コンコルド墜落で失われたもの2000年8月28日 田中 宇1960−70年代は、科学技術を駆使した巨大プロジェクトで大国が競い合った時代だった。宇宙開発の分野では、61年にソ連が人類初の有人人工衛星を打ち上げ、対抗してアメリカもアポロ計画をスタートさせた。原子力発電所も米ソやフランスなどに次々と作られた。 そんな巨大プロジェクト競争の「競技種目」の一つに超音速旅客機があった。月や火星に行くことや、原子力発電で電気を無尽蔵に使える状態を作るなどということと並んで、遠く離れた街を短時間で移動できるということが「人類の夢」の一つとして掲げられた。技術の基盤となったのは、第2次世界大戦の末期に確立されたジェット戦闘機の技術であった。原子爆弾の技術を応用して原子力発電所が作られたのと同様の流れである。 「競技」に参加したのは米ソと英仏だったが、最初に超音速旅客機を完成させたのはソ連で、1968年12月末にツポレフTu−144という機種のテスト飛行に成功した。この機種は1977年からアエロフロートの旅客機として使われたが、燃費性能などが非常に悪かった上に2回の大事故を起こした結果、100回あまり飛行しただけで、翌年には使われなくなった。 ソ連の初飛行から遅れることわずか2か月後の69年3月、フランスとイギリスの航空機メーカーが協力して開発した超音速機「コンコルド」が初飛行に成功した。イギリスとフランスは当初、1956年ごろから別々に超音速機の開発を進めていたが、ソ連やアメリカに負けない早さで開発を進めるため、61年から協調して開発するようになった。「コンコルド」(Concorde)とは「協調」「調和」という意味である。 ▼捕鯨と並んで枯葉剤の身代わりにされた超音速機 アメリカでの超音速機の開発は、イギリスとフランスが協調して開発を始めたことに触発されて加速した。当時のケネディ大統領は、ソ連や英仏に対抗できる超音速機の開発に向けて米政府が航空機産業を支援すると宣言し、ボーイングやロッキードが新機種の設計に取りかかった。 ロッキードはコンコルドに似た三角翼の機体をデザインしたのに対し、ボーイングが当初デザインしたのは、音速以上で飛ぶ時は翼が三角形だが、音速以下の時は翼が広がって一般の飛行機のような形の翼となる可動翼の機体だった。競争の結果、アメリカ政府は1966年にボーイング型を採用した。 機体が重くなり構造も複雑になる欠点があったものの、英仏やロシアと似たデザインを後から作るのでは超大国アメリカの誇りが傷つくという観点から、ボーイング型が選ばれたようだ。最高飛行速度もマッハ2・7まで出せるように設計され、コンコルドのマッハ2よりも速く飛べるはずだった。(ボーイングが開発しかけた機体の写真はこちら) とはいえボーイングはその後、コンコルド型の翼に方針転換した。さらに、5年後の71年には、アメリカ政府は超音速機の開発支援を止めてしまった。高層圏を高速で飛ぶ超音速機はオゾン層を破壊し、空港周辺の騒音被害もひどいなど、環境への悪影響が大きいことが、米政府の撤退の理由だった。 以前の記事「捕鯨をめぐるゆがんだ戦い」を読んでいただくと分かるが、1971年といえば、ニクソン大統領がベトナム戦争の泥沼化で高まった反政府世論をかわすため、クジラなど海洋哺乳類の保護を重要政策として打ち出した年である。日本など「捕鯨国の残虐行為」と並んで「超音速機」も、米国民の目をベトナムの「枯葉剤」からそらすための身代わりの悪役に仕立てられたのだった。 米政府は超音速機の開発支援を止めただけでなく、アメリカ上空を超音速機が飛ぶことも禁止した。そのため民間だけによる開発も意味がなくなり、アメリカの超音速機開発は事実上、これで終わりとなった。この時にはすでに、英仏のコンコルドが実用化に向けて準備を進めていたが、コンコルドがアメリカ上空を飛行することもできなくなった。 コンコルドは1976年に乗客を乗せて飛行を開始し、英仏の航空会社はロンドン・パリからニューヨークに向けて定期便を飛ばす申請をしたが、ニューヨークの航空当局は許可しなかった。争いは裁判所に持ち込まれ、1年半の法廷闘争を経てようやくニューヨーク・ケネディ空港への離発着が認められた。 ▼石油危機で失われた採算 こうして超音速機の開発をめざした国際競争は英仏連合によるコンコルドの勝利となりそうだったが、彼らもまた勝者とはいえなかった。コンコルドが就航する前後の73年と79年に2度にわたる石油危機で、ジェット燃料の価格も何倍にもなり、燃料を大量に消費するコンコルドは採算に合わない機種となってしまった。 コンコルドに対しては、当初計画の5倍の40億ドルの開発費用がかかっていた。開発にかかわった英仏の政府と航空機メーカーは、世界中の航空会社にコンコルドを売り込むことで開発コストを回収しようと考え、最初は80機の購入予約があったが、石油危機によって辞退する航空会社が相次ぎ、結局コンコルドを買ったのは、英国航空とエールフランスの当事国2社だけだった。 この2社でさえ購入を渋り、政府が購入費用を大半にあたる金額を補助金として出すことを条件に、ようやく買うことにしたのだった。その後、英仏の航空会社は「コンコルドは開発当事者である英仏の航空会社だけに運航が許された特別の飛行機である」というようなイメージを人々に持たせることに成功しているが、実はそうではないのである。 さらに難題となったのは騒音だった。コンコルドは離陸の際、一般のジェット機より30%速い速度まで滑走するため、空港周辺の騒音がひどい。そのうえ音速を超える際のドーンという衝撃音波も何キロも離れたところまで響くため、アメリカだけでなく、ほとんどの国が自国上空をコンコルドが飛ぶことを禁止した。 そのためコンコルドは海上しか飛ぶことができず、飛べる路線が限られてしまった。しかもコンコルドは飛行可能距離が短く、大西洋は飛び越せても、途中給油せずに太平洋を越えられないため、日本など東アジアなどでは使い物にならなかった。 ▼時代遅れになった超音速機 またコンコルドが開発された60−70年代には、飛行機はまだエリートのみが乗る交通手段と考えられていた。だがその後、ボーイング747など大型のジェット機が登場し、80年代には大衆が海外旅行するときの乗り物という位置づけが定着した。コンコルドは客席が100で、747の4分の1しかない。高速飛行には軽量化が必要なので多くの人を乗せられないにもかかわらず、燃料は747の2倍もかかるため、運賃は通常のエコノミークラスの10−20倍もする。(ロンドン・ニューヨーク間が片道50万円前後) 飛行機がエリートだけの乗り物から大衆の乗り物となったため、高速飛行より格安切符の方が好まれるようになり、コンコルドはマーケティングとしても厳しい戦いを強いられた。当初、英仏の航空会社はダカール、カラカス、リオデジャネイロ、バーレーンなどにもコンコルドを飛ばしていたが、その後はロンドン・パリとニューヨークの間を1日1−2往復ずつ結ぶだけとなった。 この路線なら、所要時間を半分にするために20倍の運賃を払ってもいいと思う大企業の役員や政治家、タレントなどが多く乗るから、何とかビジネスとして維持できている。それに加え「超音速機の空の旅」というキャッチコピーに飛びついてくる団体旅行のチャーター機を飛ばすことで、コンコルドの事業は成り立っていた。 ロンドンのヒースロー空港を朝10時に飛び立つ英国航空の001便がニューヨークのケネディ空港に着くのは朝9時である。時差の関係で時計が逆回りしてしまうのだ。747だとニューヨーク到着は正午ごろになる。大企業の幹部にとっては、コンコルドだとその日の朝一番の会議にも出られる利点があった。コンコルドで行って、帰りは夜行の747のファーストクラスで横になって帰るというのが、ロンドンの大企業幹部が好むニューヨーク出張だった。 ボーイング747がこれまでに1000機売れたのに対し、コンコルドは全部で20機しか作られていない。しかもすべて1970年代に製造されたもので、かつての「未来の飛行機」は今では「古典的な名機」になってしまっている。座席数を倍増させた新型機種の開発も検討されたが、機体を大きくすると騒音と環境への悪影響が増えるため実現しなかった。 とはいえコンコルドは、製造から25年前後が経ったにもかかわらず、安全面では良好だった。1979年にタイヤのパンク事故があったが、その後21年間、大きな事故は起こさなかった。コンコルドは、アメリカとヨーロッパを行き来するエグゼクティブたちが安心して乗れる飛行機だった。 ▼事故はコンコルドの息の根を止めるか だがそんな状況は、さる7月25日までのことだった。この日、パリのシャルルドゴール空港を飛び立ったエールフランス4590便は、離陸直後に左翼から出火し、左側のエンジンが2つとも止まった結果、墜落炎上し、乗客ら114人が死亡した。コンコルド史上初めての死亡事故だった。この便はチャーター機で、乗客はニューヨークからカリブ海へとクルーズに行くドイツ人の団体旅行者たちだった。 エールフランスはその日からコンコルドの運航をすべて取りやめた。英国航空はしばらく運航を続けたが、事故調査を踏まえてイギリスの航空当局がコンコルドの飛行認可を取り消したため、8月15日から運航を止めている。再びコンコルドが飛ぶようになっても、安全性への信頼が失われた以上、今後もお金持ちが乗ってくれるかどうか、大きな疑問がある。 事故機は、離陸時に滑走路に落ちていた40センチほどの鉄の破片をタイヤが引っ掛け、壊れた車輪の一部がタンクに突き刺さって燃料が漏れ出して引火し、エンジンが炎に包まれて墜落したとみられている。コンコルドは短い翼の下の狭いスペースに2基のエンジンと燃料タンク、車輪が集中しており、この手の危険性は20年前から指摘されていたが、墜落に至る大きな欠陥とは考えられていなかった。そのため、事故は違う経緯で起きた可能性も残っている。 だが、もし破損した車輪の破片が燃料タンクに刺さって墜落したのであれば、車輪にカバーをつけるなどの従来の対策では不十分だったことになり、コンコルドが運航を再開するには、基本的な構造を変える必要が出てくる。もともと、2007−10年ごろに現在の機体が寿命を迎えるとともに、コンコルドの運航は終わる計画だったが、それが早まる可能性が大きい。 超音速機の開発は、まだ細々と続けられている。たとえばアメリカのNASAでは冷戦後の1993年から、ロシアのツポレフ社と合弁で、かつて短命に終わった旧ソ連のTu−144を改良して新型の超音速機を開発する可能性を探っている。今後超音速機が生き残る道は、100席級の大型ジェット機ではなく、10−25席のビジネスジェットが中心となると予測されている。 一方、コンコルドの開発で協調したヨーロッパ勢は、英仏にドイツとスペインが加わってエアバス社に発展し、超音速機ではなく、ボーイングに対抗する大型機の開発に力を入れている。奇しくもエールフランスのコンコルドが墜落したその日、エアバスは747(400席)をしのぐ最大650席の2階建て大型ジェット機「A3XX」計画について発表した。業界の傾向は高速化ではなく、大型化の方向に進んでいる。 また航空業界では、飛行機自体の速度を上げることより、空港から街の中心地までの交通の高速化や搭乗手続きにかかる時間の短縮、飛行機の遅れを減らす工夫などに力を入れている。 ▼歴史の遺物となった人類の夢 英仏2社のコンコルドのサービスは独特のものだった。機体が小さいため、映画の上映装置が積めない代わり、欧州からニューヨークまでの3時間弱の間、絶え間なく美食の数々が高級な食器に盛られて出てくる。 機種が古いのでヘッドフォンのシステムも搭載されていない代わり、機内にはワインセラーがあり、乗客は好きな高級ワインを選ぶことができた。乗客の超多忙を見越して、搭乗手続きは30分前で良いし、着陸して8分後には手荷物を受け取ることができた。 有名人が多く乗るため、機内では俳優や著名政治家の姿がよくみられ、乗客だった元ビートルズのポール・マッカートニーが、機内で歌を披露した時もある。そんな特別な雰囲気を生かした航空ビジネスを維持するため、英国航空は今年、20億円以上をかけて古びた機内の内装を最新デザインに模様替えし、空港の特別待合室も豪華にする工事に着手した矢先の事故だった。 60−70年代に「人類の夢」として大国間の競争で進められた科学技術開発の多くは、今では夢などではなく、社会のお荷物になるか、歴史に名を残すだけの過去の出来事になっている。スリーマイルとチェルノブイリの米ソの2大事故以来、原子力発電は各国で廃止されつつあるし、欧米などの宇宙開発計画も続行のための資金獲得に苦労している。その意味では逆に、コンコルドはよく今まで生き延びてきたといえるかもしれない。
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