もうひとつの「日本人」(2)死の行軍

1999年3月26日  田中 宇


 この記事は、もうひとつの「日本人」(1)敗戦6日前の出征 の続きです。

 呉さんの故郷だったセッケンの駅を出発した出征列車は、10両程度の長い編成だった。1000人以上の初年兵が乗っており、ほとんどが朝鮮人だった。

 関東軍が、潜在的に反日意識を持っている人が多い朝鮮人をあえて徴兵したのは、日本人だけでは兵力が不足していたためだった。精鋭といわれた関東軍の主力は、1944年のうちに南方戦線に回され、満州はもぬけの空の状態だった。1期生と2期生を合わせると、約7万人の朝鮮人が徴兵された。

 日本人には45年7月上旬に召集令状が出され、役人や会社員、開拓団員など20代から40代の人たちが、すでに根こそぎ徴兵されていた。在満日本人30万人のうち、約20万人がこの時に動員され、ハイラル方面に配属された兵士たちは、大興安嶺の山の中で陣地構築の工事をしていた。呉さんたちも、この工事に参加する予定になっていた。

 ソ連が8月9日に攻めてくることを、日本軍はほとんど予期していなかった。当初、ソ連軍はドイツとの戦争で手一杯だから、日本軍に対して攻撃してくることはないだろう、と考えられていた。

 その後、45年5月にドイツが降伏すると、ソ連は極東方面に軍隊を移動し始めた。日本軍は兵力をかき集め、陣地構築や軍事教練を始めたが、ドイツが降伏した後でさえ、日本軍の幹部の間では「ソ連の侵攻は早くても8月下旬」と考えられていた。

●ソ連軍に対抗するのに機関銃が3丁だけ

 呉さんらは、部隊に到着する前から、すでにソ連軍の攻撃を受けていた。故郷の図們を出発した翌日の8月10日朝、出征列車が目的地である東ハイラルの駅に入りかけて速度を落としていたとき、見張り番の兵隊が「敵機襲来!敵機襲来!」と叫んだ。

 呉さんらは上官の命令に従って、急いで窓を開け、そこから一人づつ飛び降りて、線路のわきの麦畑の中に身を伏せた。こちらに武器がほとんどないということを知っていたのか、爆撃機はかなり低いところを飛んでおり、ソ連軍の赤い星のマークがはっきり見えたという。

 列車から飛び降りた呉さんたちは、麦畑の中を進み、ハイラル市街地の東にあって「東山」と呼ばれていた高台にある、515部隊の本隊に向かった。途中、再度ソ連戦闘機の爆撃を受けた。515部隊に配属されることになったのは、約300人の朝鮮人初年兵と、引率のために同行していた日本人の古参兵が約100人だった。

 古参兵は一人に1丁ずつ、日本軍の三八式銃を持っていたが、朝鮮人兵士には最初から最後まで、何も武器は与えられなかった。このほかに軽機関銃が3丁ばかりあったが、これだけでソ連軍の戦闘機に対抗するのは無理だった。当時の関東軍は、武器もほとんど南方戦線に持ち去られていたのだった。攻撃を受けても、道ばたの畑の中に伏せているしかなかった。本隊についたのは昼すぎだった。

 ソ連軍の砲撃の音は、本隊に着いたときから、すでにかすかに聞こえており、時間がたつにつれて激しくなっていった。ソ連軍は8月9日午前零時に、ソ満国境にある満州里の町を襲い、民間人を含む日本人を全滅させた後、一日かけてハイラルまでの200キロの道のりを行軍し、ハイラルの町を包囲したのだった。

 呉さんたちは本隊に着くと、まず倉庫に連れて行かれた。中には、新品の軍服や飯盒や背嚢といった備品、乾パンや缶詰などの食糧があった。武器以外の物品は、比較的豊富に残っていた。だが、もう敵が近くまで迫っている。上官は、呉さんたちに軍服や備品、持てるだけの食糧を持たせた後、倉庫に火をつけて燃やしてしまった。敵に取られて使われるよりは、燃やしてしまった方が良い、という判断だったらしい。

 日が暮れると、部隊は大興安嶺の陣地に向かって退却することになり、兵舎にも火を放った。見おろすと、市街地もあちこちで火に包まれていた。退却する日本人たちが、下の市街地でも火を放っているのだった。空が真っ赤だった。砲撃の音も激しく、すでにソ連軍が市街に入ったようだった。

 部隊が正門をくぐって出発しようとしたその時、斥候兵が走って戻ってきて「前方500メートルのところに敵が現れた」と知らせてきた。その報告が終わらないうちに、砲弾が飛んできた。部隊はあわてて向きを変え、裏門を駆け抜けて、道のない丘の草原を、なだれを打って敗走し始めた。

●撃たれた部分ではなく、頭に衝撃が走った・・・

 その夜は一晩じゅう、行軍を続けた。翌8月11日も、そのまた翌日も、一日中、ほとんど休みなしに歩き続けた。目的地は、ソ連軍と戦うために作られた大興安嶺山中の陣地だったが、正規の道路はすでにソ連軍の手に落ちている可能性があったため、山中の道なき道を歩き続けた。

 ハイラルを出るときに持たされた食糧はすぐに尽き、飢えと睡眠不足でげっそりと頬がこけて、まわりの人が誰なのか見分けがつかないほどだった。休むのは夜の2-3時間だけだった。先頭を行く指揮官の数人は馬に乗っていたが、他の兵卒は歩いていた。

 ハイラルを出てから4日目の8月14日早朝、短い睡眠をとった呉さんたち一行は、再び行軍隊形をとって歩き出した。ハイラルから南東に150キロほど行った、ゆるやかな丘陵地帯の草原だった。呉さんは隊列の後尾近くにいた。

 部隊が、ゆるい丘の斜面を下り、前方の別の丘に向かって歩いていた時だった。「敵だっ!」「ロスケだっ!」。前を行く兵士が叫んだ。前方の丘のふもとに散開している敵が、蟻の大群のように見えた。一目見て、圧倒的に数が多いことが見て取れた。

 「伏せっ!」。部隊長の命令が、かすかに聞こえた。声が聞こえたのと、敵の一斉射撃が始まるのと、ほぼ同時だった。持ち合わせの武器で対抗するが、ほとんど相手にならない。第一、その場のほとんどを占める朝鮮人兵士は、全く武器を持っていなかった。

 この時だった。呉さんは突然、大きな棍棒で後頭部をこっぴどく殴られたような、電撃という言葉がぴったりするような、強い衝撃を受けた。思わず全身で「やられた」と感じた。雨あられと降る銃弾の中で、頭を上げることはできないが、どうやら左の腿の上の方に、弾があたったらしい。

 あとで考えると不思議だが、撃たれた部分ではなく、頭に衝撃が走ったのだった。撃たれた部分自体は、ほとんど痛みを感じなかった。しばらくして、また同じような衝撃を受けた。今度は右の股のようだった。ひどい出血で、じきに意識がもうろうとしてきた。まるで夢を見ているような心地だった。

 そのうちに、弾の音は止んで、代わりに敵があげている勝ちどきの声がかすかに聞こえてきた。彼らは抵抗力がなくなったこちらに向かって来ているに違いない、と思いながら、呉さんはそのまま地面に倒れていた。すると、勝ちどきの声に混じって、泣き声がかすかに聞こえる。顔をそっと上げて、声のする前方をちらりと見た。

 すると、2人のソ連兵が向こうを向いて立っていた。一人はどこか負傷したらしく、何か大きな声でわめきながら泣いており、もう一人がその男に包帯を巻いているところだった。このまま倒れていても、いずれ彼らにとどめを刺されると思った呉さんは、すきを見て立ち上がって逃げようとした。

 すると、ソ連兵たちはすぐに気がつき、銃を構えて一発撃った。銃弾で呉さんの右耳の上縁がかすめ取られた。撃った兵士は、倒れた呉さんのところに急いで近寄ってきて、手首や上着のポケットなどを探った。腕時計や万年筆があるのかどうか、調べたようだった。何も取るものがないとわかると、彼は呉さんをその場に蹴り倒した。

 しばらくすると、別のソ連兵がやってきて、倒れている呉さんを、100メートルほど引きずって動かした。そこには、先に捕らえられた日本兵が15-16人、気が抜けたように座っていた。やがて別のソ連兵が2人現れて、起立を命じた。

 彼らは呉さんらが足に巻いていたゲートルを解いて布の帯を作り、それで両手を縛り上げ、お互いを数珠つなぎにした。その状態で、呉さんたちは引っ張られて行った。

●戦友を亡くしたソ連兵の恨みで殺されかける

 あたり一面は、戦友の死体でおおわれていた。首のちぎれ飛んだもの、手足のもぎ取られたもの、背中に大きな穴があいているもの。とても直視できない惨たらしい光景だった。指揮していた班長や部隊長も、死んだに違いない。

 呉さんたちは、小高い丘の上に連れられて行き、膝を折って座らされた。目の前には、機関銃が一丁、据えてあった。「ここで殺されるのだ。いよいよ最期の瞬間がやってきたのだと絶望的な気持ちになった。だがその直後、どうせ死ぬものだと覚悟が決まると、自分でも不思議なほど、心の落ちつくのを感じた」。

 呉さんは、隣に座っている仲間に肩をぐっと押しつけてから目をつぶり、心の中で故郷の母を拝みながら、弾が撃たれるのを待っていた。

 だが、弾は飛んでこなかった。ソ連兵はしばらくの間、呉さんら捕虜を幾重にも取り巻いて、見せ物にしていた。ものすごい速さで喋りまくる話し声や怒鳴り声、笑いさざめく声などが聞こえた。呉さんたちの頭を殴ったり、横腹を蹴ったり、石を投げてくる者もいた。

 一人のソ連兵が、先刻の戦闘の際、どこかで拾ったらしい日本刀を持って、呉さんの方に近づいてきた。彼は両手で軍刀を高く振り上げ、首筋めがけて一気に振り下ろした。「しかし、私の首はついていた。首の前で寸止めしたんです」。回りからどっと笑い声がわき上がった。

 それがすんだかと思うと、再び別のソ連兵が、日本の銃剣を持って現れた。彼は何かを叫びながら、近くに寄ってきて、前に仁王立ちになった後、呉さんの隣で縛られていた戦友を、いきなり引きずり出した。ソ連兵の目には、激しい怒りの色が見て取れた。

 ソ連兵は気違いじみた声を張り上げ、銃剣で戦友の胸を、力の限り何回も突き刺した。剣の先が胴体を突き抜けて、何度も背中から現れた。さらに剣を抜き、今度は背中から突きだした。戦友は血に染まり、たちまち息絶えた。今にして思えば、どうやらそのソ連兵は、先刻の戦闘で、親しい戦友を亡くした恨みを、呉さんら「日本兵」を刺すことで晴らそうとしていたようだった。

 ソ連兵は、一人を刺し殺しただけでは満足できないらしく、呉さんの近くからもう一人を引き抜いて、同じように刺し殺した。その次は呉さん自身の番だった。腕を取られ、前に引っ張り出された。

 その時だった。どこからともなく、一人の上官らしき兵士が現れた。肩の上の大きな肩章が目を引いた。どっしりとした体に赤らんだ顔をした男だった。彼は鬼のような形相の殺人兵の肩を軽くたたき、人殺しをやめさせた。危機一髪で、呉さんの命は救われた。

 この上官は、片言の日本語で話しかけてきた。部隊の名前、入隊から現在までの経緯などを聞き出すと、彼はうなずいて、立ち去っていった。

●足を怪我したまま250キロを歩かされる

 その日の午後から、生き残った呉さんたちは、捕虜としてソ連軍の行軍に加わって歩かされた。撃たれた足は、骨は折れていないらしく、痛みはさほどなかったが、出血がなかなか止まらなかった。ズボンが血まみれになってしまい、脱ぎ捨てなければならなかったので、下半身下着だけになって歩き続けた。

 行軍は、翌日の8月15日も続いた。日本が降伏したことは知らなかった。呉さんは怪我をしているので、速く歩くことができない。どうしても一行から遅れてしまう。遅れるたびに歩哨兵から怒鳴られたり、銃を突きつけられたりしたが、必死になって歩いても、なかなか追いつけなかった。

 しびれを切らした歩哨兵は、近くにいた馬の尻尾につかまらせ、尻尾から手を放したら撃ち殺すぞ、と身振りで言ってから、馬に鞭を当てて走らせた。馬が走る速さで走れるわけがない。馬に走り出されたらおしまいだと思って、必死に両足を突っ張って、馬が走り出せないようにした。馬との力較べだった。

 そんな呉さんのおかしな姿を見て、回りにいたソ連兵がどっと喝采した。その時は本当に、手を放したら殺されると思った。実際、行軍中に撃ち殺された捕虜兵士もいたから、必死だった。

 捕虜兵士が殺されたときのいきさつはこうだった。行軍中は昼間に一日一回、2時間ほどの休みをくれた。お粥や黒パンを載せた馬車が回ってきて、捕虜にも食糧をくれた。輪になって休んでいると、馬に乗ったソ連軍将校がやってきた。休んでいる捕虜に気づくと、語気荒く何か叫んで、突然ピストルを取り出して撃った。弾は呉さんの近くにいた戦友の肩から胸を貫き、彼は即死した。多分、捕虜たちが勝手に休んでいると勘違いして、怒って撃ったのだろう。

 呉さんにとって、ソ連軍を見るのは、生まれて初めてだった。それは、規律の厳格な日本軍だけを見てきた人にとっては、軍隊というよりはむしろ、農民の集団のようであった。

 年寄りがいるかと思えば、15歳ぐらいの少年もいたし、女性も交じっていた。軍服も、空色、緑色などまちまちで揃っておらず、動作の様子からみても、規律などはありそうもなかった。道ばたで寝入っている者もいたし、若い女性兵士とダンスに余念がない者もいた。こんな規律のない軍隊と戦って、なぜ日本軍が負けたのか、不思議なくらいだった。

 行軍は8月20日に、チャラントン(札蘭屯)に到着したところで終わった。捕虜になってから6日間で250キロほどを歩かされた。ハイラルで退却が始まってから、11日間で400キロを歩いたことになる。チャラントンはハイラルとハルピンの中間にあり、中ソ国境からハルピンに向かう鉄道が通っている。そこでは、付近一帯で捕虜にされた日本兵が武装解除され、もとの満鉄(南満州鉄道)官舎に集められていた。

 呉さんはそこで、他の負傷兵と一緒に、一つの部屋に入れられて、傷の治療を受けることになった。しかし治療とは、赤チンキを塗るだけだった。食事も、小さな空き缶に半分ほどの高梁のお粥を一日2回もらうだけだったから、傷は直らず、腐り出して悪臭を放った。それでも、痛みはあまり感じなかった。

 呉さんたちは、チャラントンで日本の降伏を知った。その知らせを聞いても、日本人の兵士たちは意外に朗らかだった。負けて悔しいという表情の人はいなかった。戦争が終わってほっとしたという感じだった。

 日本人たちは「降伏」「敗戦」といった言葉は使わず、「停戦」「休戦」と言っていた。「その言葉は私には奇妙に聞こえましたが、言葉をぼかすことで精神的な安定を保っているようにも見えました。日本では今も『敗戦』ではなく『終戦』と言っているそうですが、日本人の精神構造は50年前と変わっていないということなのでしょうか」。

 朝鮮が独立することになった、という話もそこで聞いた。呉さんは、その言葉の意味を病床で静かに考えていくうちに、涙が出て止まらなくなった。うれしかった。故郷に帰って、独立した祖国に行くことを夢見た。

 だが、運命は夢のようには運ばなかった。呉さんの行く先は故郷ではなく、逆方向のシベリアだった。チャラントンで20日過ごした後、9月10日に他の負傷兵たちとともに貨車に乗せられて、シベリアのチタに向かった。呉さんら関東軍の兵士には、3年半のシベリア抑留生活が待っていたのだった。

 (続く)

 

 


 

田中宇の「日本人」シリーズ

もうひとつの「日本人」(1)敗戦6日前の出征

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