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北朝鮮の人々を救いそうもない南北和解

2000年11月16日   田中 宇

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 宿敵だった韓国と北朝鮮の指導者どうしが固い握手を交わし、アメリカの大統領も訪朝を検討して国務長官をピョンヤンに派遣する・・・。こうした最近の情勢から、南北朝鮮の統一が近いと感じた人も多いだろう。

 だが、冷戦の終結から、金正日総書記が外交の舞台に登場してくるまでの10年間の北朝鮮の歴史的な経緯をふまえて考えると、南北朝鮮は統一に向かっているのではなく、逆に統一が遠のいて分断が固定化し、北朝鮮の一般の人々の苦しみは増すばかりであることが見えてくる。

▼管理がきつすぎて経済自由化に失敗した金日成

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は1948年に社会主義の国家として創立されて以来、ソ連からの物資と技術の支援に頼って運営されてきた。独裁型の最高指導者だった金日成主席自身も事実上、ソ連から任命されて地位を得た人である。そのため1990年にソ連が崩壊し、支援が打ち切られると、北朝鮮は存亡の危機に陥った。

 これに対して金日成は、隣の中国を手本に市場経済を導入しようとした。日本や韓国の企業に投資を呼びかけ、日本からは在日朝鮮人の中小企などが製造業や鉱業などの事業を展開し始めた。90年には自民党の影の権力者だった金丸信が訪朝し、日本が戦後補償の名目で産業基盤整備のための資金を出して進出した日本企業を支える構想も浮上した。

 だが、北朝鮮はあまりに硬直した管理社会だった。外国人に対する猜疑心も強く、まともな企業運営ができる環境ではなかった。従業員の自由な採用ができず、海外から運んだ原材料や輸出を待つ製品は港で何日も止められた。「統制配給社会」である北朝鮮には、企業が作った製品を売る市場もない上、輸出で利益を出そうとすると、その大部分を北朝鮮側に分配させられた。

 こんな状況なので多くの企業が撤退した。北朝鮮に親戚がいて愛国的な立場をとらざるを得ない在日朝鮮人は、ビジネスとしてではなく「祖国に対する寄付」として工場を運営することに追い込まれた。(私は1990年に関西の在日企業の北朝鮮投資につい取材し、何人かの経営者からこのことを聞いた)

 金日成は1970年代までの権力闘争でライバルを排除して強固な個人崇拝体制を作っており、北朝鮮は中国よりはるかに自由度や多様性が低かった。国内の自由度を高めれば、経済に限定したものであったとしても体制崩壊につながりかねず、経済だけ自由化して政治の自由化を遅らせた中国と同じことはできなかった。

 ソ連ではゴルバチョフが体制を急に自由化しようとして国を崩壊させてしまったが、それは金日成には他人事ではなく、彼は自国を自由化する危険を痛感していただろう。企業進出がうまくいかないことが一因となり、日朝交渉も92年に決裂した。日朝交渉はその後も断続的に続いているが、一進一退の状況となっている。

▼中国が理由で宥和策をとったアメリカ

 北朝鮮はその後、失業して犯罪に手を染める人のように、裏社会の経済活動に専念した。核兵器やミサイルなどを開発し、それをやめろと怒る日本や韓国、アメリカにお金をせびる外交を始めた。麻薬や覚せい剤取引の仲介や偽札作り、税関検査が免除される外交官による密輸品運搬などの経済犯罪も行い、東欧や東南アジアなど北朝鮮の外交官が検挙されたり、批判されるようになった。

 アメリカは、自国に敵対してくる勢力と徹底的に戦う傾向が強いが、北朝鮮とは正面から戦わず、むしろ懐柔策をとった。その理由の一つは、北朝鮮が中国と韓国の間に位置する国だという地理的な要因にある。

 韓国に軍隊を駐留させているアメリカは、北朝鮮が崩壊したら中国と直接軍事的に向き合わねばならなくなるが、それは東アジア情勢の不安定化を意味する。変化しつつある中国に対し、敵対と友好の両面を保ちながら様子をみるのがアメリカのアジア政策の基本であり、そこから北朝鮮への宥和策が導き出された。

 変化の最中にあった1994年、強大な権力を握っていた金日成が死去し、北朝鮮内部の政情が不安定になった。金日成から金正日への権力の世襲は社会主義国として異例であり、政権内部には反発もあった(北朝鮮権力内の動向はほとんど明らかでないが、そう考えるのが妥当だろう)。

 金正日は父親の死に対する服喪期間を3年間も設けて内政・外交の両面で自国の動きを止め、内部の反乱と、外国からの介入を防いで政権を掌握した。日本のメディアでは「服喪期間が長いのは親孝行を大切にする朝鮮の伝統だ」という解説もあったが、そんな単純なものではないだろう。

▼服喪期間に強化された「ゆすりたかり外交」

 服喪期間の最中も、アメリカが「ゆすりたかり外交」などと呼ぶ北朝鮮の外交戦略は続けられ、アメリカは宥和政策で対応した。金日成の死と前後して、北朝鮮が原子炉を使って核兵器を作っている疑惑が持ち上がると、アメリカは「核兵器開発を中止したら、もっと良い原子力発電所を作ってやる」と北朝鮮に持ち掛けた。

 この戦略には、経済が弱っている北朝鮮を、援助に依存せざるを得ない体質にして、核兵器開発などの問題行為を再開したら援助を打ち切ると脅せるようにする意図もあった。

 だが、指導者に対する絶対服従の国である北朝鮮には、政府に圧力をかけられる主権を持った「国民」が存在しない。人々はいくら困窮しても、結束して反政府活動を起こさない。指導者も人々を無視した国家運営ができる。そのため宥和策は金正日のたかり外交を強化することにしかならなかった。

 北朝鮮は、原発が完成するまで石油を無料で受け取れる約束をアメリカから引き出した上、原発の建設を進ませないようにする妨害工作を行った。(以前の記事「金正日のしたたかな外交」を参照)

 1995年からは北朝鮮北部で水害が毎年のように起こり、飢餓が発生した。普通の国なら政府が農業政策の失敗を国民や野党、マスコミから非難されるが、国民も野党も自由なマスコミもない北朝鮮では、そんな動きは全くなかった。むしろ北朝鮮政府が外国に「水害援助」として金を要求できる格好の口実となった。

 日本や欧米の市民たちが善意で水害支援金を出したが、北朝鮮当局に渡された援助物資が、困窮している一般の人々にきちんと渡されたかどうか、かなり怪しい。北朝鮮当局は、援助物資の流通を末端まで監督したいという支援国(日韓欧米)の要求を拒み続けている。拒まれても支援国が強硬な姿勢をとらない背景にも「北朝鮮は崩壊させない方が良い」というアメリカ主導の宥和策が見え隠れしている。

▼早期統一から分断維持に変わった韓国

 父親の死後、97年まで服喪期間を使って権力の掌握を終えた金正日は、98年から99年にかけて「ゆすりたかり外交」の強化を図った。それが、金大中やオルブライトの訪朝につながる金正日の外交舞台への登場である。

 94年に金日成が死ぬ直前、北朝鮮と韓国は指導者の相互訪問を計画し、韓国の金泳三大統領が平壌を訪問する日取りまで決まっていたが、金日成の不測の死によって計画がつぶれた経緯がある。金正日の外交舞台への登場は、その政策の再開であったが、94年より今回の方が北朝鮮に有利な状況がいくつかあった。

 その一つは、ソ連崩壊後に自由経済を導入したロシア東欧諸国の苦境である。94年ごろはまだ、自由経済が定着すれば社会主義時代よりも豊かな国になると考えられていたが、97年の金融危機でロシアなどの経済が崩壊した後、旧社会主義国が豊かになるのはかなり難しいという認識が、政府関係者や専門家の間で共有されるようになった。北朝鮮も急いで自由経済に移行させれば混乱するだけだということになり「金正日が国際社会に参加したいと言うなら助けてやろう」という気運につながった。

 また韓国にとっては、東西ドイツの統一が西ドイツにとって意外に負担の重いものになったことが最近明確になり、大きな影響を与えている。韓国経済は97年のアジア金融危機から完全に立ち直っておらず、極貧にあえぐ北朝鮮が崩壊しても救い切れない状況となっている。

 韓国は97年の経済危機まで経済の調子がおおむね良かったため、当時の金泳三大統領は、北朝鮮を崩壊させて吸収するドイツ型の統一をめざし、北朝鮮を追い詰める攻撃的な政策をとった。

 だが、経済危機後に就任した金大中大統領は、むしろ分断国家の現状を維持しつつ南北間の緊張を解き、金正日体制を生かしたまま北朝鮮に経済改革を進めてもらおうと考えた。その方が韓国にとってコストがかからないからである。これが金大中の「太陽政策」である。

 この政策はアメリカの北朝鮮宥和政策との矛盾が少ないし、北朝鮮の政権を維持できる点で金正日の「ゆすりたかり戦略」とも共有できる部分があった。北朝鮮と国境を接し、飢餓から逃れたい北朝鮮難民の流入にてこずる中国にとっても、日韓やアメリカから北朝鮮への経済支援は歓迎した。そのため99年中に水面下の交渉が矢継ぎ早に進み、金大中やオルブライトの「歴史的訪朝」までこぎつけた。

▼南北和平から抜け落ちている北朝鮮の一般の人々

 だが皮肉なことに、米韓と北朝鮮では緊張緩和という結論だけは同じだが、意図するところは正反対である。米韓は北朝鮮に時間を与え、自由経済と民主主義の体制にゆっくり移行して「普通の国」になってもらおうと考えている。だが金正日は、国際社会の常識からかけ離れた独裁体制を維持するために緊張緩和を利用している。

 北朝鮮に自由経済を導入したら体制が崩壊するという状態は、90年前後に金日成が日韓の企業を誘致して失敗したときから変わっていない。6月の南北首脳会談で、朝鮮戦争によって南北に離散した家族たちの再会を実現することが合意されたが、数百万人以上いるとされる南北離散家族のうち、200家族の再会が行われただけで止まっている。

 このような結果になるのは、北朝鮮では一般の国民に国外の現状を知らせることすら、体制の危機につながるとして許していないからである。これでは日米韓が北朝鮮を支援しても、自由経済や民主主義は育たない。もし金正日が自国の自由経済や民主主義を育てようと本気で思っているのなら、こんな対応はしないはずだ。これまでの北朝鮮の行動をみれば、金正日が今後ゆっくりと自由化を実施するだろうと考えるのは現実的でない。

 とはいえ韓国や中国の政府にとっては、それでもいいのかもしれない。北朝鮮は受け取った支援金を使って巨大な軍隊を維持している可能性が大きいが、北朝鮮軍が無力になったら、何百万人という難民が中国と韓国に押し寄せるだろう。大きな人権問題になるので韓国や中国の隊軍が発砲して追い返すわけにはいかない。頼みの綱は北朝鮮軍であり、難民流入を恐れる中韓の政府にとって、北朝鮮への人道支援が軍隊に横流しされることは、むしろ好ましいことかもしれないのである。

 金大中がノーベル平和賞をもらうことになった南北首脳会談は、北朝鮮の一般の人々にとっては平和をもたらすどころか、逆に飢えと不幸を固定化した面がある。韓国では金正日に対して譲歩しすぎているとして、金大中大統領に対する国民の支持が低下している。

 オルブライト訪朝の後、クリントン大統領が訪朝する構想が取りざたされている。オルブライトは訪朝の際、金正日にミサイル開発の中止を求め「受け入れるならクリントン大統領が訪朝するだろう」とほのめかした。アメリカの大統領が平壌を訪れて金正日と握手を交わす映像が世界に流れれば、金正日の国際的な信用が上がり、北朝鮮への支援も増える。それを見越したアメリカの提案だった。

 金正日は前向きな返答をしたようで、実際にミサイル開発の中止がアメリカ側に確認できれば、来年1月の任期切れまで間がないクリントンが「朝鮮半島の平和構築に貢献した人」として賞賛されることを狙い、急いで訪朝する可能性もある。だがそれもまた、北朝鮮の一般の人々の生活を向上させることにはつながらないだろう。



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