独立しそうでしないスコットランド1999年5月24日 田中 宇 | |
ヨーロッパの東の端にあたるユーゴスラビアでは、独立に向けて戦うコソボのゲリラと、それを潰そうとするセルビア軍との間で、流血の戦いが続いているが、これと対照的な独立運動が、ヨーロッパの反対側、イギリスのスコットランドで続けられている。 流血どころか、独立を求めるデモ行進さえ、7年前にあったきりで、それ以降は行われていない、というのがスコットランドの状況だ。投票と、政治的な議論だけで、スコットランドがイギリスから独立すべきかどうかを、決めようとしている。 その最も新しい動きは5月6日、300年ぶりに実施された、スコットランド議会選挙だった。そして、その結果は、すぐに独立すべきだと考える人より、とりあえず、一定の自治だけはもらった上で、すぐには独立しない、という結果になった。 ●イギリス人より先にイギリスに住んでいた人々 イギリスの正式名称は「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」だが、このうちグレートブリテンはさらに、イングランド、スコットランド、ウェールズという三つの地域からなり、かつては別々の王国であった。 今も、形の上では別々の王国で、エリザベス女王という共通の王を頂いている連合体ということになっているが、実際はイングランドを中心とする一つの国である。 ちなみに、グレートブリテン(大ブリテン)という地域(島)の名前は、スコットランド人と同じケルト系のブリトン人が住んでいるイギリスの対岸、フランス領であるブルターニュ半島のことを、リトルブリテン(小ブリテン)と呼んでいたのと、対を成す地域名である。筆者はこの記事を書き始めるまで、「大」英帝国だから「グレート」ブリテンと呼ぶのだろうと思っていたが、違うようだ。 スコットランドの歴史は、イギリスの中核をなすイングランド王国による支配を、あるときは積極的に受け入れ、別のときは激しく拒絶して独立を目指す、ということの繰り返しだった。 スコットランドの人々は、イギリス人の祖先であるアングロ人、サクソン人などが5-6世紀に北欧から海を渡ってやってくる前からグレートブリテン島に住んでいたケルト人を、中心的な祖先としている。つまりスコットランド人は、イギリス人によって島の北の方に追いやられた先住民族だともいえる。 (このとき南に追いやられたブリトン人はドーバー海峡を渡り、小ブリテンに逃げた。西に追いやられた人々は、ウェールズ人となった) ケルト人たちの国々は、1034年に統合されスコットランド王国となったが、歴代国王の中には、「先進的」と思われていたイングランドの言語、風習、宗教などを積極的にとり入れる人が多かった。 古くからあったケルト式のキリスト教会はカトリック式に改築され、法廷などでの公用語は、古来のゲール語ではなく、英語が使われるようになった。 こうしたイングランド化は、イングランド国王がスコットランドへの支配を強めることにつながり、13-14世紀には、スコットランドはイングランドに併合された。 その後は再び独立したものの、イングランドとの戦いは長く続き、17世紀後半には、イングランド国王がスコットランド国王を兼任することになった。さらに1707年には、スコットランド議会が投票によって自らの廃止を決定し、完全にイギリス(連合王国)の一部となった。 こうした歴史から、スコットランドはイギリスの一部になった後も、独自の司法、教育の制度を維持しつづけた。18世紀には、経済学者のアダム・スミスなどを生み出した「スコットランドの啓蒙運動」が起こり、スコットランドの中心地エジンバラは、ヨーロッパ屈指の学問の都だった。 ●独立心を噴出させた北海油田の発見 18-19世紀にかけて、世界支配を続けたイギリスの繁栄の中で、スコットランドはその恩恵を受けていたが、20世紀に入って植民地の独立が始まり、さらに第2次大戦後、世界支配の中心がヨーロッパからアメリカに移り、イギリスの凋落が続くにつれて、スコットランドの人々の間に、独立した方が良いという気持ちが再び広がった。 中でも、1960年代にスコットランドの北方沖合いで、北海油田が発見されると「イギリスの一部である限り、石油収入はロンドンに持っていかれてしまうが、独立すれば、それがスコットランドのものになる」という理由から、独立運動が再燃した。 だが、1979年からイギリスの政権をとった保守党は、強い中央集権政策を取り続け、スコットランドからの自治要求をほとんど拒否した。その間に、野党だった労働党は、スコットランド人の要求を受け入れる姿勢をとったため、支持を獲得した。逆に、保守党はスコットランドでの支持を失った。 1997年5月の総選挙で、ブレア氏が率いる労働党が、18年ぶりに保守党を破って政権を握ると、新政権はその直後から、国内での地方分権を進める政策を展開した。 保守党が強い中央集権中央集権政策を続けていた間は、北アイルランドの分離闘争に対しても、容赦ない弾圧を加えたため、分離派のIRAによるテロリズムも頻発した。ブレア政権は、北アイルランドやスコットランドに対して、逆に地方分権を大幅に認めることによって、テロリズムや対立による社会不安をなくそうとした。 またヨーロッパ大陸では、EUの通貨統合に象徴されるように、国家を超えた広いヨーロッパの統合が進み続けていた。この動きは、国家の機能のうち、外交、軍事、財政、金融、交通政策などを、全ヨーロッパで統合していく一方で、教育や福祉、衛生など、日々の生活とのつながりが深い分野に関しては、国家より小さな単位である、地方や州、市町村に、より大きな権限を任せていこう、というものだ。統合と分権化とが、合体した流れとなっている。 こうした流れは今後も進みそうなため、イギリスだけが強い中央集権を続けていることは、得策ではなくなった。こうしたことも、ブレア政権による地方分権政策の背景にあった。 ●イギリス解体に向かいかねない動き こうして、ブレア政権の誕生から4ヶ月後の1997年9月、スコットランドとウェールズで、イギリスの議会の権限の一部を受け継ぐ議会を、新たに作るかどうかを問う住民投票が実施され、両地域に議会が新設されることが決まった。北アイルランドでも、同様の決定がなされた。 (ウェールズは、議会開設に対する賛成票が50.3%しかなく「どちらかといえば自前の議会があってもいい」という程度の結果だった。ウェールズは、近代的な議会制度が生み出されるずっと前の13世紀から、イングランドの支配下に置かれたため、議会が開設されるのは初めてだった) 新しく設置されることになった議会は、いわゆる地方議会とは別のものだ。そうではなくて、スコットランドの場合、1707年に廃止されたスコットランド王国の議会を蘇生させよう、ということなのである。(スコットランドは9つの州から成っているが、そこにはすでに地方議会がある) 新設される議会と、議会が選出する行政府には、イギリス国家の権限のうち、自らの地域の教育、福祉、医療などに関する、立法や徴税、予算配分について決める権限が委譲される。外交、金融政策などの権限は、今後もイギリスの政府と議会に残される。 「連合王国」であるイギリスを構成する、それぞれの「王国」ごとに議会と政府を作るという、部分的な「イギリス解体」ともいえる動きだった。 とはいえブレア首相は、この権限委譲によって、スコットランドや北アイルランドの分離独立を求める声や不満が解消されるため、イギリスの解体ではなく、むしろ再統合へとつながるものだ、と言っている。 スコットランドなど、イギリスを構成する3つの王国に議会を新設することが決まってから、実際に選挙が行われるまでの期間の、最も大きな話題は、どの政党が新しい議会の多数派になるか、ということだった。 3つの王国には、それぞれ地元の政党があって、イギリスからの独立を求める勢力が結集している。スコットランドでは「スコットランド国民党」(SNP)、ウェールズでは「ウェールズ党」(Plaid Cymru)、北アイルランドでは「シンフェイン党」である。 これらの政党が勝って議会を制すれば、イギリスからの独立を決議してしまうかもしれない。そうなると、イギリス解体という事態に進みかねなかった。イギリスの2大政党のうち、保守党は政権をとっていた1979-97年に地方分権要求を弾圧したので勝ち目はなかったので、イギリスの3つの地方王国の議会選挙は、イギリスとの統合維持をかかげる労働党と、独立をかかげる地方政党とのたたかいとなった。 ●実際の投票では慎重になった人々 スコットランドの場合、選挙が行われる1年前の、昨年5月に行われた世論調査では、スコットランド独立を支持する人は34%だけで、58%の人は「独立せず、イギリス内部に残った方が良い」と答えていた。 だがその後、昨年9月時点の調査では、独立支持が51%にまで増えていた。このままいけばSNPが勝利し、スコットランド独立へと導かれるかもしれなかった。 ブレア政権になってから、スコットランド選出の政治家が、政府内で重要なポストを与えられるようになり、大蔵大臣、外務大臣などをつとめている。スコットランドが分離独立してしまわないようにとられた融和策だった。 ところが、これが裏目に出て「スコットランド人でも外交や金融政策は十分にこなせることが証明されたのだから、独立しよう」などという呼びかけが、スコットランド内でなされるようになった。 かつて、ソ連のゴルバチョフが、ソ連邦の各共和国や東欧諸国に一定の自治権を与えたら、各国の指導者たちは、中途半端な自治に満足せず、逆に以前より強く、もっと大きな自治を求めるようになり、ソ連崩壊につながった、というエピソードと似たような展開に思われた。 だが、今年5月6日の選挙の結果は、独立派のSNPが30%の得票しか集められず、第1党は42%を獲得した統一維持派の労働党になった。 同じ日に選挙がおこなわれたウェールズや、1年早く98年5月に選挙が行われた北アイルランドでも、労働党が第1党になり、独立派の地元政党は多数派になれなかった。 この逆転は、何を意味するのか。一つ考えられることは、実際にスコットランドが独立するとなると、財政面で、スコットランド国民の税金負担が大きくなり、生活が今より苦しくなってしまう、という不安が背景にあるのではないか、ということだ。 イギリスは、スコットランドの併合を維持するため、スコットランドに対する財政配分を厚めにしてきた。一人あたりの生産力(GDP)は、イギリス全体を100とすると、スコットランドは95しかないのに、公共事業などの一人あたり財政支出は、イングランドよりスコットランドの方が24%多い、という逆転状態になっている。 いわばスコットランドは、「公共事業漬け」になっている日本の多くの都道府県と似て、政府から出してもらうお金に依存している割合が大きい。だから、イギリスから独立してしまうと、急に貧しくなってしまう可能性がある。 そのため、実際に投票するときになると考え直し、とりあえず今は独立派のSNPを支持するのはやめておこう、という人が多かった、という可能性がある。 実際、SNPは選挙にあたって、イギリス政府が来年に予定している1%の所得減税を、スコットランドだけは見送り、その1%分を、スコットランド国内の学校や病院に対する財源とする、という政策案を打ち出していた。これが人々にとって「独立したら税金が増える」という象徴として、受け止められた。 ●「イギリス人」と呼べなくなるかも 労働党が、新生スコットランド議会の第1党になったことで、当面は独立に向けた動きは、慎重に進められることになりそうだ。だが、ヨーロッパ全体の状況をみると、近い将来、スコットランドの議会や自治政府がうまく機能することが分かってきたら、次のステップとして、再び独立論議が高まるかもしれない。 というのは、ヨーロッパ大陸では、国家の権限をブリュッセルのEU本部や欧州議会に移していく動きが進んでおり、スコットランドもイギリスの一部としてではなく、独立してEUに加盟しても、一足飛びにEUとつながれるので、十分にやっていけるとも考えられるからだ。 またもう一つ、イギリスで起きている変化として、公共放送であるBBCが、スコットランドやウェールズ人を指すときに「イギリス人」(British)と呼ばず、「スコットランド人」「ウェールズ人」と呼ぶようにする、と決めたことがある。スコットランド人などは、「イギリス人」として、イングランド人とひと括りにされることを嫌がるから、というのが理由だ。 以前、サッカーのイングランドチームのサポーターが、大陸に出かけていって、応援した試合に負けると、地元の勝ち組のサポーターを殴って喧嘩となる、という事件があったとき、ニュースで「イギリス人(British)サポーターが乱闘」などと報じられた。これに対してスコットランド人からは、「イギリス人というとスコットランド人も含まれてしまうが、私たちは野蛮なイングランド人サポーターとは違う。一緒にしないでくれ」という、強い要請があった。 実際に独立しないまでも、少なくとも意識の上では、もはや「イギリス人」とひと括りに呼んでほしくない、という気持ちが、スコットランド人の中に広がっている。 こうしたBBCの決定に対して、新聞のタイムス紙は、「われわれは自分の国の名前を呼ぶことも、許されなくなってしまったのか」と主張する見出しをつけた社説を載せ、「イギリス」(Britain)や「イギリス人」という名称は、正式なものとして認められつづけるべきだ、という論陣を張った。 「イギリス」という存在そのもののアイデンティティをめぐる議論にまで、発展しているのである。そのうち日本語の呼び方も、「イギリス人」というのは使えなくなり、「イングランド人」「ウェールズ人」などと呼ばねばならなくなるかもしれない。
関連リンク新議会や権限委譲など、4つのサイトから成っている(英語)。 上記の4サイトの一つ。イギリスからスコットランドへの権限委譲について解説している専門ページ(英語) スコットランド古来の言葉ゲール語についてなど。
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