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ネパール王家殺害事件の衝撃

2001年6月24日   田中 宇

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 ヒマラヤ山脈の懐に抱かれた王国ネパールでは、「ヴィクラム暦」という、太陽暦と太陰暦を組み合わせた独自のカレンダーが使われている。世界標準の太陽暦も使われているものの、国の公式な暦はヴィクラム暦で、役所はすべてこの暦で動いている。この暦では今年は2058年で、4月14日に新年が始まった。

 ネパールの国王の一族は毎月一回、ヴィクラム暦の第3金曜日に、家族が集まって食事をともにする内輪の会合を開いてきた。さる6月1日が、第2の月の第3金曜日にあたっており、国王や王妃ら24人の王族が夕方からカトマンズの王宮に集まり、歓談が始まった。

 ところが、国王一家の親睦を深めるはずのこの会合の場は、王家を破滅させる場と化した。会合が宴たけなわとなった午後8時すぎ、会場で機関銃が乱射され、ビレンドラ国王やアイスワルジェ王妃を含む、10人以上の王族が殺害されてしまった。

 この事件がネパール国民に大きな衝撃を与えたのは、国王と王妃が国民の間で人気が高かったことに加え、機関銃を乱射したのが誰なのか、国民が納得できる説明がなされなかった点にあった。

 政府が公式な説明となる報告書を発表したのは、事件から2週間たった6月15日のことだった。政府の発表がないまま、事件発生から3日ほどの間に、乱射事現場に居合わせたが生き残った王族や王宮関係者が、何種類かの食い違う説明をして、混乱に拍車をかけた。

▼皇太子は背中から銃弾を受けて「自殺」した?

 そのひとつは、撃たれた国王らを陸軍病院に運んだ軍医が開いた記者会見で「国王の息子であるディペンドラ皇太子が機関銃を乱射した」と発表された。ディペンドラ皇太子は、国王(父親)と王妃(母親)、兄弟姉妹らを次々と殺害し、最後は自殺したという筋書きだった。この発表は、政府の許可を受けずに行われた。

 また王妃の兄弟が、マスコミのインタビューに対して「皇太子は、つき合っていた恋人との結婚を許してくれるよう母親(王妃)に頼んだが、許されなかったため、逆上して機関銃を持ち出した」と述べた。

 皇太子の恋人は政治家の娘で、その一族は、王妃の家系の一族とライバル関係にあり、そうした政治対立が、この王妃の兄弟の発言の裏にあったと報じられた。(事件直前に皇太子の結婚についての会話はなかったとする発言も別の筋から出た)

 ディペンドラ皇太子は、瀕死状態で病院に運ばれ、3日後に死亡した。ビレンドラ国王はほぼ即死だったため、皇太子は意識不明のまま即位し、2日間だけ王位にあった。その後は、ビレンドラ国王の弟であるギャネンドラが国王となった。ギャネンドラは事件当日、地方に出かけていたため、事件に巻き込まれなかった。

 ディペンドラ皇太子が殺害犯だとする説は、多くの人々には信じられなかった。国王や王妃と並び、皇太子も国民から愛されており、その皇太子が愛すべき父母を殺し、兄弟姉妹や従兄弟らを皆殺しにして、最後に自分も自殺するなど、あり得ないことだった。

 唯一の射撃者で、しかも自殺を図ったとされる皇太子が、背中から銃弾を受けており、ディペンドラ犯人説は間違いだと報じる新聞もあった。とはいえ、こうした報道も、真偽は定かではない。事件後、カトマンズではさまざまな噂が飛び交った。政府の公式発表がない中で、インドや欧米など外国メディアを含む内外マスコミの報道は、政治的な思惑をはらんだ関係者の証言にくわえて、未確認情報を含むニュースを報じたため、混乱が続いた。

▼前国王と対照的に人気がない新国王

 一方、地方に出かけて無事だった国王の弟ギャネンドラは、カトマンズに戻った後「事件は銃の暴発によって起きた」と発表した。ディペンドラ犯人説に対する国民感情を考えた発言だったのかもしれないが、これを聞いた人々は「銃の暴発で10人以上の人々が死ぬはずがない」と考え、発言を信用せず逆に怒った。国王や王妃らの葬儀が行われた後、王宮の周辺などに群衆が集まって騒乱状態となった。カトマンズは緊張に包まれ、政府は夜間外出禁止令を出した。

 新国王となったギャネンドラは、兄の前国王ビレンドラへの人気が高かったのと対照的に、国民にあまり人気がない。前国王は、1990年から政治の民主化を進め、野党に自由な活動を許し、報道の自由を認めた。しかし、それによって政治家の腐敗が明らかになるとともに、政争が激しくなって、10年間に9つの政権が相次いで興亡する状態が続いた。農村では毛沢東思想を掲げる左翼ゲリラの活動も活発になっている。新国王は、以前からこうした民主化のマイナス面を批判してきた。

 新国王にはパラスという息子がいるが、彼もまた、前国王の息子ディペンドラの人気とは対照的に、不人気だ。パラスは昨年、人気ミュージシャンを自動車でひき殺し、その罪を他人になすりつけた疑いがあると報じられている。このひき逃げ事件に関しては、真相を調べる政府の組織が作られたが、調査結果は発表されていない。

 パラスは事件当日、王宮の会合に参加したが、無傷で生き延びた数少ない王族の一人である。父の新国王は当日不在、その息子は無傷だったため、この親子にあまり良い感情を持っていない人々は「銃を乱射したのはパラスで、父親も関与していたのではないか」と考えた。

 事件から2週間たった6月15日、政府の調査委員会による調査報告書が発表された。「ディペンドラ皇太子は当日、酒と麻薬を服用して酩酊状態になり、その後、軍服に着替えて機関銃を抱え、父母の前に現れて殺害した」という内容だった。

 報告書は、犯行の動機や、なぜ王族だけが殺されて宮廷職員や警備の兵隊などは無傷だったのかといった疑問には答えておらず、国民を納得させるのは難しい内容だった。しかし、報告書の発表後、大きな抗議行動などは起きていない。事件直後のショックが人々の間で消化されたからかもしれない。

▼これから始まる数々の難問

 しかし、問題はこれで終わったわけではない。そのひとつは、国民の王家に対する愛着が失われた可能性があることだ。事件後、毛沢東主義のゲリラ組織の指導者が「軍は新国王に反旗をひるがえすべきだ」とクーデターをあおる文章を書き、それを「カンチプール」という大手新聞が掲載したところ、政府はこの新聞社の編集長や幹部ら3人を国家反逆罪容疑で逮捕してしまった。(数日後に保釈した)

 逮捕は、表向きは政府による決定だが、実際の決定を下したのは、ギャネンドラ新国王であるとされる。ネパールでは民主化が始まってからの10年間、マスコミに対するこの手の弾圧は全くなかったため、逮捕は関係者に衝撃を与えており、自由な報道の時代が前国王とともに終わる可能性もある。新国王になってから、野党の自由な活動を制限する治安維持の規定も強化された。

(国民の間には、報道の自由という名目で新聞が誤報を垂れ流しているという批判もあるが)

 また毛沢東主義ゲリラの活動も、政府にとって今後の懸念だ。ネパールは、世界で10指に入る最貧国の一つである。政府の農村政策が上手くいかず、前国王が強硬なゲリラ弾圧策を好まなかったため、国土の3分の1にあたる地域は、ゲリラ組織が運営する「自治村」となっている。そこでは中央政府の管理は及ばず、徴税から裁判まで反政府ゲリラが行っている。

 一方、カトマンズの中央政府では、首相のコイララ氏が航空会社への航空機リースに絡んで賄賂を受け取ったとする汚職疑惑が持ち上がっており、政府に対する国民の支持は低い。今後、政府と王室に対する人々の信頼が回復しない場合、代わって共産党系の野党やゲリラ組織が力を持つようになる可能性もある。新国王が、ゲリラや野党に対する弾圧を強化して失敗した場合、国内の混乱はさらに大きくなる。

 ネパールはインドと中国という、アジアの2大ライバル大国にはさまれている。ネパールはヒンドゥ教徒が主体の国なので、中国よりインドと近い関係にある。ネパール人はインドに行く際にパスポートが必要ないし、インドでの就労が広く認められている。しかし、今後ネパールで共産主義勢力が強くなると、北隣の中国からの影響力が強まることになる。

 最近書いた記事「アメリカが描く第2冷戦」などでも紹介したように、アメリカは最近、中国を最大の敵に仕立てる戦略をとり、中国と敵対するインドに接近している。そんな中でネパールがインド側から中国側に転ぶことは、ネパール国内の問題だけでなく、アジア広域の政治の不安定化につながりかねない。アメリカ政府は、ネパールの新国王が報道の自由を制限したことをいったん批判したが、王制を不安定にして共産主義勢力が拡大することの方を恐れ、その後は沈黙している。



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