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捨てられた独裁者ピノチェト

2000年3月9日  田中 宇

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 3月3日、ピノチェト氏がチリに帰ってきた。  彼は1973年のクーデターでチリの全権を掌握した将軍で、その後17年間、大統領として独裁政治を続け、その間に3000人以上の反体制の人々が「行方不明」となった。彼は1990年に国民の支持を失って大統領を辞めた後も、一生続けられる上院議員として権力を保持していた。

 独裁政権時代の人権侵害に対する批判が内外で強まってきた1998年10月、「チリ国民が彼の罪を容認するなら、代わりにヨーロッパが彼を裁く」ということで、健康診断と治療のために彼がロンドンを訪れた際、チリの旧宗主国であるスペインからの要請を受けたイギリス当局に逮捕され、その後1年半、ロンドンの自分の別邸に監禁されていた。

 当初はスペインに護送され、裁判にかけられるはずだったが、その前にイギリスではサッチャー元首相などから「彼を裁くのはチリ人の権利であり、外国が干渉する問題ではない」という主張が出てきて、長い論争に入った。監禁が長引いたピノチェトは健康を崩し、99年末に医師団が診断したところ、裁判に耐えられる健康状態ではないと判断され、祖国チリに帰されることになった。

 このようないきさつであったため、3月3日、帰国するピノチェトを出迎えるため、首都サンチャゴの国際空港に集まったチリの人々は、空軍機から降りてきた彼が、意外に元気であることに驚いた。彼は車椅子に乗っていたが、側近だった元軍人らの出迎えにあうと、うれしさのあまり車椅子から立ち上がって歩き出し、数人の元側近と抱擁を交わしたのだった。

 この光景は同席したマスコミによって報じられ「ピノチェトが裁判に耐えられない病状だというのは、ウソではないか」という論調が、あちこちから出てきた。もともと、イギリス当局による健康診断の結果に納得しないスペインが、自国の医師団にもピノチェトの健康診断をさせるようイギリスに求めたが、断られた経緯もあった。

▼「人権外交」の標的になったピノチェト氏

 イギリス政府がピノチェト釈放の決定をしたのは、3月2日朝8時のことだった。決定が出るとすぐピノチェトは、チリ軍用機が待機していたロンドン郊外の空軍基地に向かった。このようにしたのは、釈放の発表から実施までに半日でも時間があくと、人権団体などが裁判所に訴えて、釈放を差し止めてしまう可能性が大きかったからである。

 イギリスの雑誌エコノミスト(3月4日号)などは、イギリス政府がチリ政府と結託し、ピノチェトがすぐに出国できるよう、手を回したに違いないと批判している。

 98年にピノチェトを逮捕した際、イギリス政府は積極的だった。逮捕のきっかけを作ったスペイン当局の逮捕状は「ピノチェト政権によって殺された人の中に、チリ在住のスペイン人が混じっており、その罪を問うために逮捕が必要だ」という理屈になっていたが、EUの法律では、この程度の強さの理由だと、逮捕を請求された側の外国政府は逮捕を執行できず、不十分だった。

 そのためイギリス当局はわざわざ、容疑の内容を「無実の人を大量に処刑したという人道上の罪」という大罪に書き替えた自国の逮捕状を発行し、それを使ってピノチェトを逮捕した。

 1998年は欧米、特にヨーロッパが「人権」を外交戦略の中に大々的に持ち込み始めた年だった。たとえば、チリと似たような経済重視の独裁政権が続いたインドネシアでは、独裁者だったスハルト政権が崩壊したが、ヨーロッパ諸国はインドネシア軍に弾圧され続けた東チモールの人権問題を使って、それを側面から支援した。

 その流れの中で、ピノチェト逮捕も執行された。逮捕を最初に提唱したスペインだけでなく、ベルギーやフランスの当局も、チリ在住の自国民がピノチェトに殺されたと訴えた。そこまで盛り上がったのに、なぜイギリスは1年半後に、早くピノチェトに帰国してもらいたくなってしまったのだろうか。

▼チリ大統領選挙の裏側で

 考えられる背景の一つは、今年1月16日に決選投票が行われたチリの大統領選挙との関係である。決選投票は、左派系(中道左派・与党連合)のリカルド・ラゴスと、右派系(右派連合)のホアキン・ラビンとの間で戦われ、左派のラゴスが勝ち、3月11日に大統領に就任することになっている。

 イギリス政府がピノチェト釈放の方向性を決めたのは、決選投票の直前の1月11日だった。そして実際に釈放したのは、新大統領が就任する一週間前である。

 2人の候補者は、いずれも中道を掲げていたが、左派のラゴスは1973年にピノチェトに倒された左翼のアジェンデ政権時代にモスクワ大使をしたこともあり、アジェンデ信奉者だ。一方、右派のラビンは、ピノチェト政権時代に経済計画を担当する下級役人をしており、ピノチェト賛美の本も出版している。2人の経歴から考えて、ラゴスが勝てば新政権はピノチェト攻撃に積極的になり、ラビンが勝ったら消極的になることが予測できた。

 左派系の労働党政権であるイギリス政府が、チリの選挙で左派のラゴスを勝たせいと考えても不思議はない。イギリスがピノチェトを釈放する方向性を打ち出した後、それまで全く互角と言われていた両候補の支持率は、わずかにラゴスに有利となり、得票率3%という僅差でラゴスが勝った。

 両候補とも選挙期間中、ピノチェトの問題についてはことさらに触れないようにしていた。このテーマはチリ社会全体の「過去」をえぐりかねず、うかつに持ち出すと、どんな影響が出るか分からないからだった。ラゴス候補は中道左派連合による現在の政府でも閣僚をしており、連立政権という性格上、ピノチェト氏を攻撃することはできなかった。

 だが、イギリスがピノチェト釈放の方向性を決めたというニュースが投票日直前に流れたことにより「チリ人の手でピノチェトを裁こう」という機運が強まり、ラゴスに有利になった。推測にすぎないが、ラゴス候補が欧州諸国に対して「選挙に勝ったら自国でピノチェトを裁く」という約束をした可能性もある。

▼元軍人の恩赦特権を剥奪したアイデア判決

 ピノチェトは1990年に大統領を辞めた後も、軍を通じて権力を持っていたから、その後の政権は、彼に少しずつ引退してもらう政策しかとれなかった。欧州諸国は、こうしたチリ政府のやり方に不満を持ち、ピノチェト逮捕に踏み切ったが、逮捕はチリの政治状況に大きな変化をもたらした。ピノチェトの罪を自らの手で裁こうとする左派勢力の運動は、その一つだった。

 ピノチェトが健在だったころ、彼の勢力をつぶすことはチリでは不可能と思われていた。だがイギリス当局は、彼のチリ上院議員としての外交特権など「人道上な罪を犯した」の一言で無視して、やすやすと彼を捕まえてしまった。これは、チリ人の認識に大転換をもたらした。

 ピノチェト政権時代の要人たちは、無数の人々が殺されたり、行方不明になったといわれる政権前期(1973-78)の行為に対して罪に問われないという恩赦特権を、政権末期にお手盛りで作っている。そのため裁判所は、彼らの罪を裁くことができなかったが、99年初め、サンチャゴ高裁の判事が、独創的な判決(決定)を下した。

 「行方不明になっている人は、まだ生きているかもしれず、当時の政権担当者は、反対派を誘拐したまま、どこかで監禁している可能性がある。殺人なら、殺した時点で罪の行為が完了しており恩赦の対象だが、現在まで続いている誘拐となると、恩赦の対象期間後も罪を続けていることになる」というものだった。

 実際には、当局に連行されたまま、行方不明になった人がまだ生きている可能性はなく、殺されてどこかに埋められているのだろうが、法律的には生きている可能性がある。

 この点を突いた判事決定により、ピノチェトの側近だった40人の元軍人が99年初め、恩赦特権があるにもかかわらず逮捕され、裁かれた。この裁判を機に、ピノチェト政権時代の人権侵害について、遺族などから次々と訴えがなされるようになった。

▼かつての協力者を犯罪者扱いする欧米

 今後、ピノチェト氏がチリで裁かれるかどうか、一つの焦点は、彼が上院議員として持っている不逮捕特権がどうなるかである。与党の中にもピノチェト支持者は多く、ピノチェト氏が上院議員を辞めても不逮捕特権だけは維持されるという法案を、大統領が左派に代わる直前のこの時期に、駆け込み的に議会に提出したりしている。

 ピノチェト氏が1973年にクーデターで政権をとったころのことを考えてみると、彼だけを裁くべきなのかどうか、疑問が残る。当時のチリは、左翼のアジェンデ政権が社会主義的な政策に失敗してゼネストが起き、混乱が強まる中、アジェンデ大統領らは急進的な左派への傾向を強めていた。

 このままではチリにキューバのような親ソ連の国ができるという危機感を抱いたアメリカやイギリスは、ピノチェト氏のクーデターを(隠然と)支持し、その後の反政府派に対する弾圧も、見て見ぬふりをしていた。

 ピノチェト氏は「資本主義陣営を守る」という当時の欧米の戦略を支えていたわけで、冷戦が終わって事情が変わった今になって、かつての協力者を「用済み」だとばかりに犯罪者扱いして捨てるのは、正義とは呼べないだろう。ピノチェト逮捕に反対し、拘留中のピノチェト氏のもとを何回かお見舞いに訪れたサッチャー元首相も、似たような発言をしている。



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