もうひとつの「日本人」(1)敗戦6日前の出征

1999年3月24日  田中 宇


 くすんだ緑色の客車が7両ほど連なって、大きな蒸気機関車に引かれながら、時速50キロぐらいのゆっくりとしたスピードで、中国北部、黒竜江省の農村地帯を走っている。

 季節は6月。梅雨の日本と異なり、中国北部の6月は暑く、真夏に近い。だが直射日光は強いものの、湿度が低いので、それほど過ごしにくくはない。列車の窓の外には、ゆるやかに続く丘の連なり。その間を、川がゆっくりと蛇行しながら流れている。

 川の両側の平野には、若い緑色に稲が育ちつつある田んぼ。夏の強い日差しがおいしい米作りに適しているとかで、このあたりの米は北京にまで運ばれて消費される。経済発展の影響で、金をかけても美味しいものを食べたいという人が増えており、人気を呼んでいるのだそうだ。

 周辺の丘には、とうもろこしや大豆、麦などの畑が広がっている。景色のスケールは北海道よりも雄大で、まさに大陸という感じだ。ところどころに村があり、土壁を塗った質素な家並みが見える。

 その中を単線の線路がゆるいカーブを描きながら南へと続き、私が乗っている列車は、その上を走っている。窓の外の景色が、ゆっくりと変化していく。

 この列車は、黒竜江省の牡丹江市から、吉林省・延辺朝鮮族自治区の図們市に向かっている。図們市は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との国境の町で、図們周辺の延辺自治州には、多くの朝鮮族が住んでいる。

 乗客全員がちょうど座れるぐらいの混みぐあいの車内では、中国語の会話だけでなく、朝鮮語で話している人もちらほらといる。乗客の3割程度が朝鮮族、残りが漢族(漢民族)というところ。

 斜め向かいに座っていた若いカップルは、恋人どうしらしく朝鮮語でひそひそと話しながら、持参した何本かの太いキュウリにからし味噌をつけて、バリバリとおいしそうに食べ続けている。

 女性は地味な茶系統のワンピース、男は水色のカッターシャツに灰色のズボン。周りの人々も皆、地味な格好をしている。見るからに田舎の人々という感じだが、車内にはのどかな雰囲気が漂っている。北京や上海など大都市の人々のような、ぎすぎすした雰囲気は全くない。

●中国の朝鮮族は「日本支配の申し子」

 「朝鮮族」「漢族」など、中国語でいう「○○族」は、日本語でいうと「○○系中国人」にあたる。朝鮮族は「朝鮮系中国人」と呼ぶべき人々で、民族としては朝鮮人だが、国籍は中国である。

 日本国籍をほとんど取得できない(したくない)ため、次第に朝鮮語が話せる人が減っているにもかかわらず、韓国・朝鮮籍にとどまったままになっている日本の「在日朝鮮人」とは異なる存在だ。むしろ「日系アメリカ人」(民族は日本人だが国籍はアメリカ)という時のカテゴリーに近い。(ここでは日本での一般的表記にしたがって「朝鮮族」と呼ぶ)

 朝鮮族は、中国の少数民族としては2番目に人口が多く、東三省(旧満州地方。黒竜江省、吉林省、遼寧省の3省)を中心に住んでいる。朝鮮族は若い人でも朝鮮語を話し、ほとんどが朝鮮語と中国語(北京語)のバイリンガルだ。

 ちなみに中国では、朝鮮族だけでなく、他の中国の少数民族、それから日常会話では広東語を話す広東省、上海語を話す上海市周辺の人々などは、みな北京語も話せるバイリンガルである。

 東三省に朝鮮族が多い理由は、日本がこのあたりを支配していたころの歴史にさかのぼる。日本は、朝鮮を植民地にした1908年前後から、朝鮮人を東三省(満州)に移民するよう仕向けたのだった。

 植民地になった後の朝鮮では、土地の登記制度を確立するという名目で朝鮮総督府が実施した土地調査事業などを通じ、多くの農民が日本人に土地を奪われた。

 総督府は食うにも困る状態になった人々に対し「満州に行けば肥沃な土地がある」と宣伝し、移民を奨励した。朝鮮北部に住んでいた人々は満州へ渡り、そこに戦後も住み続けて中国の朝鮮族となり、南部に住んでいた人々は日本に渡り、戦後は在日朝鮮人となった。

 日本が朝鮮人の満州移民を奨励したのは、満州における日本の勢力を拡大するためだった。植民地となった朝鮮の人々は、日本人の一部として扱われていたから、満州に朝鮮人が増えることは、それだけ満州における日本の発言力が増えることになった。

●歴史の奥深さを感じる開拓民鉄道

 朝鮮が植民地になった最初のころは、満州への移民は朝鮮北部からの人が多かったが、1932年(昭和7年)に日本が満州国を設立し、満州での植民活動を本格化するころになると、朝鮮南部の人々も日本方面だけでなく、満州にも移民するようになった。

 後で移民してきた人々ほど、北部満州に入植していったので、この沿線では、南の延辺州には北部朝鮮から移ってきた人が多い一方、北の牡丹江や、さらに北のジャムス(佳木斯)などの地域では、戦後は韓国となった朝鮮南部から移住してきた人が多くなるという分布状態が生じた。

 延辺と北朝鮮との間では親戚訪問が盛んなことは知られているが、最近では、韓国から牡丹江に親戚訪問にやってくる人も増えているらしい。そのためか、牡丹江に滞在していた2日間に、私は何回か韓国人と間違われた。

 夜、ホテルの部屋には「ヨボセヨ(もしもし)。マッサージ何とかかんとか」と女性の声で話す朝鮮語の電話がかかってきたりした。親戚訪問をした帰りに「マッサージ」以上のことをして帰っていく韓国人のおじさんも、多いのかもしれない。

 私が乗った列車が走っているこの鉄道も、満州国を建国した3年後の1935年(昭和10年)に、日本が建設したものだ。この鉄道は当時、日本から朝鮮を抜けて満州東北部に向かう最短ルートで、朝鮮国境の町、図們から中国(満州)領内に入り、牡丹江を経由して、ソ連国境近くののジャムスまで続いていた。

 牡丹江は、ロシアがシベリア鉄道の短縮線として作った東清鉄道と、この鉄道が交差する場所に作られた町である。中国人(漢族、満州族)の乗客に混じって、多くの日本人と朝鮮人が、この鉄道を北に向かう列車に乗り、北満の開拓地に向かったのだった。

 戦後は、朝鮮の南北対立や北朝鮮の鎖国状態により、日本からこのあたりにくるには、遠く北京や大連から長春やハルピンを経由しなければならず、この鉄道は幹線ルートから外れたローカル線になっている。

 そのため、近代化が進む中国の鉄道の中でも設備は古いままで、今でも蒸気機関車しか走っていない。動輪が五軸ある、日本のD51より一回り大きな機関車がゆうゆうと走り、マニアが見たら驚喜しそうだ。

 両端の町の名前をとって「牡図線」と呼ばれるこの鉄道を直通で走るのは、一日に一本のこの急行列車(直快)だけで、両側の町からそれぞれ毎日何本か出ている各駅停車は、いずれも途中の駅までしか行かない。急行列車といっても、牡丹江・図們間の250キロを、6時間半かけて走るもので、速度はもしかすると、満州国時代とほとんど同じかも知れない。

 それだけに、車窓から景色を眺めていると、自分が戦前の満州にいるような気になってくる。私のような年頃の日本人が、開拓団や満州でひと旗挙げようと、この列車に乗っていたのではないかと思うと、歴史の奥深さのようなものを感じ、不思議な気持ちになる。

 とはいえ「戦前の日本人が満州でやったことなど、全て悪いことばかりだ」と考えるように教育されてきた戦後世代の一人である私にとっては、満州国時代へのノスタルジーを抱くことは、少しやましさを感じることでもあった。

●日本が夜も支配していたのはトーチカから見える範囲だけ

 私がこの列車に乗っていたのは1995年6月のことで、朝鮮族の呉雄根さん、日本でフリーカメラマンをしている京都在住の中山和弘さんとともに、三人で旅行していた。(呉さんの名前の読み方は、朝鮮語では「オ・ユングン」、北京語では「ウー・ションケン」)

 呉雄根さんは、この鉄道の沿線で図們市に近い、石ケン(「ケン」は「山」偏に「見」)という町で生まれ育った。1925年(大正14年)生まれ、73歳になる呉さんが小さいころ、この地域では日本の勢力が増していき、呉さんが7歳の時に満州国が作られた。小学校では日本語の教育を受け、延辺の中学卒業後、東京の高等中学校に一年間留学した経験もある呉さんは、流暢な日本語を話す。

 呉さんは東京への留学から延辺に戻った後、1945年の終戦直前に関東軍(満州派遣日本軍)に徴兵され、ソ満国境を越えて侵攻してきたソ連軍との戦闘に巻き込まれた。

 そこで九死に一生を得たものの、捕虜となり、そのままシベリアに抑留されて3年間を過ごし、1948年に延辺に帰国した経験を持つ。呉さんのように、終戦直前に関東軍に徴兵され、戦後はシベリア抑留された朝鮮族が、延辺周辺には今も多く住んでいるという。

 その話を日本で伝え聞いた私は、会社から休みをもらい、中山カメラマンとともに、今は北京の近くの河北省保定市に住んでいる呉さんのもとを訪れた。そのまま呉さんが延辺まで案内してくれることになり、こうして列車に乗って延辺に向かっているのだった。

 私の向かいに座り、窓の外をながめ続けていた呉さんは、列車が小さな川を渡るとき、私の肘をつつき、「鉄橋の近くの土手に、コンクリートの建物が見えるでしょう。あれは抗日パルチザンから橋を守るために日本軍が作ったトーチカです」と教えてくれた。

 トーチカというのは、レンガや厚いコンクリートでまわりを固めた小さな部屋で、中で兵士が見張りをしていた場所だ。パルチザンは中国共産党の下部組織で、日本の支配力をそぐため、夜の闇にまぎれて橋に爆薬を仕掛けて爆破してしまう。それを防ぐために、24時間体制の見張りが必要だった。

 呉さんに言われ、気をつけて見ていると、どの橋にも、川べりにトーチカが作られていた。日本が満州から撤退して50年以上たつというのに、歴史の風雪に耐え、今も当時の姿で残っている。はるかに昔のことだと思っていた日本の戦争が、急に身近なものに感じられた。

 呉さんは「満州事変の後、図們や石ケンには、警察署の役割もする日本の領事館の分館や支所が置かれたので、パルチザンはいませんでしたが、町から離れた場所は全て、夜はパルチザンが支配していたんです」と言う。

 1931年の満州事変は、日本がその2年後に満州国を作るきっかけとなった事件で、これを機に日本軍は満州各地を支配下に置いていった。だが、日本が夜も支配していたのは、トーチカから見える範囲だけだった。それだけ反日感情が強かったということだ。

 呉さんは石ケンから北へ1.5キロほど離れた新制村という村で生まれたが、その村でも、1933年9月のある夜にパルチザンがやってきて、地主や親日家だった2軒の村人の家が放火されたという。

 また、石ケンの近くにある「三道溝」という村は、かつて抗日ゲリラの拠点とされていたため、討伐を行うとの名目で関東軍が村を襲い、村の家並みに向けて機関銃掃射をして村人の多くを殺してしまったそうだ。

●日の丸に囲まれた悲しい離別

 図們までの道のりの半分ほどまできたあたりから、山岳地帯に入った。やがて列車は黒竜江省から、吉林省延辺自治朝鮮族州に入り、駅名の看板が中国語と朝鮮語の二カ国語表示になった。

 この地域は、昔から木材の産地だ。駅の貨物ヤードには原木が積み上げられ、日本でいうと長野県の木曽谷を走るJR中央西線の景色と似ている。このあたりの木材の一部は、呉さんの故郷である石ケンの大きな製紙工場に運ばれて、紙の原料となる。石ケンは製紙工場の企業城下町だ。

 製紙工場はもともと、1939年に日本の「東洋パルプ」という会社が作ったもので、中華人民共和国の建国後は、中国国営の工場となった。呉さんは、列車が石ケンに近づくにつれて、窓からじっと外の景色を見ながら、昔を懐かしんでいるようだった。

 列車はやがて山間を抜けて平野を走るようになる。延辺州の中心部に入ったのだ。石ケンに着く前、列車がスピードを落とし始めるあたりから、線路脇に製紙工場が見えてきた。工場は延々と続き、広大な敷地にいくつもの建て屋や煙突が並ぶ。

 設備はかなり古く、日本時代からの建物も残っているという。何本かある煙突のうち1本は日本が建てたもので、当時は遠くからでも見えたその煙突が、石ケンのシンボルになっていたそうだ。

 列車はゆっくりと石ケン駅のホームに入った。製紙工場への引き込み線や倉庫がある以外は、小さな駅舎があるだけの、意外にこじんまりとした駅だ。列車から降りてホームを歩きながら、呉さんは「あの駅舎は、私が徴兵されて出征するときと、ほとんど同じものです」と言った。

 「あの日、このホームには、私たち出征する兵士とその家族であふれていました。皆、小さな日の丸の旗をふっていました。私も、母と妹に見送られて、出征列車に乗り込んだんです」。

 呉さんは1945年8月9日、日本敗戦のわずか6日前に召集され、この駅からソ連国境近くの前線の町、ハイラルに送られ、そこでの戦闘で死にかけたのだった。

●兵士の数だけだった「天下無敵」

 関東軍が敗戦直前に満州に住む朝鮮人を徴兵したのは、軍上層部の決定により、1944年に、関東軍の主力が南洋の戦線に移動したことが背景にある。日本はそれまでは、ソ連の脅威に対応するため、関東軍に精鋭部隊を置き、人々からは「天下無敵の関東軍」と思われていた。

 だが軍部は、ソ連軍がドイツ軍との戦闘でソ連の西側に集中しており、太平洋側に攻めてくることはないと判断、英米との戦いで苦戦していた南洋方面に、関東軍の精鋭部隊を回すことにした。関東軍の主力は、満州や日本の一般の人々が知らないうちに、満州からいなくなっていた。

 だが、1945年になるとドイツが降伏し、日ソ中立条約も破棄され、ソ連軍が太平洋側に移動して満州を攻撃する可能性が強まった。そこで急きょ、45年7月から、朝鮮人を含む満州の一般市民を集めて、にわか仕立ての兵隊としたのだった。

 日本人では、それまで召集を受けずにいた高齢の予備役や、10代の学生、公務員として徴兵が免除されていた南満州鉄道(満鉄)の職員などが駆り出された。

 これにより関東軍の兵士数は78万人となり、「天下無敵」だった1939年ごろが約30万人だったのと比べ、数だけは増えた。だが武器は払底しており、飛行場の格納庫の中にあったのは、ソ連の偵察機の目をくらますための木製の実物大模型の戦闘機だった。

 こんな状態なので、頼れるのは人力しかなく、反日感情を持っている朝鮮人も徴兵することにした。朝鮮人に対する徴兵は、1942年に閣議決定されていたが、実施されるのはこれが最初で最後だった。呉さんら当時の朝鮮人青年にとっては、そのときちょうど徴兵年齢である20歳だったことが、不幸の始まりであった。

 召集の半年前、1944年秋に、徴兵対象となっていた呉さんらは、石ケンの小学校の校庭で軍事教練を受けた。小学校に集められたのは、44年に20歳になった「第1期生」、45年に20歳になる呉さんら「第2期生」、46年に20歳になる「第3期生」の朝鮮人で、合計30人ほどだった。木刀を銃に見立てて担ぎ、行進、駆け足、整列の仕方などを毎日、何回も繰り返したという。

 1944年10月、第1期生に徴兵がかけられた。12月には第2期生が徴兵され、身体検査の結果、呉さんは甲種合格となり、出征を待つ身となった。3期生は結局、日本の敗戦により徴兵されず、難を逃れた。

 召集直前の45年6月には、図們から西へ250キロほど離れた吉林省舒蘭県幕石にあった、関東軍の中央訓練所で、軍事訓練を受けた。訓練はまさに、日本軍の最下層兵士が何を耐えねばならないか、身をもって知るためのものだった。

 訓練の内容はここでも、駆け足や整列などの基本動作と精神教育だったが、あらゆる動作をきびきびとこなさないと、すぐに罵声やビンタが飛んできた。

 精神の時間には「日本は神の国だから、絶対に負けない」「日本には竹が多いので、米軍が上陸しても竹槍で勝てる」といった講義が続いた。反日感情の強い朝鮮人に対して、日本軍式の厳しい訓練を施すことで、従順な兵士をつくる目的があったのだろうが、効果はあったのだろうか。

 「日本は神の国とかいう話は信じませんでしたが、私も最後まで、日本が負けるとは思っていませんでした。関東軍は無敵だと信じていたんです」と呉さんは言っているので、潜在的な効果はあったのかも知れない。

●ソ連の侵攻も知らされず戦線へ

 1945年7月31日に訓練が終わり、呉さんらはいったん自宅に帰ったが、その翌日に召集令状が届いた。出発は8月9日だった。

 「その日から私の母親は、私のことが心配で、ほとんど眠れない夜が続いていたようでした」。すでに沖縄戦が始まっており、戦局が日本にとって不利なことは、誰の目にも明らかだった。

 出発の朝、呉さんは軍から支給された古着の軍服を着て、背中にはたすきをかけ、その間に日の丸を刺した。母親と妹に見送られて石ケン駅に向かったが、日頃から無口な母親は、いっそう言葉少なだった。

 駅では村の役人や製紙工場代表の日本人が挨拶し、出征兵士に金一封を渡す出征式を行った後、日の丸を振ったり、軍歌や万歳の声をあげている見送り人たちの間を抜け、到着した列車に乗り込んだ。母と妹は涙をふきながら手を振っていた。

 呉さんら10数人の朝鮮人新兵が石ケンから乗ったのは、朝鮮人新兵のための専用軍事列車で、1000人以上の朝鮮人初年兵が乗っていた。行き先は満州の西のはずれ、黒竜江省(現在)のハイラルだった。

 ハイラルは、ソ連との国境から200キロほど東に行ったところにあり、関東軍は以前から、大興安嶺と呼ばれるハイラルの東側の山脈地帯を、ソ連軍が攻めてきた時の抵抗線の一つとして考えていた。この時すでに、ソ連の侵攻に備えて山の中に陣地を建設中で、呉さんらもその工事に参加することになっていた。

 実は、呉さんが出征する前日の8月8日深夜、ソ連は日本に宣戦布告し、9日午前零時に、西、北、東の3方面から満州に侵攻し始めていた。石ケンはソ連国境から100キロも離れていない。

 8月9日朝、母や妹たちの見送りを受けて、呉さんが石ケン駅から軍用列車に乗った時、すでにソ連軍は国境を越えていたはずだが、石ケンや図們の町にはソ連軍が近づいていることを知らせる気配は全くなかったという。呉さんたちは何も知らずに、満州を東から西に横断して、ハイラルに向かったのだった。

 実は、呉さんだけでなく、日本軍の上層部も、ソ連の侵攻は実行されるまで、ほとんど察知できなかった。ドイツ降伏後、ソ連軍部隊が東に移動していることを現地からの情報として受け取っていたが、侵攻は早くても8月下旬と考えられていた。

 もうひとつの「日本人」(2)死の行軍 に続く





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