パナマ運河:興亡の物語2000年1月6日 田中 宇パンアメリカン・ハイウェーは、北はアラスカから南はアルゼンチン南端まで、南北アメリカを縦断する、長さ2万キロ以上の道路だ。この道は1925年、南北アメリカの一体感を増すために建設が提起され、アメリカ(合衆国)の援助などに頼りつつ、建設が続けられてきた。 道路建設を主導したアメリカの、中南米支配の道具の一つとして計画された側面もあるのだが、ハイウェイといっても、その道程のほとんどは片側1車線の細い道で、舗装されていない部分も多い。とははいえこの道は、ニカラグアやコスタリカ、パナマ、エクアドルといった国々では、国内の最重要幹線となっている。 このハイウェー、全行程を走り通すことはできない。途中で1カ所だけ、道がつながっていないからだ。中米と南米の間の「くびれ」の部分に位置する、パナマとコロンビアの国境地帯の160キロである。 この部分が開通していないのには理由がある。一つは、この地域は熱帯雨林のジャングルで、道路を作ると自然破壊が進むとして、1970年代に建設が進められそうになった時、アメリカの自然保護団体が反対したためだ。 また「口蹄疫」という家畜の病気が、コロンビア以南には存在するが、パナマ以北には存在しないため、道ができることによって中米や北米に感染することを恐れたこともある。その他、この地域の原住民の生活を守る意味もあると、英文ガイドブック「Footprint Handbook」の中米版に書いてあった。(このシリーズのガイドブックは、歴史的背景を理解しながら海外旅行したい人に向いている) ▼アメリカの利権を守るためのジャングル保護? 15年ほど前に最初に中米を旅行した時以来、私はどうも、これらの説明には納得できなかった。この部分がつながっていないために、南米と北米との陸上交通は遮断されたままなのである。これでは、パンアメリカン・ハイウェイを作った意味がない。 (パナマとコロンビアを結ぶ道は1本もない。ガイドブックには、どうしても陸路にこだわりたい人々のために、川舟と徒歩で、何日もかけて踏破する方法が書かれている) ところが先日、パナマの建国時の歴史を知って、勝手に合点が行った。パナマはもともと、コロンビアの一部だったが、アメリカ合衆国がパナマ運河を作るため、1903年にパナマの人々に軍資金を渡してけしかけ、独立させた国である。 アメリカは最初、コロンビアに対して運河建設を持ち掛け、いったんは政府間で合意したが、コロンビア議会が反対し、断られてしまった。そこで、かねてからコロンビアに対する独立傾向が強かったパナマに対し、運河予定地をアメリカに永久に貸すことを条件に、独立を擁護してやる約束をした。パナマ独立とともに建設が始まり、11年かけて建設された運河は、アメリカが太平洋に覇権を広げるために作られたものだ。 そんな経緯なので、もしパナマとコロンビアの間に道があると、コロンビアの軍やゲリラが、簡単にパナマに来れるようになり、パナマ運河の安全も脅かされかねない。運河というアメリカの利権を守るため、わざわざ道を作らずにいる・・・。パナマに関する資料には書いていない、そんな説明が成り立つのではないか、と考えている。 ▼日本の近代化をもたらしたアメリカの太平洋進出 パナマ運河の建設を最初に計画したのは、ヨーロッパ人として初めてこの地域を訪れたスペイン人で、16世紀のことだった。 当時スペインは、南米のペルーの鉱山から掘り出した銀を、船でヨーロッパに運んでいたが、ペルーの港からパナマの太平洋側まで船で運んだ後、銀をロバの背に乗せ、パナマの地峡を4日がかりで越えてカリブ海側の港まで出し、再び船に乗せて大西洋を渡った。そうした手間を省くため、運河を作ろうとしたが、実現しなかった。 銀の運搬については「大西洋と新大陸の富:スペインの南米運営」(小田康之)を参照。 次に運河建設の機運が高まったのは、19世紀後半。その100年ほど前のイギリス産業革命に始まった欧米の工業化で、欧米諸国は製品の輸出先や原料の輸入元を確保する必要が生じ、イギリスを中心とする欧米は、アジアへの植民地支配を強化した。1842年には中国がアヘン戦争に敗れて植民地化の道をたどり、1858年にはインドのムガール帝国が滅び、イギリスの直轄領となった。 蒸気船の開発などによって、世界的に船の往来が盛んになり、航路の要衝をおさえることが、欧米諸国にとって重要となった。1869年には、地中海とインド洋(紅海)をつなぐエジプトのスエズ運河が開通し、イギリスが支配した。 そうした流れの中で、大西洋と太平洋をつなぐ運河の建設計画も、注目されるようになった。 パナマ運河では、アメリカとフランスの競争になった。フランス勢は1880年に、スエズ運河を作った技師レセップスが会社を作り、パナマ運河建設にとりかかったが、作業員の多くが黄熱病やマラリアなどの病気にかかってしまい、失敗した。その後をアメリカが継ぎ、1914年に運河を完成させた。 当時のアメリカは、1869年に大陸横断鉄道が完成し、大西洋岸から大陸を西に向かった開発が、太平洋岸のカリフォルニアにまで達し、さらにその先の太平洋へと、勢力を拡大し続けていた。この動きは、日本にも多大な影響を与えている。 1853年、浦賀にアメリカ人ペリーの軍艦がやってきて、日本が近代化するきっかけを作ったからである。アメリカ東海岸から西海岸への航海を可能にしたパナマ運河は、アメリカの太平洋進出に不可欠なものだった。 その後、日本が真珠湾を急襲し、太平洋への覇権を目指したが敗れ、パナマ運河の完成から現在まで100年近く、太平洋はアメリカの海であり続けた。 ▼中南米との関係悪化を懸念して運河を返すことに パナマ運河を取り巻く環境が変化したのは、第2次大戦後。アジアやアフリカの独立運動に触発され、パナマでもアメリカから運河地帯の返還を求める動きが起こった。 1956年にはエジプトがスエズ運河を国有化したため、50年代の後半から60年代にかけて、パナマでは反米運動が続いた。1959年にはキューバ革命が起き、中南米全体に社会主義運動が広がろうとしていた。パナマ運河は、中南米の運動家たちから、アメリカによる支配の象徴として見なされるようになった。 中南米諸国との関係を悪化させることを恐れたアメリカは、当時すでに世界の交通の中心が船から飛行機へと交代し始めていたこともあり、パナマ運河地帯をパナマに返還し、運河をパナマに引き渡すことを検討した。1979年の新条約で、アメリカは1999年末に運河を引き渡すことが決まった。 だが返還に対しては、アメリカ国内での反発も強かった。運河はアメリカの東と西を結ぶ重要な航路の一部であり、国家安全保障の要だった。運河の土地はパナマのものであるべきかもしれないが、運河自体はアメリカが作ったものだ、との意識もあった。 アメリカは、返還後の運河が不安定な状況に置かれたり、パナマが反米国家になることを恐れた。パナマの政情はもともと不安定で、軍によるクーデターが何度も起きていたが、運河の返還が決まった後、ノリエガ将軍を頂点とする軍の勢力が強くなった。 ノリエガは、隣国コロンビアの麻薬組織との結びつきを強め、パナマをアメリカへの麻薬ルートとして機能させ始めた。彼はまた、1989年の大統領選挙に出馬したが落選が確実になると、軍として選挙の無効を宣言し、新たに国家最高指導者のポストを作り、89年12月に自ら就任した。 その5日後、運河の状況が不安定になることを恐れたアメリカはパナマに軍事侵攻し、ノリエガを逮捕してアメリカに連行し、裁判にかけた。 ▼米軍に撤退してほしくないパナマ人 それから10年たった昨年の大晦日、条約どおり米軍はパナマ運河地帯から撤収し、運河はアメリカからパナマに引き渡された。世界的な「ミレニアム」のお祭り騒ぎの中、運河引き渡しをめぐる話題は大してニュースにならなかったが、パナマでは国家的なお祝いがなされた。 とはいえパナマにとって、アメリカの撤退は手放しで喜べることではなかった。アメリカの影響下から出て自由になりたいという、ナショナリズムの精神は満たされたが、米軍がいなくなることで、政情が不安定になる可能性が増し、失業も増えてしまうからだ。パナマの新聞「La Prensa」の世論調査では、回答者の71%が、今後も米軍基地が存続した方が良いと考えている。 パナマのお金は「バルボア」という単位だが、その紙幣は存在しない。1バルボアは1ドルと等価値で、米ドル札のみが流通している。パナマは経済的にも、アメリカに強く依存しているのである。 パナマ運河地帯にあるハワード米空軍基地は、アメリカに麻薬を輸出するコロンビアの麻薬組織の拠点を調査して潰すための役割も果たしてきた。だが米軍の撤退により、基地は閉鎖された。 ノリエガ将軍を逮捕しに行った時にアメリカが恐れていた、パナマの麻薬ルート化が、再び懸念されている。今やパナマをコロンビアの麻薬組織から守っているのは、国境地帯のジャングルの防波堤しかないともいえる。 ▼代わりにやってきた中国勢 もう一つ、アメリカの撤退と前後して、パナマに上陸してきた人々がいる。太平洋の対岸からきた、中国と台湾である。 台湾を国際的に孤立させたい中国は、台湾と外交関係を結ぶ国とは国交を持たないと宣言している。台湾と国交を結んでいる国は29カ国しかないが、パナマはその中で最大規模の国である。台湾はこれまでパナマに対して、工業団地の建設や、運河周辺のコンテナ港の運営などの支援をしてきた。 そこに、何年か前から入り込んできたのが中国だった。中国は台湾に対抗し、パナマから台湾を追い出したいことに加え、対米輸出が増え、輸出ルートであるパナマ運河や太平洋航路に、影響を持ちたいとも考えている。 中国政府上層部との関係が深い、香港の海運・開発会社であるハチソン・ワンポアが1996年の入札を経て、パナマ運河周辺の4つのコンテナ港のうち2つについて運営を請け負うようになっている。パナマ政府自体も、しだいに中国との関係を強めており、近い将来、台湾から中国に外交を乗り移る可能性も出ている。 ▼運河が中国に奪われる?・・・実は共和党の選挙活動 こうした動きに対して、運河返還の直前、世界に対する中国の覇権拡大を恐れるアメリカ共和党が警告を発した。 ことの起こりは昨年12月8日、パナマ撤退にともなう経済的な影響を判定する公聴会がアメリカで開かれ、ハチソンとコンテナ港運営の入札で戦って敗れたアメリカ企業が「あの入札には疑念がある」として、中国政府がパナマ政府に手を回した可能性がある、とほのめかした。 普通なら、入札に負けた会社の言いがかりとしか扱われなかったかもしれないが、アメリカ大統領選挙まで1年を切り、民主党の対中国政策を批判したい共和党筋は、これを機に「パナマ運河が中国に奪われてしまう」と懸念を煽るキャンペーンを展開した。 共和党のワインバーガー元国防長官は「世界的な交通の要衝であるパナマ運河を支配する機会を、中国が見逃すはずはない」と発言し、運河地帯からの米軍撤退を見直すべきだと主張した。 だが、これは100%選挙用の発言でしかなかったようだ。パナマの外務大臣は「そんなにハチソンが脅威なら、ハチソンの株はロンドン市場に上場しているのだから、アメリカ勢が買い占めればいいではないか」と発言し、アメリカを牽制したが、アメリカはそんな挙には出なかった。 ▼もはや重視されないパナマ運河 正式な返還日から半月前の12月14日には、アメリカの政府代表がパナマを訪問し、返還式典が行われたが、これにはクリントン大統領は行かず、行く予定だったオルブライト国務長官も、中東和平交渉で忙しいことを理由に、直前にキャンセルしてしまった。アメリカ政府の担当者は訪問団の人選に苦労し、結局団長をつとめたのはカーター元大統領だった。すでにアメリカにとってパナマ運河は、重要ではないのである。 この世紀末、香港やマカオが中国に返還される半面、パナマ運河はアメリカの手を離れ、代わりに中国や台湾がパナマに影響力を広げようとしている。こうした流れからは、アヘン戦争やペリーの浦賀来航から150年経って、ようやくアジアが太平洋において、欧米勢と並ぶ存在になったと読み解くことができる。 それとも、アメリカが不要になった航路の「お下がり」をアジア勢がもらい受ける、というだけのことなのだろうか。
参考になった英文記事
日本語の関連ページ
田中宇の国際ニュース解説・メインページへ |