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コザで沖縄民謡にふれる

2000年4月24日   田中 宇

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 その晩は、雨が降っていたせいかもしれない。かつて「音楽の流行が日本で一番早い」といわれた「不良」の街コザは、さびれた場末感に満ちていた。

 コザは、那覇市から高速道路を1時間ほど北にいったところにあった。米軍の嘉手納基地の近くで、かつては基地から流出する「アメリカ」が、この町に最新流行をもたらしていたという。日本でジュークボックスが最初に出回ったのはコザで、東京に登場するより1年以上早かったそうだ。だがそれは、今から20年以上も前の話だ。

 県都の那覇は琉球王朝時代、中国や東南アジアとの貿易港だった。それだけに那覇は外向的で、王朝と外交によって洗練された町だ。それと対照的なのがコザで、米軍がやってくる飲み屋を通じて人々はアメリカ文化を受け取り、米兵との喧嘩を通じて「反米意識」を発揚した、とされる。那覇との比較でコザは「不良」と呼ばれつつ、「那覇にはない本当の沖縄を見ることができる」と親しみを込めて解説される。

 コザは「民謡の町」でもある。米軍のライブハウスに触発され、三味線(三線)を伴奏に民謡の生演奏を聴かせる「民謡酒場」がいくつも作られたからだろう。沖縄を代表するミュージシャンとなった喜納昌吉が1970年代初めに最初の民謡酒場をオープンした。

・・・などと、専門家のように説明したが、これはすべて沖縄から東京に帰った後で読んだ本などで仕入れた知識である。この日の私は、歴史や民謡について大した予備知識もなく、観光地として、妻と2人でコザを訪れた。

▼外見は怪しい雰囲気だが・・・

 私たちの目的地は、ガイドブックに載っていた「姫」という民謡ライブハウスだった。暗い街路の傍らに「姫」を見つけたが、寂しく蛍光灯の看板がかかっているだけで、ひと気がない。店のドアは会員制クラブのようで、飲み代をいくらとられるか怪しい感じもした。

 迷う私を後目にドアを開けた妻の後に続き、入ってみると、案の定、お客はカウンターに1人だけ。病院の待合室にあるような長いソファ椅子が客席として並んでいたが、誰もおらず、その奥にステージがあった。出演者とおぼしき着物姿の男女数人がカウンターの内側におり、お客と話していた。演奏時間の合間らしい。女性は髪の毛を琉球風に結っている。

 歓迎の言葉をかけられつつも、緊張して座っていると、メニューを持ってきた店員の若い男性が、私たちの緊張を察したのか、話しかけてきた。問われて東京から来たと答えると「私は横浜からです」と言う。沖縄に惹かれてやってきて、半年ほどになるとのことだった。

 メニューを見ると、2000円でお酒とおつまみをとれば、民謡を聴くことができるシステムと分かった。意外にも良心的だ。「沖縄の飲み屋はだいたい怪しい雰囲気ですが、入ってみるとそうではないですよ」と誰かが言っていたのを思い出した。

 しばらくすると、演奏が始まった。三味線を引きつつ歌う女性が3人と男性1人、バックのキーボード演奏が1人。琉球方言の歌が多い。琉球民謡は、どこかインドネシアのバリ島の民族音楽ガムランの節回しと似ている。

 そういえば、沖縄料理の代表に「チャンプル」という炒め物があるが、インドネシアでも似たような料理を「チャンプル」と呼ぶ。琉球王国はジャワ島の王国とも交易していたから、そのときのつながりかもしれない。

 ステージが終わり、演奏者たちがカウンターの内側に戻ってから、私たちも誘われてカウンターに場所を変え、バンドの人々の話を聞いた。リーダーの女性は我如古より子(がねこよりこ)さんといい、この店の創業者で琉球民謡の大家だった我如古栄盛氏の娘であった。琉球民謡の主要な担い手には我如古さんのように、親から受け継いだ二世や三世が多い。照屋林賢も喜納昌吉も、父親は有名な民謡音楽家である。

 より子さんは伝統的な琉球民謡だけでなく、他のジャンルの音楽の要素を加味した独自の民謡をも歌っていた。その手法は、ミュージシャンの坂本龍一らも注目するところで、坂本氏と共演したり、民謡を使ったテレビコマーシャルの音楽の制作に関わったりしているという。そんな有名な方の店とは知らなかった。(後でガイドブックを見直すと、ちゃんと「我如古より子の店」と書いてあったのだが)

▼「半音の、そのまた半音みたいな音」

 我如古さんによると、琉球民謡の音階は「ドレミファソラシド」の中の「レ」と「ラ」が欠けた音階なのだが、小学校の音楽の時間に習う「ドレミ」的な絶対音階では表現しきれない部分がある。

 「半音の、またその半音みたいな音があって、普通の音符に書き留め切れないんです。東京とかである程度音楽の勉強をした後、琉球民謡に関心を持って沖縄にサンシンを勉強しに来る若い人が増えているんですけど、サンシンを引くとき、ピアノで勉強した絶対音感が邪魔をして、どうしても音が微妙にずれてしまう、と悩むそうです」と、我如古さんは言っていた。

 琉球音楽は「おたまじゃくし」を使った楽譜ではなく、いくつかの漢字を記号として使って音階を表現する「工工四」(くんくんしい)で表記されている。何年間も練習に使われたらしく、表紙がぼろぼろになった工工四を、カウンターの後ろから出して見せていただいた。

 「サンシン」とは「三線」と書き、沖縄の三味線のことである。本土の三味線は猫の皮だが、沖縄の三味線は蛇の皮が張ってあるとのこと。フレットがついているギターやピアノは絶対音階だけを出すための楽器だが、三味線にはフレットがないので、弦を押さえる場所を微妙に変えることで、半音のそのまた半音が出せる、ということらしい。

 絶対音階系の西欧音楽や、それをベースにしている現代の音楽の多くは、サンシンで引いても今一つという感じだが、それと対照的に、レゲエだとか、その他の世界の民謡系の音楽は、サンシンで引いても味わいが出せるそうだ。我如古さんは「沖縄のお年寄りがレゲエを聴いて、これはいいねえ、と言いながら踊り出していましたよ」と言っていた。

 アフリカを起源とする音楽が琉球民謡とつながっているとしたら、それはもしかすると、琉球王朝時代に、マラッカ海峡の貿易国などを中継ぎとして、アフリカ東海岸や中近東と交流があったからかも知れない。もしくは「人類が共有している民謡の音感」みたいなものがあるのだろうか。

▼沖縄の音楽と世界の音楽を結びつける

 このところ我如古さんがよく求められるのは、テレビコマーシャルに琉球民謡を使うことだという。コマーシャルの音楽や、東京在住の音楽家とのセッションは、「絶対音階」をベースにしているので、40歳前後の我如古さんより上の世代の琉球民謡家は、自分の音楽と、東京や欧米の音楽とを上手に和合させることが難しい。

 もっと若い世代になると、子供のころに絶対音階だけを教えられているので、後から琉球民謡の独自の音階を獲得するのが難しい。「だから、沖縄の音楽と外の世界の音楽を結びつけるのは、私たちの世代の仕事なんです」と我如古さんは言っていた。

 「姫」には我如古さんのほか、サンシンを弾く民謡歌手として、仲宗根トミ子さんら2人の女性と、男性の久志貞光がステージに上がる。ほかに、後ろでキーボードを弾いていたのは、東京から我如古さんに弟子入りしてきた斉藤真美子さんであった。

 斉藤さんは東京の大学で音楽を勉強した「絶対音階世代」で、母親の故郷だった沖縄の民謡に惹かれ、飛び込みで我如古さんに弟子入りを申し込んだという。3月に行われた琉球民謡の大型コンサートで、初めて晴れ舞台に上がり、沖縄タイムスの記事になった。( 記事はこちら

▼「テーゲー文化」による「やんわり否定」

 唯一の男性メンバーである久志さんは、音楽以外の沖縄の話もしてくれた。今は40歳前後になる久志さんが小学生のころ、学校では、方言を話したことが見つかると「標準語を話しましょう」という札を首からかけて、立たされたそうだ。「腕白坊主の友達の中には、わざと方言を喋って立たされる、目立ちたがり屋もいましたよ」と言う。

 この、首から札をかけさせる国語教育は、日本に支配されていた戦前の朝鮮や台湾、満州でも行われていた。だが、そんな歴史的な知識を背景に私が、「それは標準語の押しつけに反抗していたということですか」と尋ねたのに対し、久志さんは「いやいや、そんなものじゃないです。単なる腕白です」と言っていた。

 後で考えると、この時の会話は、私のような「本土」または「ヤマト」の人と沖縄の人とが、沖縄の歴史について話をした場合の、ある種の典型とも思える。本土の人は、沖縄に対する日本の政策を、朝鮮や台湾に対する植民地支配と同列に扱い「日本の間違った過去」の一環として語りたがる一方、沖縄の人は、そういった視点もまた、ヤマト中心の政治観であると感じてか、やんわりと否定する。私は同様の「やんわりとした否定」を、沖縄の他の人々との会話でも感じ取ることがあった。

 沖縄は「テーゲー文化の地」と言われる。テーゲーとは「大概」の琉球読みで、「厳格でなく、大ざっぱの方が良い」という意味らしい。待ち合わせや会議の開始時間など、東京では10分以上遅れたら失礼に当たると思われるが、沖縄では30分程度の遅れは認め合うと聞いた。

 それは、表だった相互批判を避ける沖縄の人間関係の知恵なのかもしれないが、同様に「過去の支配がどうのこうの」という「自己批判」や「反○○」の言葉に対しては、「ヤマトの人はどうしてそう思い詰めるのかね。テーゲーにしておきなさい」と言われるのだ、と誰かの本に書いてあった。

 この件に関しては、いろいろな議論があるだろうが、これ以上ぐるぐる考えて書くと「テーゲーにせよ」と言われそうなので、このへんで止めておく。

▼海が苦手な沖縄の人

 そのほか、久志さんから聞いた話として「沖縄の人は海のスポーツが苦手」ということがある。

 「沖縄には泳げない人が多い」という話になって、「沖縄の学校にはプールがないからだと聞きましたよ」と私が言うと、「いや、それだけじゃないんです」と言う。一つは、かつて沖縄の子供たちは、海に近づいてはいけない、と親から厳しく言われていたことがあるそうだ。海は危険だから、というのと、海は聖なるものだから、というのがその理由ではないか、とのことである。

 これは明・清の時代の中国で、政府が人々に、海に近づくことを禁じていた政策と関係しているかもしれない。海には「反政府」の可能性を秘めた海賊が行き交っており、沿岸の民衆と海賊が結託して朝廷に反抗することを防止するための政策だったが、当時の中国と関係が深かった琉球王国にも、この伝統が渡来したのではないか、と思った。

 久志さんはまた、沖縄では歴史的に、漁師という海の職業が身分の低いものと考えられていたこととも関係しているのではないか、と言う。これもまた「陸の王朝」だった中国の伝統との関係を思わせる。

 理由はどうあれ、沖縄では海に入って遊ぶ伝統がなかったようで、そのために今でも、沖縄のダイビングのインストラクターの多くは、本土から来た人であるという。これは、沖縄の観光産業の問題でもあるようで、沖縄県庁の人も、海で遊ぶ伝統がないことが、海のレジャー産業を振興させる上でマイナスとなっている、と指摘していた。

 久志さんも我如古さんらと同様、若いころから民謡歌手をしており、昔のコザのにぎわいについて「毎晩、道はお客さんで大混雑で、人にぶつからないで歩くのが難しかったほどでした。この店も満席で、立ち見客が並ぶほどでした。カラオケが登場してから、民謡のライブハウスは皆、客が減りました」と言っていた。

 そんな話をするうちに深夜零時を過ぎ、再びステージの時間になって、我如古さんや久志さんたちはステージに向かった。

 11時を過ぎたあたりから、病院待合室風のソファー席にも、お客が何組か入り、カウンターも満席になっている。「沖縄人は夜が遅い」と聞いたが、その通りだ。午後10時ごろに来店した私たちは、スタートが早すぎたということらしい。

 バンドの演奏に合わせ、ステージに上がって民謡を歌う人もいる。お客さんの中に宮古島出身の人がいたようで、宮古民謡を連続してリクエストしていた。琉球民謡といっても沖縄本島と、宮古・八重山諸島では別々の曲が歌われてきた。沖縄は、島ごとに、あるいは本島内の地域ごとに、独立性の高い無数の地域社会が存在し、苗字を聞いただけで、その人がどこの出身か分かるのだという。

 カウンターのお客さんは、なじみの人が多いようで、私たちが東京から来たと聞き、ビールや泡盛(沖縄焼酎)をご馳走してくれ、沖縄についてのよもやま話を、雄弁に語ってくれるのだった。

 お店は午前2時までだったが、その後も話は続き、閉店後はお店の人たち全員と「宮古そば」を食べに行き、お開きとなった。「姫」の怪しげな店の雰囲気や、コザの場末感の奥には、豊かな世界があることを感じた一晩であった。



★民謡ステージ『姫』

沖縄県沖縄市諸見里1―2―1
電話 098―932―3984

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