欧州に密入国移民を送り出す「闇のシルクロード」

1999年10月19日   田中 宇

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 インドからパキスタン、イラン、トルコを通ってギリシャや東欧に至る旅行ルートは、欧米や日本の格安旅行者(バックパッカー)にとって、おなじみのものだ。この道は、歴史的にも「シルクロード」の一部をなす、由緒あるコースである。

 とはいえ、この道をたどるのは、「自分探し」をする余裕のある、先進国の若者旅行者ばかりではない。先日、イランに行ったときに聞いことの一つのは、アフガニスタンで栽培・加工された麻薬がこのルートを通って、イラン、トルコを抜け、ヨーロッパへと大量に運ばれているということだった。

 イラン人に聞いた話では、アフガニスタンとイランの国境では、アフガン側で親子のラクダを捕まえ、子供のラクダだけイラン側に連れていき、親ラクダの背中に麻薬を詰めた箱を乗せ、野に放すのだという。

 国境付近は砂漠や荒れ地で、柵などはないから、ラクダは自由に越境できる。親ラクダは子供のにおいをかぎ分けて、イラン側にやってくるので、人間が付き添うことなしに、アフガニスタンからイランへと、麻薬を運べる。イラン兵が国境でラクダを捕まえても、誰が積荷の麻薬を乗せたのか分からないので、麻薬ブローカー自身は逮捕される危険がない。

 その後麻薬は、イランからトルコ、トルコから東欧へと、当局の目を盗んで、消費地であるヨーロッパへと運ばれるのだが、こうした「闇のシルクロード」を通って運ばれる「積み荷」には、人間自身もいる。パキスタン、イラン、トルコなどから、ヨーロッパに働きに行く、密入国移民の流れである。

▼戦禍を逃れてヨーロッパに向かう人々

 先週末、フィンランドのタンペレという地方都市で、EUの会議が開かれた。テーマは、統合しつつあるEU域内の犯罪防止や、違法入国者の取り締まりに関してだった。

 EUがこの手の全体会議を開くのは初めてで、開催の背景には、ここ数年、EU域内の国境での出入国が自由化されているのに伴って、たとえばイタリアに密入国した移民が、より高い収入を得やすいドイツなどに、簡単に移動することができるようになったことがある。

 イタリアに密入国する人々の多くは、イラン、トルコ、バルカン半島を通る「闇のシルクロード」を通ってやってくる。国籍は、ルートの途上にある各国だが、昨年から今年にかけては、例外的にコソボのアルバニア人が多かった。戦争を逃れ、ヨーロッパに逃げ出した人々である。

 コソボの戦争が終わった今では、アルバニア人は減り、数年前から密入国者のトップであったクルド人が、再び主力となっている。その他、イラン人、アフガニスタン人、パキスタン人、バングラディシュ人などが、このルートに乗ってくる。

 クルド人は、イラク、トルコ、イランにまたがって住んでいる。彼らの悲願は、自分たちの民族国家を持つことだが、彼らが住んでいる3つの国々の政府は、いずれもそんなクルド人を弾圧している。

 1991年に湾岸戦争が起きた直後には、イラク政府の統治力が弱まったことを利用して、イラク北部のクルド人が、分離独立を求めて蜂起した。だがゲリラ軍は、反撃してきたイラク軍に破れ、それ以来、イラク政府のクルド人に対する弾圧が強まった。さらに、いくつかのクルド人組織の対立状態がエスカレートし、内戦状態も続いている。

 国境を越えたトルコ東部でも、クルド人はトルコからの分離独立を目指すゲリラ戦を続けており、トルコ当局の激しい弾圧を受けている。人々の生活は厳しく、多くの人々が、戦禍を逃れてヨーロッパに移住したいと思っている。

▼冷戦終結とともに始まった出稼ぎトルコ人の受難

 トルコの人々は1950-70年代、高度経済成長で人手不足だった西ドイツに、出稼ぎに行った歴史がある。行った人の多くは、そのままドイツに住んでおり、トルコのクルド人の中にも、親戚がドイツに住んでいる、という人も多い。そのルートで湾岸戦争後、トルコからドイツなどへのクルド人の流れが始まった。

 だが、ドイツはそのころちょうど、東ドイツを併合することになった。東ドイツの国営企業の多くは、社会主義の終焉とともに倒産状態となり、統一ドイツの労働市場は供給過剰になった。かつて必要とされたトルコ人労働者は、必要とされない傾向が強まった。

 そんな中で、クルド人たちがドイツへの移民を目指しても、受け入れられなかった。どうしてもドイツ、もしくは周辺のヨーロッパ諸国に行って働きたい、という人は、闇のルートに乗り、密入国せざるを得なくなった。

 ヨーロッパを目指すクルド人の多くは、西欧のどこかの国に親戚または親友がおり、そこを目的地にしている。フランスやイタリアなどでは、密入国者であっても、何年か住めば合法的な居住権をくれるケースもある。数年間、金を稼いで故郷に帰るつもりの人ばかりでなく、西欧に永住しようと考えてやってくる人も多い。

 中には、息子を一人でヨーロッパに旅立たせる親もいる。少年のうちにドイツ語やフランス語を覚え、仕事につけば、トルコやイラクで暮らすより、ましな人生が送れるだろう、という親心である。

▼イスタンブール、闇の「旅行代理店」

 トルコからヨーロッパに入る密入国ルートとしては、「青い道」と「緑の道」の2種類がある。「青」は海の色を表し、トルコから、ブルガリアなどを通ってアルバニアに行き、そこから小さなボートでイタリア南部の海岸に渡るルートだ。もしくは、トルコからギリシャに密入国し、アテネからイタリアに向かう船を探す。

 一方「緑」は木々の色で、「緑の道」とは陸路のこと。トルコからブルガリア、ユーゴスラビアなどを通り、オーストリアまたはイタリアに入る、山越えの道である。いずれの旅程も「旅行代理店」はイスタンブールにある。「代理店」の多くは、麻薬や武器の密輸を手がけている組織が、人間の輸送にも手を広げたものだ。

 イスタンブールからトルコ・ギリシャ国境まで「代理店」の車に乗り、国境は密入国者だけで徒歩の自力で横断し、ギリシャ側の最初の町で、向こう側のエージェントが待っているというのが、500ドル前後の「格安コース」だ。国境の向こう側までエスコート付きということになると、リスクが大きいので、旅行代金は3000ドル程度に上がる。(AP通信の記事による)

 格安コースの場合、国境近くに流れの速い川や、ギリシャ側の地雷原などがあり、それを無事に越えられない人も多い。越境に挑戦した3人に一人が、ギリシャ側のエージェントの元に現れずに終わる。祖国を離れた以上、危険があるからといって、途中で引き返すわけにはいかない、という決意が、人々を国境に向かわせるのだろう。

▼アルバニアからイタリアへの海の道

 このルートのもう一つの中継地点は、アルバニアの首都ティラナである。トルコからギリシャに入っても、そこに賃金の高い仕事が多いわけではない。もう少し経済大国でないと、出稼ぎをするうまみがない。そこで、イタリアに行き、そこから他のEU諸国に入ることを目指す人々が多い。

 アルバニアとイタリアの間には、アドリア海があるが、両国の間は最短で70キロ。晴れた日には、対岸の山々ががかすんで見えるぐらいの距離である。中世のシルクロードの終点が、イタリアのベネチアであったように、現代の闇のシルクロードの終点も、イタリアなのである。

 ティラナの「旅行代理店」は1990年代初頭、アルバニアが社会主義をやめ、欧州最貧国の一つとして「西側」入りして以来、イタリアなど西欧諸国に出稼ぎ者を送り出してきた、実績と経験がある。

 昨年後半、隣のコソボに住んでいるアルバニア系住民(民族的には同族)が、セルビア当局による強い抑圧を受けるようになってから、コソボの分離独立を目指すゲリラ組織「コソボ解放軍(KLA)」に、資金や武器を調達したのも、ティラナで密入国代理店を経営する、闇の組織が中心だった。彼らは、アフガニスタンなどからヨーロッパへの麻薬密輸にも携わっており、そのため欧米では「KLAは麻薬を資金源にしている」という批判が出た。

 そんな彼らが提供する「サービス」は、小さな漁船のよう木造船の船内に、30人以上の密入国者を詰め込んで、夜中にアルバニアの漁港を出発し、イタリア側の岸の何10メートルか手前で、全員を海に飛び込ませ、泳いでイタリアに上陸してもらう、というものだ。これで旅費は500ドル程度。乗客のほか、麻薬や機関銃などの密輸品も積み込むことがあるという。(The Economistの記事による)

 とはいえこの海域は、ヨーロッパで最も密入国に弱い地域とされている。それだけに、イタリア当局は密入国者の取り締まりに力を入れており、毎晩100人以上が逮捕されている。イタリアの警備艇に見つかると、密入国船の運転手は、乗客を銃で脅すなどして、全員を海に飛び込ませ、船を身軽にして全速力で逃げようとする。

 警備艇は、船を拿捕した後、乗客の救助に当たるが、夜間のことなので、運が悪い乗客は、そのまま溺死してしまう。もし、うまいことイタリアに入国できなかったら、その後3回目まで、無料で密入国船に乗ることができる、といううたい文句で、乗客集めに精を出すティラナの「代理店」もある。

▼捕まってもドイツに行ける

 捕まった密入国者は、近くの収容施設に入れられる。だが、この海岸では年間2万人以上が逮捕されている。あまりに人数が多いので、全員をアルバニアまで強制送還していては、費用がかかりすぎる。そのためイタリア当局は、収容施設に一定期間置いた後、イタリア国外への退去命令を出して終わることが多い。

 この時点で、問題はイタリアだけのことではなくなる。イタリア政府は1997年10月、EUの他の国との国境で、出入国管理の検査を行わない体制に切り替えている。つまり、パスポートを持っていない人でも、イタリアからオーストリアやフランスに、自由に行くことができる。イタリアの収容所から解放され、国外退去を命じられたクルド人やアルバニア人たちは、喜び勇んで、賃金がより高いドイツに向かってしまう。

 EUにとって、域内の国境検問をなくし、人や商品の移動を自由化することは、戦後まもなくEUの前身組織が設立されて以来、40年間の悲願であった。 移動を自由にすることによってはじめて、単一市場と呼べる存在になり、地域統合による経済的な強みを発揮できるからである。

 この夢は1985年に、ドイツ、フランス、オランダなどEUの中核5カ国の間で「シェンゲン協定」という名前で具体化する。協定にはその後、イタリア、スペイン、ギリシャ、オーストリアなども参加し、1995年以来、準備の整った国から順次、実施され出している。

 シェンゲン協定による新体制は、域内の各国境を管理できない分、EUと外部諸国との国境の警備を厳格にして、密入国移民が入ってこないようにする必要がある。ところが、上で紹介したイタリア南部の海岸などでは、完璧な警備は、非常に難しい。

 たとえば、中国の福建省から日本の九州へ漁船で渡り、密入国をするには、何日間もの航海が必要で、やってくる船の数も限られている。だが、対岸まで70キロのアルバニアからは、毎晩何隻もの密航船がやってくるので、取り締まりきれない。一隻を捕まえている間に、他の船がイタリア側に到達してしまう。

▼EU拡大とともに広がる懸念

 こうした、EUと外部との国境警備の難しさは、海上に限ったことではなく、「緑の道」の陸路でも同じである。スロバキアやスロベニアなど、EU外部の国と接しているオーストリアは、97年12月にシェンゲン協定を実行し、ドイツなどとの国境での検問をやめたが、その直前には、外部からオーストリアへの密入国が簡単にできてしまう、とドイツから懸念の声があがった。

 また、今後EUには、ポーランドなど東欧諸国が相次いで加盟することになっている。そうなると、現在はドイツとポーランドの間にあるEUの境界線が、ポーランドとベラルーシやウクライナとの間に移動することになる。ドイツは巨額の予算をかけて国境を警備しているが、同じことがポーランドにできるか、疑問視する人もいる。

 しかも、ポーランドなど東欧の国境には、人がほとんど入らない森林地帯が何10キロも続いている地域がいくつもある。かなり警備を強化しても、密入国者を防ぐことは難しいと予測できる。

 結局のところ、根本的な解決策としては、EU内部だけでなく、その外の国々も豊かになって、EU諸国に出稼ぎにくる必要がない状態を作るしかない。 それが空論にすぎない以上、今後もヨーロッパに向かう、密入国「シルクロード」の交通量は減らないだろう。


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