沖縄の歴史から考える2000年4月17日 田中 宇私が沖縄に行ってみようと思ったきっかけは、3月に台湾を訪れたとき、台湾では沖縄を日本とは別の国のように扱っていると知ったことだった。 たとえば、台湾の大学の中には、留学生の卒業名簿を作る際、沖縄から来た留学生は出身国の欄に「日本」ではなく「琉球」としているところがあると聞いた。台北の空港では、沖縄行きの飛行機の行き先表示は「那覇」ではなく「琉球」だった。 台湾で「琉球」が「日本」とは別の存在と考えられているのは、歴史的な経緯による。沖縄は、中国で明王朝が興った直後の1372年から、明治維新後の1879年に強制的に日本に組み込まれるまで500年間、中国(明朝と清朝)の王朝帝国に従属する「琉球王国」であった。 この間、江戸幕府が日本を統一した直後の1609年には、鹿児島の大名である島津家(薩摩藩)に沖縄を武力侵攻させ、江戸幕府の体制下に組み入れた。琉球王国は奄美大島など沖縄本島より北の島々を薩摩藩に奪われ、沖縄本島とその南の宮古島、八重山諸島は薩摩藩の監督支配下に置かれ、重税を納めさせられた。 だが、琉球と中国(清朝)との外交関係はそのまま続いたため、中国からみて琉球が属国である状態は変わらなかった。幕府と島津家は、琉球に中国との外交関係を維持させることで、貿易収入の上前をはねる政策をとったのだった。 ▼日本の沖縄支配を認めたくなかった中国 琉球王国は、鎖国政策の例外的な存在として、江戸時代の幕藩体制に組み込まれなかった。だが明治維新で日本が開国し、台湾や南洋、中国に向かって支配を広げる意志を持つようになると、その第一歩として1879年、沖縄を日本帝国の版図に組み入れるため、琉球王朝を廃止し、代わりに沖縄県を設置する命令を下した。 これは「琉球処分」と呼ばれ、1609年の薩摩軍による侵略、「本土防衛」のために沖縄が「捨て石」にされた太平洋戦争末期の沖縄戦、沖縄だけを本土から切り離し「基地問題」を固定化した戦後のサンフランシスコ条約とともに、「日本(ヤマト)が沖縄に行った数々のひどいこと」の一つに数えられ、沖縄の被害者意識を補強する材料となっている。 「琉球処分」に対して、中国(清国政府)は強く抗議した。琉球王国の遺臣たちの中にも、清国から援軍を得て日本を追い払おうと考える人々がいた。だが、すでに弱体化が始まっていた清国は、その後の日清戦争で日本に負け、沖縄どころかその先の台湾まで日本に奪われ、琉球を助けることはなかった。 とはいえ清国の側には、日本が武力を盾に琉球を囲い込んだことを認めない意識も強く、それが後継政権の中華民国(台湾政府)にも引き継がれ、「琉球」と「日本」とを別の存在として考えるゆえんとなっている。「尖閣諸島問題」もまた、こうした歴史の延長にある。 ▼「日本」を相対化する沖縄の存在 では、沖縄の人々のルーツは中国人なのか。もしくは、日本人でも中国人でもない独立した民族なのか。本を何冊か読んだ後、どうやら沖縄の人々のルーツは日本人であると分かった。 沖縄の言葉は古代日本語と近いといわれ、琉球王朝の公文書は、ひらがなと漢字の混合文であった。沖縄の言葉を日本語とは別の「琉球語」と考えれば、世界で唯一の「日本語系」言語ということになる。日本語の方言と考えれば、日本語には「琉球方言」と「本土方言」の2大系統があることになる、と百科事典に載っていた。「標準語」は実は「本土方言」だということである。 日本の本土では、江戸時代以降500年以上続いた中央集権化政策により、地方文化のほとんどは今や事実上失われ、風土が単一化しているが、沖縄の存在は、かつては日本がもっと多様であったことを気づかせる。 「琉球」と「沖縄」という2つの呼称のうち、人々が自称するのは「沖縄(うちなー)」である。その語源は「沖合にある漁場(なわ)」という意味だそうで、これは昔、九州南部の人々が漁場を求めて沖合の沖縄に渡ってきたことを示している、と首里城の案内人から聞いた。(首里城は琉球王国の首都) 一方「琉球」は、中国が命名したものだ。語源は「流通」からきているという。つまり、中国としては沖縄を、中華帝国の貿易担当として任命する意味を込めて「琉球」と呼んだのではないか、と首里城の案内人は言っていた。 この説は面白いと思ったのだが、調べてみると実は「琉球」はもっと古く、600年ごろに書かれた中国の書物に、台湾周辺を指す地名として「流求」という名称が出ており、その後は「留求」とも呼ばれていたという。 ▼明からもらった琉球のアイデンティティ 「琉球王国」のアイデンティティは、中国・明朝によって権威づけられた国際貿易にあった。明朝が「属国にならないか」と持ちかけてくるまで、沖縄は豪族の群雄割拠の時代が続いており、「琉球」という国名を与えられて明の属国となった後に、統一国家となった。 明から属国化を持ちかけられた当初は、沖縄本島の北部、中部、南部の3人の豪族が、強大な明を味方につけてライバルを倒そうと考え、相次いで「属国になります」と申し出て認められた。 その後も割拠時代が約60年間続いた後、首里城を首都とする統一王朝ができた。「首里」とは「首都」という意味で、今の県庁所在地である那覇は、首里から山を降りたところにある外港だった。 明朝は周辺の国々に対し、明に従属する態度を表明すれば、その地域の「王」として認定(冊封)し、中国との貿易で経済的な利益を与える「冊封体制」と呼ばれる外交戦略を展開した。 冊封は漢の時代に始まったが、明の時代には朝鮮や東南アジア諸国、チベットなども、冊封体制の中にあった。日本も足利義満が1401年に冊封を持ちかけられ、その後150年間、明との「勘合貿易」を断続的に続けている。 当時の中国文明は世界の最先端を行っており、陶磁器を始めとする中国製品は、世界中で高く売れた。琉球王朝は、その冊封システムを積極的に利用し、琉球と中国との貿易だけでなく、日本、朝鮮から東南アジアに至る海域で、広く中継貿易を行った。 ▼米軍基地は台湾のため? 貿易に使われた船は、最初の100年ほどの間、明朝から無料でもらったもので、修理も中国側がしてくれた。琉球が貿易を活発化した背景に、明朝の国家意志があったことになる。 明朝自身が直接貿易を手がけなかったのは、当時の航海が危険に満ちたものだったのに加え、王朝の価値観として、商業など経済活動は下賎な行為であり、高貴な官僚が手を染めるべきではない、と考えられていたからではないかと思われる。 明の「属国」といっても、軍事的に支配されるわけではない。徳川や薩摩といった日本が琉球を武力侵攻したのと比べ、明や清の冊封体制は、外交的な面子さえ維持されていれば平和な支配であった。中国人が「日本人は野蛮だ」とみるのは、この種の歴史背景がある。 琉球王国は、明にとっては台湾よりも重要な存在だった。当時の中国の文献では、沖縄は「大琉球」、台湾は「小琉球」と呼ばれていた。台湾は沖縄より大きな島なのに、沖縄の方が「大」だったのは、明からみて「より文明化(中国化)された島」であると認定されていたからだ。台湾史上最初の中国人勢力である鄭成功の王朝ができるのは、琉球王国ができてから約200年後である。 大琉球と小琉球は今日でも、意外な点でつながっている。「沖縄の基地は、台湾のために存在している面が強い」と、台湾で国民党の幹部から聞いた。アメリカは中国との外交関係上、台湾を守りたくても台湾島内に基地を作れないから、近くの沖縄に基地を置き続け、「日米安保条約」によって、台湾を中国の軍事的脅威から守ってくれているのだという。 (続く)
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