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アメリカのエリートと機械人間

2000年10月1日   田中 宇

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 この記事は「知のディズニーランド、ハーバード大学」の続きです。

 アメリカは自家用車がないと生活ができない「車社会」のイメージがあるが、私たちをハーバード大学に招いたニーマン財団の人は「なるべく車は持たない方が良い」とアドバイスした。そして、大学まで歩いて通える場所のアパートを斡旋してくれた。

 ハーバード大学の周辺は、駐車場がとても少ない。私たちはアドバイスに従って車を持たないことにしたが、あるときレンタカーを借りる必要があり、夜10時ごろ自宅の近くに路上駐車しようとしたところ、道端はすべて路上駐車で埋まっていた。家からかなり離れたところにようやく1台分のスペースを見つけるまでに、15分ほど探さねばならなかった。月極め駐車場は8千円ぐらいで、アメリカでは破格の高さだと聞いた。

 ハーバード周辺は、家賃もべらぼうに高い。東京の山の手線の内側と同じぐらいだろう。アメリカの水準ではたいして広くない、日本風にいえば「北向きの3DK」のアパートの家賃が22万円もする。ワンルームで11万円のところに住んでいる人もいた。ここ数年アメリカは景気が良いので、家賃は毎年上がっているという。(私は財団紹介のアパートなので比較的安く、2DKで12万円)

 学生が大学内を案内してくれる無料の観光ツアーが毎日あるが、それに参加したときに、なぜハーバードは家賃が高く駐車場も足りないのか、その一因が分かった。学内に点在する建物のうちいくつかは学生のための寮で、「あそこの寮ではケネディ大統領が、こちらの寮ではルーズベルト大統領が新入生時代に住んでいた部屋がある」というような解説を聞き、大統領候補のアル・ゴアや、マイクロソフトのビル・ゲイツが住んだ寮を見た。

 高校を卒業してハーバードにくる新入生は全員、学内に点在する寮に住むことになっている。これはエリート教育の一環で、学生どうし、あるいは教官と学生が同じ場所で生活することで、アメリカの上層部を占めるエリートにふさわしい意識が形成され、エリートどうしで生涯続く親しい関係が作られる。寮の多くはエリート養成の場にふさわしく、芝生に囲まれたおしゃれなレンガ造りで、中庭では木もれ日の中を野生のリスが走りまわる好環境である。

 もともと大学を示す「カレッジ」(college)という英語は、教官と学生たちが同じ建物に住みながら勉強する場所を示していたそうだ。この伝統の上にのっとり、大学院生や研究員、教官も大学の近くに住む人が多い結果、家賃が異常に高くなり、駐車場が足りなくなるのだろう。その反面、皆が近くに住んでいるため週末のパーティーも開きやすく、そこで研究者どうしの交流が行われ、研究の「タコ壺化」を防いでいる。

▼機械より人にやらせた方が安い

 自家用車がないため、ダウンタウン(ボストンの中心街)などに行くには地下鉄を使うことになる。大学の前には「ハーバードスクエア」という地下鉄の駅がある。ボストンは近郊都市を含めた人口が約300万人で、都市の規模でいうと名古屋の大都市圏よりやや小さいぐらいだろう。ボストンには4つの地下鉄路線があり、その一つである「赤線」(レッドライン)でダウンタウンから5つ目がハーバードスクエアだ。

 ハーバードスクエア駅には切符(専用コイン)の自動販売機がある。だが、これは例外だ。もっと乗降客が少ない他のほとんどの駅には自動販売機はなく、改札口の横のブースに駅員が座り、切符を売っている。しかも自動販売機は性能が単純で、1ドル札を入れたら1枚、5ドル札を入れたら5枚の切符が出てくるだけで、5ドル札で1枚だけ買うことができない。

 お金を扱う機械の性能の低さは、銀行でも感じた。ATM(現金自動預け払い機)は、お客が入金したお札の枚数を自動的に数える機能を持っていなかった。お金を口座に入れようとするときは、お札を専用の封筒に入れて入金口から差し込むとともに、いくら入金したか、自分で打ち込んで申告するようになっている。申告額と実際の入金額が同じかどうか、1日の終わりに行員が手作業で調べ、食い違っている分については「実際の入金額は○○ドルでした」という手紙を口座名義人に送るのだそうだ。

 なぜ日本並みの高性能な機械を使わないのだろう。機械でなく従業員にやらせたら、人件費が高くなってしまうではないか。アメリカほどのハイテク国が、お札を数える機械を作れないはずがないのに・・・。最初はそんな風に感じたが、よく考えると、このことには別の意味があるように思えてきた。性能の良い高価な機械を入れないのは、従業員にやらせた方が安いからではないか、ということだ。

 日本はこれまで終身雇用が前提だったので、従業員を一人雇うにも、生涯賃金や福利厚生、退職金のことまで考える必要がある。だがアメリカの経営者は、要らなくなった従業員を解雇できる。移民がどんどん入ってくるので、単純労働の賃金も安い。そのため、日本では機械で自動化した方が良い作業でも、アメリカでは手作業で行うのではないかと考えた。

▼日本の地下鉄は皆が乗るのに大赤字

 日本で機械がやっていることを、アメリカでは人間がやっているのなら、アメリカの地下鉄の従業員は、日本よりもずっと多いのか?。ボストンと都市の規模が似ていると思われる名古屋の地下鉄を例に選び、ウェブサイトを事業内容を調べ、おおざっぱに比較してみると、意外なことがいくつか分かった。

  ボストン名古屋  
営業キロ数90キロ80キロ  
従業員数6500人5700人(バス部門を含む)
1日の乗降客70万人160万人  
運賃約110円200−320円  
年間収入200億円1150億円(バス事業を含む)
年間費用550億円1380億円(バス事業を含む)
赤字額350億円230億円(バス事業を含む)

 アメリカの公共交通は赤字に悩んでいる。自家用車の方が便利なので、多くの人は地下鉄やバスに乗らないからだ。ボストンの地下鉄も先日、運賃(全線均一)を85セントから1ドルに値上げし、赤字を減らそうとしている。だが、低所得者でも楽に乗れる料金を維持するため、これ以上の値上げは難しい。

 一方、日本は道路混雑が激しいのでマイカー通勤は敬遠され、道路が良く整備されている名古屋でさえ、ボストンの2倍以上の人々が地下鉄に乗ってくれる。だが、たくさんの人が乗ると料金は安くできるはずなのに、運賃はボストンの2−3倍もする。しかも、それだけの運賃をとっても、まだ大赤字である。なぜなのか。

 名古屋の地下鉄でかかっている費用の6割近くは、設備関係にかかるお金だそうで、その部分を見ると、人が切符を売っているアメリカと、自動販売機がずらりと並ぶ日本の違いを感じる。だが、その分だけ従業員がアメリカより少ないわけではない。

 ボストンの地下鉄は車両が古いし、駅の照明も暗くて殺風景だ。日本の地下鉄はこれに比べたらまるでピカピカだ。駅員は各駅に2人ずつぐらいしかおらず、ホームでのアナウンスや、ドアが閉まるときの駅員による安全確認もない。

 逆に日本では、細やかすぎるぐらいのサービスを行うので、地下鉄は設備に金をかけた上、しかもボストンと同規模の従業員が必要な状況となっている。サービスの質をやや落とし、運賃を下げる選択肢もあるはずだが、公共交通には競争原理が導入されないため、そのようなことが検討されることもない。

 日本の公共機関が設備に巨額の金をかけるのは、公共投資で経済を活性化させたいという経済政策の側面もある。日本の鉄道がどんどん自動販売機を導入すれば、自動販売機を開発するメーカーの技術が上がり、日本企業の輸出力も大きくなって国民全体のためになるという考えに基づいている。

 だが世界的な産業構造が、設備投資を重視するものから情報集約型へと変化したため、すでに公共事業による日本経済テコ入れ政策は効かなくなり、その結果、政府の赤字だけが増え、経済は好転しない、という現状になった。

▼終身雇用の方が良かった・・・?

 ハーバードスクエア駅の自動販売機は週末になると、つり銭の供給がなくなるためか、全部の台が使用停止になることが時々ある。そして、一つしかない切符売りのブースの前に長い列ができる。あまりにも列が長くなると、駅員が出てきて改札口の横のゲートを開け、列を作っている人々をすべて無料でホームに入れてしまう。駅員が少ないので対応し切れないのである。

 こんな状況で、機械より人件費が安いという理由で雇われているとしたら、従業員にやる気がなくなるのも無理ないかもしれない。その意味では、日本の終身雇用の方が簡単に解雇されない分、人間の尊厳に合った雇用形態だといえる。

 アメリカは、一握りのエリートや優秀な人々が、世界的な意志決定や偉大な発明をする反面で、機械の代わりとしての単純労働をしている人もたくさんいる。ハーバードの学生たちはエリートの卵だが、落第すれば「機械の代わり」になってしまう。その落差が大きいだけに、彼らは必死に勉強せざるを得ない。

 グローバリゼーションによって日本の終身雇用も崩壊しつつあるといわれる。近い将来「90年代までの日本は牧歌的で良かった」と多くの日本人が感じるような時代がやってくるのかもしれない。



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