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終わり方が分からない北アイルランド紛争

2000年2月14日   田中 宇

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 私は東京生まれだが、親の故郷が岩手県だったことから、小学生のころから毎年のように東北地方を旅行し、大学も仙台だった。大昔に東北の中心地だった平泉や多賀城などの遺跡を訪ね、歴史を学ぶ機会が多かったが、それで感じたのは、東北は西日本から侵略してきた人々によって支配され、同化されたという歴史認識だった。

 かつての日本では、先進的な技術や制度は、中国や朝鮮など西から入ってきた。天皇家に代表される中央集権国家システムも、大陸から持ち込まれたものである。やがて「日本」という名前がつく、その国家の力は、幕府の「征夷大将軍」という役職に象徴されるように、東に向かって拡大・侵略していった。

 東北の人々がもっとずる賢かったら、関西方面から攻めてきた「日本」に同化されず、もともと持っていた独自の言葉や文化を維持できたのだろうが、そうではなかったために、今では「日本」の中に完全に組み込まれている。

▼「同化されなかった東北」としての北アイルランド

 そのような歴史観を持った私にとって、はるか遠くのヨーロッパで続いている北アイルランド紛争は、「同化されなかった東北」を感じさせる。

 アイルランドは、東隣のイギリスからの侵略と支配・同化政策に対抗し続けてきた歴史を持っている。そして、かつてはアイルランドの一部だった北アイルランド(アルスター地方とも呼ばれる)は、イギリス人が支配し、アイルランド人が抵抗するという構図の、最後の象徴である。

 現在イギリスとアイルランドがある地域には、民族的にみて、アングロサクソン人が中心のイングランドと、ケルト人が中心のスコットランド、ウェールズ、アイルランドがある。大昔は、これらのすべてにケルト人が住んでいたが、5-7世紀にヨーロッパ大陸からアングロサクソン人が攻めてきて、大陸に最も近いイングランドを占領した。

 その後、アングロサクソン人(イギリス人)は、ケルト人の国を次々と支配下に置いていった。アイルランドでは、12-13世紀にイギリス人が侵略してきて、島のほぼ全体が支配されたが、14-15世紀には、ケルト人(アイルランド人)が盛り返し、一時はイギリス人を追い出した。

 (イギリスによる支配は、相手を自分たちに完全同化する政策をとらず、他民族として扱い、ある程度の自治を認めるというもので、スコットランドやアイルランドを支配した経験が、後のイギリスの世界的な植民地支配能力として生かされた。昔の「日本」でも、東北やアイヌの文化を根絶せず、他民族として扱っていたら、植民地を支配する技能が高まり、近代の侵略で作った「大東亜共栄圏」を、アジアの人々に憎まれない形にできたかもしれない)

▼イギリスの「民族浄化政策」が問題の根源

 16世紀になるとイギリスは、ローマ教皇の支配下を抜け、プロテスタント(イギリス国教会)を国教にした。アイルランドの人々は、その後もカトリックを信仰していたが、イギリス政府はアイルランドにもプロテスタント信仰を強要したため、人々の抵抗が激しくなった。

 抵抗戦争は無残に敗北し、戦いが特に激しかったアルスター地方(アイルランド北部6県)では、人口の大半が死に、土地はすべてイギリスに没収された。イギリス政府はその後、農民がアルスター地方に移民することを奨励し、イングランドやスコットランドから移民してきた人々(プロテスタント)に、没収した土地を分け与えた。今でいう「民族浄化」である。これが、北アイルランド問題の原点である。

 18世紀になると、アメリカ合衆国の独立やフランス革命などの影響を受け、アイルランド人たちはイギリスからの独立運動を始めたが、イギリスは独立を防ぐため、逆にアイルランドを正式に併合した。

 独立運動はその後100年以上続き、第一次世界大戦が終わってヨーロッパ各地で新しい国民国家が創設される動きの中で、1922年にイギリスはアイルランドに大幅な自治を認め、1937年にアイルランドは正式に独立した。

 ところがアルスター地方だけは、イギリス系の住民(プロテスタント)が多いという理由で、イギリス(連合王国)の領土として残された。アイルランドの人々は、アルスターも自国の一部だと主張し、アイルランドの憲法は、北部を含むアイルランド島全体を領土として掲げた。イギリスからの独立運動は、北アイルランドをイギリスから奪還する運動として続けられ、イギリスでの爆弾テロが頻発するようになった。

 北アイルランドでは、イギリス派のプロテスタント住民が6割を占め、カトリック(アイルランド系住民)は4割と少数派である。そのためイギリスは「北アイルランドの人々の意思を、民主主義的な多数決で測れば、イギリスの一部となることを望んでいる」と主張した。

 一方、アイルランド系の人々は「北アイルランドとアイルランド共和国との間の国境線は、イギリスが引いた人為的なものであり、北アイルランドだけの多数決で決めるのは間違っている。アイルランド島全体の多数決で考えるのが筋であり、それだとカトリックが95%なのだから、北アイルランドをアイルランドに併合するのが正しい結論となる」と主張し、議論は平行線をたどっている。

▼地域紛争を無意味にするヨーロッパ統合

 最近、こうした論争の土俵そのものを崩すことになったのが、ヨーロッパ統合の動きである。イギリスもアイルランドもEU(欧州連合)の加盟国であり、イギリスは今のところ通貨統合には参加していないものの、両国とも、政治経済の決定権を、国家を超えたEUに預けていく流れの中にいる。

 政治経済が統合された後のヨーロッパでは、北アイルランドがイギリスとアイルランドのどちらに属するか、といったことは、さして重要ではなくなってしまう。どちらに属そうが、最高意思決定機関としてのEUの一部であるからだ。

 1997年に就任したブレア首相は、こうしたヨーロッパの将来像を踏まえ、イギリス政府がスコットランド、ウェールズ、北アイルランドのケルト系3地域をも支配するという、従来の政治システムを変える政策を打ち出し、この3地域に対して大幅な自治権を与えることにした。

 この提案に対して、北アイルランドでは、イギリス派のアルスター連合党と、アイルランド派のシンフェイン党の両方が、基本的な線で賛同し、敵味方を超えた連立政府を作り、そこにイギリスが自治権を委譲する方向で、話がまとまった。1998年4月のことだった。

【北アイルランドの主要政党は、イギリス派が、穏健派のアルスター連合党(アルスター統一党・多数派)と、過激派の民主連合党(民主統一党・少数派)の2つ、アイルランド派が過激派のシンフェイン党と、穏健派の社会民主労働党の2つ】

【日本のメディアではイギリス派の政党名「Unionist」を「統一党」と訳しているが、意味としては「統一」ではなく「イギリス連合王国(United Kingdom)」の「連合」からとったと思われるので、「連合党」と訳すのが正しいと判断した。なお、アイルランド派は「(アイルランド)共和国派」(Republican)と呼ばれている】

▼「もう戦いは終わりました」と言われても・・・

 ところが、ヨーロッパ統合によって「イギリスかアイルランドか」という二者択一が無意味になるという理論は、政治家やマスコミなどの関係者には理解できても、一般の人々には、実感しにくいものだった。

 多くの人々は、敵味方を超えた連立政府の構想を、平和をもたらすものとして歓迎したが(住民投票で71%の賛成)、12世紀から続く対立の意識にこだわっている人々は、連立政権を「政治家どうしの談合」としてとらえがちだった。

 このため、過激派アイルランド系住民の武装組織「IRA」(アイルランド共和国軍)は、連立政権づくりの前提となっている武装解除を拒否し続けた。IRAはシンフェイン党と兄弟組織なのだが、連立政権の閣僚となったシンフェインの幹部らがIRAを説得しようにも、「政治家どうしの談合だ」という疑念を持たれて難航した。

 200年以上にわたってIRAを支援してきたアイルランドの政府は、すでに昨年11月、北アイルランドの領有権を主張する憲法の条文を削除しており、北アイルランドを「祖国」の一部にするという「理念」のはしごを外してしまった。だが、これまで命がけで戦ってきた人々は、外部の支持者から「もう戦いは終わりました」と言われても、「祖国統一」に向けた思いを、簡単に捨てられるものではない。

▼凍結された「奇跡」

 イギリス派も、同じ問題に突き当たった。イギリス派は当初、「IRAが武装解除しなければ、連立政府に参加しない」と言っていたが、その後イギリスやアメリカから説得され、「連立政権を作った後、すみやかにIRAが武装解除を始めるなら」という条件にまで譲歩した。

 その結果、合意が結ばれてから1年半も交渉した後の昨年12月にようやく、敵味方を超えた連立政権が実現し、世界のメディアは「奇跡が実現した」と賞賛した。

 だが、その後1ヶ月たっても、IRAは武装解除を始めなかった。IRAが従わないので、イギリス派の中から「それなら連立政権など解消し、再びイギリス主導の政治に戻すべきだ。IRAとは武力で決着をつける」という声があがり、すでに連立政権の閣僚になっている自派の政治家たちを突き上げた。

 イギリス派の最大勢力で、連立政権の首相を出しているアルスター連合党は、2月12日に党大会を開くことを予定していた。この日までにIRAが武装解除を始めなければ、党大会で連立政府からの離脱が決議される可能性が大きかった。これは、これまでの2年間の和平交渉が失敗することを意味していた。

 IRAは武装解除を拒否し続けていたため、イギリス政府は党大会前日の2月11日、連立政府に委譲した行政権を、再びイギリスに戻すことを決めた。連立政府を「凍結」することで崩壊を防ぎ、再度、関係者の説得にあたろうという戦略だった。

 今後、イギリスとアイルランドの政府が、北アイルランドの「戦いを急に止められない人々」に対する再度の説得を始め、敵味方間での話し合いの再開にこぎつける予定になっている。

 ヨーロッパでは、北アイルランドの問題だけでなく、スペインのバスク地方、フランスのコルシカ島、イタリアの北部とシチリア島、そしてユーゴのコソボなど、いくつもの地域が、「自分たちの国家」を作ることを目標に、戦いを続けている。

 「国際社会」の上層部では、今から100年ほど前に世界にばらまかれた「国民国家」の概念が、すでに過去のものになろうとしているが、そんな時代の急変についていけない、または、ついていきたくないのは、北アイルランドの人々だけではない。



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