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暗闘うず巻くチベット活仏の亡命

2000年1月24日   田中 宇

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 ヒマラヤ山脈のふもと、インドのヒマチャルプラデシュ州のシェラブリン(Sherabling)という村で、大きな寺の建設が進められている。チベット仏教のカギュー派の寺院で、チベット仏教建築にのっとった豪華な5階建て。10年ほど前から建設の計画が始まり、今年11月に完成することになっている。

 この寺は、ダライラマの亡命チベット政府があるダラムサラの近くにあり、カギュー派の高僧であるタイシトゥ・リンポチェ12世(Tai Situ Rimpoche)が、建立事業の指揮をとってきた。

"A Brief History Of The Tai Situpas"という文章の中に、この寺の写真がある)

 タイシトゥ・リンポチェが属するチベット仏教のカギュー派が、最高位の僧侶として頂いているのが、今年初め、チベットからインドに突然やってきて、世界の注目を集めた、カルマパラマ(17世)である。そして、今はダラムサラ郊外の僧院に身を寄せているカルマパラマは、シェラブリンの美しい僧院が完成したら、そちらに移ることになっている。

 カルマパラマもタイシトゥ・リンポチェも、大昔に悟りを開いた菩薩の一人の生まれ変わりとされている。(「リンポチェ」も「ラマ」も尊い僧侶を表す位の称号) チベット仏教では、僧侶はいったん死んでも、新生児として生まれ変わってくる(ことがある)と考えられている。

 高僧が亡くなると、同僚や弟子だった他の僧侶たちが「転生者探索実行委員会」とも呼ぶべき組織を結成し、生まれ変わりを探し出して、幼少のころから高僧となる特訓を施し、あとを継がせる制度が、連綿と続いている。

 ダライラマは観音菩薩の生まれ変わりとされ、今のダライラマ14世は、生まれ変わりの系譜が「ダライラマ」という称号を使ってから14代目になる。チベット仏教には、カギュー派のほか、ゲルク派、サキヤ派、ニンマ派の4大宗派がある。ダライラマはゲルク派の最高位であるが、同時にチベット全体でも最高位の僧侶であると見なされている。序列的には、2番目はパンチェンラマ、3番目がカルマパラマとされる。

▼寺が完成しそうな時期に折り良くやってきたカルマパラマ

 先日、インドにやってきたカルマパラマ17世は14歳だが、1992年に7歳だった彼を探し出したのが、シェラブリンの寺院建設を主導するタイシトゥ・リンポチェである。カルマパラマ17世は、名前をウゲン・ティンレー・ドジェ(Ugyen Trinley Dorje)といい、東チベットに住む遊牧民の息子として生まれていた。

 タイシトゥ・リンポチェはかつて、先代のカルマパラマ16世の補佐役を務めていた。カギュー派の総本山は、チベットの州都ラサに近いツルプ寺(Tsurphu)であり、かつてはカルマパラマもタイシトゥもそこに住んでいたが、1959年に中国政府の弾圧を逃れ、高僧たちはインドのシッキム地方(ネパールとブータンの間にあるヒマラヤ山麓の地域)に亡命した。

 カルマパラマ16世が1981年、亡命先のアメリカで亡くなると、タイシトゥは生まれ変わりを探すメンバーとなり、中国政府に対して、チベットでカルマパラマの転生者を探索させてほしいと要請し、受け入れられた。1992年に探し出されたウゲン・ティンレー少年は、中国政府とダライラマによって、確かにカルマパラマの生まれ変わりであると認定され、もともとのカギュ派の総本山だったツルプ寺に住むようになった。

 だが、本来なら幼少のカルマパラマに教育を施し、高僧として育てる役割を担うはずのタイシトゥは、中国政府によって、チベットにとどまることを許されず、再びインドに戻った。それから7年、カルマパラマは厳冬期のヒマラヤ山脈を越え、タイシトゥのもとにやってきたのだった。

 カルマパラマがインドに来たのは、中国当局の監視下での生活を嫌った本人の意思だったと考えられているが、この記事の冒頭で紹介したシェラブリンの大寺院が、10年もの建設期間を経て、ちょうど今年完成することを考えると、どうも突然の偶発的な亡命であるとは思えない。

▼先代カルマパラマの転生めぐる派閥抗争

 とはいえ今回の亡命事件は、カギュー派のチベット人たちが、中国当局の手にあったカルマパラマを奪還した、という物語であるとは限らない。カギュ派の中では、タイシトゥは中国寄りであると考えられているからだ。

 歴代のカルマパラマは、亡くなる前に、自分がどんな人に生まれ変わるのか、手がかりを遺言として残し、残された高僧たちが転生後の自分を探しやすいようにしていた。カルマパラマ16世は、明確な遺言を残さなかったが、死後9年経った1990年、タイシトゥ・リンポチェは、カルマパラマが自分にくれたお守り袋の中に、遺言があるのを見つけたと発表した。

 その遺言を手がかりに、カルマパラマ17世が探し出されたのだが、その過程で、転生者を探し出すメンバーの一人だった高僧のシャマ・リンポチェ(Shamar Rinpoche)が、遺言はでっち上げられたものだと言い出した。

 この論争の裏には、タイシトゥが「中国政府にお願いして、チベット本土での転生者探しをさせてもらおう」と主張したのに対して、シャマは「それでは転生者の決定に、中国政府が政治的に口をはさむことになり、正しい決定ができない」と反対したことがある。

 シャマは、チベット仏教を弾圧する中国政府を嫌う亡命チベット人たちの支持を受け、インドやネパール、ブータンにいるチベット人の中から転生者の少年を探し出し、1994年、カルマパラマ17世の位に就ける儀式を、デリーで行った。ティンレー・タイ・ドジェ(Thinley Thaye Dorje)という名前のこの少年は、現在もデリーの仏教学院で生活し、亡命してきたもう一人のカルマパラマと対立する姿勢をとっている。

(カギュー派が多いシッキムではなく、インドの首都であるデリーに拠点を置いていることは、インドが中国に対抗する観点から、この問題で何らかの役割を果たしていることを感じさせる)

▼つきまとう中国の影

 シャマ・リンポチェを支持する人々にとっては、突然チベットからやってきた、タイシトゥ派のカルマパラマは、中国政府を嫌って亡命してきたのではなく、逆に中国政府の意を受け、インドの亡命チベット政府を崩壊させるためにやってきた存在と見えている。

 亡命政府があるダラムサラでは、ウゲン少年の一行が、チベットからネパールに国境を越えた直後、中国当局に越境成功を伝える電話をしたという噂話が、まことしやかに流れている。(India Todayの記事による)

 亡命してきたカルマパラマは1994年、江沢民主席の直々の招待を受けて北京を訪れ、「江沢民主席の教えを守ります」と宣言するなど、ダライラマその他、多くのチベット高僧が反中国の立場を取り、亡命しているのと対照的に、中国政府に近い存在である。

 カルマパラマ17世の時は、中国政府とダライラマの両方が、同じ少年を転生者と認定したが、1989年に亡くなったパンチェンラマについては、中国政府とダライラマが別々の少年を転生者だと認定した。中国当局は、ダライラマが認定した少年を軟禁する一方で、自分たちが選定した少年を即位させたが、チベット人の多くは、ダライラマが認定していないパンチェンラマを、本物だと認めていない。

 だから中国にとって、ダライラマも認定しているカルマパラマ17世は、チベット統治上、重要な存在だ。これまで中国政府は、僧侶を弾圧し、チベット仏教の息の根を止めれば、チベット人の反中国意識を消すことができ、統治しやすくなると考えてきた。だが数年前から、それではうまくいかないので、中国政府を支持する高僧を増やし、その影響力を通じてチベット人の反感を消そうと考えるようになった。

 カルマパラマ17世は、そうした中国の新政策を象徴する存在だ。彼を探し出す過程で、中国当局はカギュー派(タイシトゥ・リンポチェ)やダライラマに対して歩みより、その結果、チベット人側も認める初めてのラマ(高僧)が誕生した。(その後、ダライラマは中国当局の戦略転換に気づき、2年後のパンチェンラマ転生の時は、中国側とは別の少年を認定した、と考えるのは、あまりに俗な見方だろうか)

 今回のカルマパラマのインド行きが「亡命」かどうかは、中国政府のチベット政策の根幹にかかわっている。もう中国に戻ってくる意思のない「亡命」なら、中国当局は手なずけようとした少年に逃げられたことになるからだ。

 中国政府は「カルマパラマは自室に置手紙を残しており、それには先代カルマパラマがインドに持ち出した黒い帽子と鐘を取り戻しに行ってきますと書いてあった」と発表した。帽子と鐘は、いわば日本の天皇家の「三種の神器」のようなもの。黒い帽子とは、大昔、モンゴル帝国のフビライ・ハーンが、チベット統治者の象徴として、当時のカルマパラマに贈ったものだ。それを取り返してきます、ということはつまり、インドにいるカギュー派内部の反中国派を潰してきます、という意味だろう。

 とはいえ置手紙の内容は、全く違うものである可能性も大きい。アメリカのカギュー派組織は、置手紙は「布教や勉学のために出国しようとしたが、中国当局が認めなかったので、脱出することにした」という内容だと発表している。

▼ダライラマも狙われている?

 ゲルク派であるダライラマにとって、カルマパラマをめぐるカギュー派の暗闘は、隣家の喧嘩のようなものともいえるが、それだけにとどまらない懸念を秘めている。もしカルマパラマの亡命が、中国当局の企図したものだとしたら、その最終的な意図は、ダライラマの権威を潰すことであろうからだ。

 チベット仏教では、ダライラマやカルマパラマのような高僧が転生する時は、他の高僧にも、誰に転生したか感受できるようになっている。だからここ数年の転生者探しの際、ダライラマの発言が最も重要視された。

 これは逆に見ると、現在65歳のダライラマ14世にいずれ寿命がきた後、それが誰に転生し、誰がダライラマ15世になるかを決める際、カルマパラマとパンチェンラマの発言が、決定的な意味を持つということだ。そしてその2人は、中国当局の庇護のもと、中国共産党の支持者となるよう育てられてきた。

 ダライラマ14世は2年ほど前、「ダライラマの転生は、自分の代で終わりになる。今後は自分が死んだ時、次に高位にいた僧侶が、あとを継ぐことになる」という意味のことを述べ、波紋を広げた。その背景には、自らの死後、後継ぎのダライラマ15世が中国の傀儡として育てられるようにしたくない、という意思があるようにも思える。

 チベット自治区の中国当局は1月16日、伝統的にダライラマの補佐役の地位であるレティン・リンポチェ(Reting Rinpoche)の7代目の生まれ変わりを即位させる儀式を行った。これまで歴代のレティンは、ダライラマの死後、次のダライラマを探し、教育する役割を果たしてきた。即位したのは2歳の男の子だったが、ダライラマは、この子はレティンの生まれ変わりではないと表明した。

 この出来事は、ダライラマの次回の転生に向けた戦いが始まっていることを感じさせるが、同時に、カルマパラマがインドに行った直後に、レティン・リンポチェの即位がなされていることを思うと、中国当局は、カルマパラマがインドから帰ってこないと考えて、次の傀儡作りとして、レティンの即位を実施したとも考えられる。

 その場合、カルマパラマが中国の意を受けて亡命した、という見方は間違っていることになる。中国政府は、カルマパラマの亡命と、レティン・リンポチェの即位とは、偶然に時期が重なっただけだと発表している。

 もう一つ、気になることは、カルマパラマがダラムサラに到着した直後、アメリカ政府のチベット問題担当官(Julia Taft)が、ダラムサラを訪れたことだ。アメリカでは大統領選挙を今年後半に控え、共和党などが、チベットの人権問題に絡めた中国批判を展開しており、カルマパラマの亡命にもアメリカが手を貸したのではないか、と推測されてもおかしくない状況にある。(アメリカ政府も「偶然時期が重なっただけ」と発表しているが)

 カルマパラマがどのような意図で、どの筋の助けを借りてダラムサラにやってきたか、当分は真相が分からないだろうが、どの筋の策動にせよ、「転生」というシステムはチベット人に、あまり幸せな結果を生み出していない、といえるのではないだろうか。それとも、転生を「システム」と呼んでしまうところが、俗人の浅はかさなのか。



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