サウジ提案は「イスラエルが1967年の第3次中東戦争とその後に占領した地域から完全に撤退したら、アラブ諸国はイスラエルの存在を容認し、平和な外交関係を結んでやる」という内容だった。だが、この提案とほとんど同じものは、1996年にムバラク大統領がアラブ諸国を集めてカイロで主宰した国際会議において、すでに全会一致で決議され、その後イスラエルはこの提案を拒否している。 そのときだけでなくアラブ側は、今まで何回もイスラエルに対して似たような提案を行ってきたが、イスラエルは占領地からの撤退を一貫して拒否している。だからムバラク大統領は「いまさら同じ提案をしても、イスラエルが相手にするはずがない」とコメントしたのだった。(関連記事) ところが、その後の展開は、ムバラクの予想とはかなり違う展開となった。その始まりは、イスラエルがサウジ案を評価する姿勢を見せたことだった。(関連記事) そしてその後、3月末にアラブ諸国がレバノンの首都ベイルートに集まって「アラブ連盟首脳会議」を行い、サウジ提案を「ベイルート宣言」として全会一致で承認する段になると、イスラエルはパレスチナ自治区に対する軍事侵攻を強化し、自治政府の設備を破壊し、アラファト議長を封じ込めて亡命に追い込もうとした。(関連記事) この行動から見る限り、イスラエルは結局サウジ提案を拒否したようにも思える。しかし、これまでの経緯から考えれば、イスラエルが提案を拒否したければ、ただ「提案は受け入れられない」とアラブ側に伝えればいいだけだ。それなのにイスラエルは、アラファトを急いで亡命に追い込もうとした。世界中から非難されると分かっていることを、あえて行わねばならなかった。 なぜ、こんなことをしなければならなかったのだろうか。それは、放っておけばイスラエルは、アラブ提案を無視できなくなってアラファトと交渉しなければならない状況に陥るからであろう。イスラエルが提案を無視できない理由は、サウジ提案がアメリカの意志でもあるからではないかと思われる。 アメリカ政府はサウジ案への支持を表明しているほか、サウジのアブドラ皇太子がニューヨークタイムスのインタビューに答える形で、2月下旬に初めて和平案について語って以来、アメリカのマスコミはサウジ案を大々的に取り上げ続けた。(関連記事) アメリカの大手マスコミは昨年の911テロ事件以来、政治的にデリケートな問題については、政府の意に反する方向の報道をほとんどしなくなっている。そのことから考えると、アメリカ政府がサウジ案を積極的に宣伝したいという意志を持っていることがうかがえる。 サウジアラビアはこれまで、パレスチナ問題の仲介役として表立って積極的な役割を果たしたことがなかった。サウジ王室はアラファト政権に対して過去1年半の間に4億ドルの経済支援をしており、水面下ではパレスチナを支援してきた。だが、外交の表舞台に立つことはなかった。それは、サウジ政府がパレスチナ問題に表立って首を突っ込むと、自国内でパレスチナ支持の強い動きが起き、その勢力がやがてサウジ王室自身に対する批判を始めかねないからだと思われる。 そのサウジが、急に和平提案をし始めたことの背景には、911以降のアメリカとサウジの関係の変化があるように感じられる。911事件では、黒幕扱いされたオサマ・ビンラディンがサウジの王室に最も近い財閥一族の息子であるほか、ハイジャック実行犯とされた19人のうち15人はサウジ人であるとされる。 ところがその一方で、この事件自体はアメリカ当局の「やらせ」であると感じられるふしが、あちこちにある。(拙著「仕掛けられた9・11」参照) サウジは不当に悪者扱いされているか、もしくは米当局がテロ事件を誘発する際にサウジ当局が協力した可能性がある。911事件の発生の裏に、米当局とサウジ当局との水面下のつながりが感じ取れる。(以前の記事「テロをわざと防がなかった大統領」参照) アメリカは、911をめぐってサウジ側がいろいろと協力してくれた見返りとして、サウジがパレスチナ問題を解決してアラブ世界で指導的な立場につけるように考え、その結果出てきたのがサウジ和平案ではないか、と私は推測している。 ▼アメリカでイスラエル・スパイの大摘発? ここで引っかかることがある。「イスラエルはアメリカの同盟国ではなかったのか」という疑問だ。しかし、イスラエルとアメリカの同盟関係も、911以降に変質している。 その象徴は、昨年12月にアメリカのテレビFOXニュースが報じた「米国内のイスラエルのスパイ網を司法省などが取り締まっている」というニュースである。 それによると、アメリカの25社の電話会社から電話料金の計算を請け負い、アメリカの誰がいつどこに電話をしたかという膨大な情報を扱っているイスラエル企業が、この情報をイスラエル当局に流し、イスラエルが米当局や企業の動きを把握するために使っていた可能性があるという。 アメリカのCIAなどの諜報機関が使う盗聴器を作っているのもイスラエル企業で、この会社は盗聴器にこっそり「裏口」を作り、米当局が盗聴した情報をイスラエル当局が再盗聴していた可能性があり、米当局は911以降、これらの企業の関係者を含む約60人の在米イスラエル人を、新法である「愛国者法」(反テロ法)違反などの容疑で逮捕した。 また、アメリカで美術を勉強していると称するイスラエル人がFBIの秘密の事務所を含む米当局の各地の役所を訪れ、絵を買ってほしいと頼んで回っていたが、当局者が彼らの動きを怪しんで逮捕、尋問したところ、美術学生というのは見せかけの姿で、実はイスラエル軍で諜報活動の訓練を受けた諜報部員であることが判明したという。 イスラエルはフロリダやカリフォルニアでスパイ網を使って911実行犯たちの動きを事前に調べ、テロ事件の発生を予測していたふしがあるが、米当局に対してテロの危険性を十分に伝えなかった、とFOXは報じている。(米当局自体が911を誘発したとしたら、この言いがかりは茶番だが) イスラエルは、軍備の大半をアメリカから受け取っているほか、アメリカの経済支援も巨額である。軍事、経済そして外交面でのアメリカの支援がなければ、イスラエルの存続は難しくなる。だからイスラエルにとって、本当のところアメリカで何が起きているかを知ることは、国家の存亡にかかわる大事なことだといえる。 クリントン時代には、イスラエルの在米スパイ網に対する摘発はほとんど行われず、野放し状態だった。(CIAや米軍が共和党の影響下にある組織なので、民主党のクリントン政権は諜報機関の問題に首を突っ込みたがらなかった。もしすかるとクリントン政権は、イスラエルのスパイ網からCIAなど国内諜報機関の動きに関する情報を「逆輸入」していたかもしれない) だが共和党のブッシュ政権は、2000年1月の就任当初からイスラエルのスパイ網摘発に乗り出し、911の前にすでに140人を逮捕・国外追放していたという。米当局は、こうしたスパイ摘発について全面否定しており、FOXのニュース・スクリプトはいったんFOXのウェブサイトに掲載されたが、すぐに削除されている。(外部の人がコピーして残しておいたものがある) だが軍事専門誌「ジェーンズ」は、スパイ網摘発は事実だと報じており「アメリカでこれほど大きなイスラエルスパイの摘発が行われているのに、FOX以外のアメリカのマスコミがこれをまったく報じないのはおかしなことだ」と書いている。(関連記事) また911以降、言論統制がきつくなったアメリカのマスコミに代わり、テロ戦争の裏側にある事実を果敢に報じるようになったル・モンドなどフランスのメディアも、アメリカのスパイ網摘発を事実として報じている。 ▼今後の中東の中心はサウジアラビアか 米当局によるイスラエルスパイ網摘発が事実だと仮定し、アメリカとサウジアラビアとの関係の変化を加味して考えると、ブッシュ政権のアメリカは、前任者がやったようなイスラエルを使って中東を動かすことをやめ、代わりにサウジアラビアを使い始めた、とも思える。 とはいえ、もともと第二次大戦後にイスラエルが建国された背景には、イギリスが中東を支配するため、アラブ諸国が一つに団結して西欧の言うことを聞かなくなる状態を防ぐという意図が感じられる。戦後、中東支配力がイギリスからアメリカに移っても、イスラエルの存在がアラブ諸国を分断・弱体化させ、その結果アラブ諸国の多くが親米の立場をとらざるを得ない状況を生んでいることは変わりない。 だからアメリカにとっては、イスラエルという国は今後も必要であるはずだ。だが、フランスなど西欧諸国の一部はすでに「パレスチナ問題を解決できないなら、イスラエル国家の主権を侵害してもかまわない」と考え始めているふしがある。 イスラエルが、ヨルダン川西岸の中核都市ラマラにあるアラファトの議長府を戦車で包囲し、アラファトを軟禁状態にし始めたのは昨年12月のことだ。アラファトの軟禁は、それ以来3カ月以上続いている。イスラエルは「アラファトはパレスチナ・ゲリラによるテロ活動を支援しているから、アラファトを攻撃することは、アメリカのテロ撲滅作戦に協力していることになる」という理屈で攻撃を始めたのだが、その開始時期はちょうどアメリカでのイスラエルスパイ網摘発が表面化した時期とほぼ一致している。 イスラエルは、アラファトをパレスチナから追放できたら、もっとイスラエルに協力する姿勢をとりそうな小粒なパレスチナ人指導者たちを何人か選び、彼らと交渉するかたちにしつつ、彼らの間で分裂が起こるよう「アメとムチ」を使い分け、パレスチナ人との交渉をイスラエルに有利な形で終結させたいのだろう。 1993年から2000年秋まで、パレスチナでは「オスロ合意」に基づくパレスチナ国家の建設に向けた準備が進んでいた。2000年秋に生まれたイスラエルのシャロン政権は、パレスチナ国家が作られてもパレスチナ人はイスラエルに対する憎悪と攻撃をやめず、パレスチナ人に国家を与えることはイスラエルが一方的に譲歩することにしかならない、という考え方を採り、オスロ合意体制を終わりにしようとしている。 その具体的な行動が、イスラエル軍によるパレスチナ自治政府の建物をすべて破壊することであり、アラファトを追放することだったが、物事はシャロンの思うとおりには運んでいない。パレスチナ人の多くは「今の苦境を乗り切れば、パレスチナ国家は実現される。今が最後の戦いだ」と考えているという。イスラエルに「全面撤退」を求めるサウジ案をアメリカが支持していることを考えれば、パレスチナ人の楽観的な読みが当たっている可能性もある。追いつめられているのはアラファトではなく、シャロンの方なのかもしれない。 もう一つの動きとして注目すべきは、アラブ諸国の中で、中東和平交渉の中心がサウジアラビアに移るとともに、これまで中東和平交渉の中心だったエジプトのムバラク大統領が外され始めていることである。(関連記事) エジプト政府は、1979年に他のアラブ諸国の反対を押し切ってイスラエルと真っ先に和解し、それ以来アメリカのお先棒を担ぐかたちで中東和平の仲介役を自認してきた。ムバラクは3月始めに訪米し、シャロンとアラファトとが会談することをブッシュに提案した。ところが、アメリカはこれに賛同しなかったらしく、提案はすぐにイスラエル側に拒絶されることになった。アメリカのお墨付きがない和平案では、イスラエルを動かせないのである。(関連記事)
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