米国金融規制の暗雲2012年2月12日 田中 宇ドットフランク法は、米国で2010年7月に成立した金融規制強化の法律だ。世界不況を引き起こした08年秋のリーマンショックの金融危機後、バブルを膨張させて儲けてきた米金融界のやり方が危機の元凶だとする見方が広がり、米議会で金融規制の強化が検討され、1930年代の大恐慌以来の大規模な金融改革といわれる同法ができた。 (Dodd-Frank Wall Street Reform and Consumer Protection Act From Wikipedia) オバマ政権の金融顧問をつとめたポール・ボルカー元連銀議長や、米議会の議員らは、当局の規制を受けない債券金融システム(影の銀行システム)の肥大化が、大危機につながる金融バブルの拡大を招いたと考えた。新法には、店頭の相対取引で行われてきたために当局の監督を全く受けず、取引の全容も不明だったCDSやCDOといったデリバティブ取引を、取引所を新設して、そこでのみ取引を行うようにする改革が盛り込まれた。また、大銀行が自己勘定で取引を行って相場をつり上げてきたのをやめさせるため、銀行に自己勘定取引を禁止する「ボルカー規制」も新設された。 (Derivatives, Volcker Rule top 2012's new Dodd-Frank regulations) ドットフランク法が制定されて1年半がすぎた。新法は厳しい規制のはずだが、米国の債券市場は何の規制も受けていないかのように活況で、債券金融システムは隆々としている。米金融界はやや減益になったが、厳しい規制が行われているように見えない。不思議に思っていると、その理由がわかった。 ドットフランク法は制定されたものの、金融界の仕組みが複雑であるため詳細の決定に時間がかかり、具体的な法律の施行が遅れている。法律では400項目の規制が予定されているが、実際の規制が始まったのは4分の1以下の93項目にすぎない。同法の目玉であるボルカー規制も、まだ始まっていない。米金融界は、ドットフランク法の規制を嫌い、政治圧力を使って法律の実際の施行の時期を遅らせてきた。 (Dodd-Frank Progress Report February 2012) 金融界はドットフランク法の実際の施行を、永久に先送りできるわけでない。同法が発効した10年7月21日から2年後にあたる今年7月21日までに、ボルカー規制やデリバティブ取引所の新設などが行われねばならない。銀行の自己資本比率規制など他の項目についても、すべてが16年までに施行されねばならない。 (Has Dodd-Frank already gutted Wall Street? - The Washington Post) ▼最も打撃を受けるのはゴールドマン? 特に重要なのは、銀行に債券などの自己勘定取引を禁じたボルカー規制だ。この条項に対する金融界からの意見書の提出が2月13日に締め切られ、意見書を受けて米当局が具体的な法律の細目を2-3カ月以内に決定し、7月10日から施行する予定だ。金融界が恐れるボルカー規制が具現化するのは、これからである。 (A brighter view of banking under Volcker) 取引が、顧客の依頼によるものか、それとも自己勘定のものか、外部から見分けをつけるのが難しい。そのためボルカー規制は、自己勘定取引をしていない立証責任を、銀行側に負わせている。当局は「疑わしきは有罪」の姿勢で銀行界を取り締まれる。銀行は、疑われる行動をできるだけしないよう努めざるを得ない。米銀行の従来の自己勘定取引は、相場をつり上げる方向で行われることが多かったが、銀行は今後、相場をつり上げそうな取引そのものを減らすだろう。銀行自身でなく傘下のヘッジファンドが、銀行の意を受けて自己勘定取引をするので何も変わらないという指摘もあるが、ドットフランク法は、銀行がヘッジファンドや企業買収ファンドを保有することを禁じている。 (Attack on Volcker Rule Seen Exaggerating Cost of Disorder - BusinessWeek) JPモルガンは、ボルカー規制によって米銀行界は最大で46%の減益になると予測している。自己勘定取引を頻繁に行っている銀行ほど悪影響を受ける。最も頻繁に取引を行って、業界最大の利益を出してきたのはゴールドマンサックス(GS)だ。GSの経営者は先日、ボルカー規制で売買の利幅が縮小することを認めつつも、顧客もそれを理解しているので、顧客から受け取る手数料を増やすことで利益を確保できるとか、債券でなく株式で儲けるので大丈夫だとか言っている。 (Goldman Sachs might benefit from Volcker Rule) しかし現実を見ると、ボルカー規制がGSなど大銀行の収益に影響を与えないとは思えない。米銀行界は、利益が減ると予測されるからこそ、ドットフランク法やボルカー規制の施行を全力で遅らせてきた。簡単に損を顧客に押しつけられるのなら、政治力を使って法律の施行を遅らせる必要はない。債券の代わりに株で儲けるのも困難だ。GSの株取引の利益率は、4年前の30%から、最近は4%にまで落ちている。 (Volcker Stealing Goldman Sachs' Mojo: Analyst) GSやモルガンスタンレーといった投資銀行は、リーマンショックまで、連銀の強い監督を受ける「商業銀行」でなく、証券取引委員会からゆるい監督を受けるだけの「投資銀行」だった。リーマンショック後、連銀から資金援助を受けるため、潰れず存続していたGSとモルスタの投資銀行2行は、商業銀行に転換し、投資銀行という分野自体が消滅した。これは当時、連銀の支援を受けるための巧妙なやり方とされていたが、その後、商業銀行を対象にドットフランク法が施行され、投資銀行の代表的な儲け方だった自己勘定取引が禁止された。GSやモルスタが投資銀行を捨てたのは、今になって大失敗とわかった。 (Goodbye investment banks - September 22, 2008) ドットフランク法の施行によって、金融機関は儲からない産業になるという指摘が出ている。米大手銀行は従来、幹部に毎年何百万ドルもボーナスを払っていたが、今年からモルスタはボーナスの上限を12・5万ドルに制限した。銀行家の年収が下がり、著名大学を卒業したエリートはウォール街でなくシリコンバレーに行く傾向だという。ウォール街占拠運動など、金融界を敵視する市民運動が米国で流行し、政治家は人気取りのため厳しい金融規制を追求している。 (The End of Wall Street As They Knew It) JPモルガンの会長は「儲かるレバレッジ商品は消える」「融資は保守的なやり方に戻る」と述べている。これは、リーマンショック前の08年6月に英銀行協会の会長が述べていた「レバレッジを拡大して儲けるビジネスモデルは破綻した」「銀行は(昔ながらの)基本的な経営姿勢に戻る」という予測と合致している。JPモルガンは、旧チェースマンハッタンの商業銀行部門を持ち、投資銀行でない。大儲けしていた投資銀行部門の人々が馬鹿にしていた薄利で地味な預金と融資の業態を続け、何とか潰れずに生き残るかもしれない。 (米英金融革命の終わり) 米言論界で、ドットフランク法が米金融界に与える悪影響は少ないという説が多く出ている。米銀行が減益なのは新法の規制強化の影響でなく、ユーロ危機の影響だという見方もある。債券市場はかつてなく好調でジャンク債が良く売れ、倒産するはずの企業が債券で資金調達して延命している。米国の株価がこれから上がると予測する記事も目立つ。しかし、リーマンショックの時も、その少し前まで債券市場は活況で、金融危機を予測する人は空想屋扱いされていた。 (Why Wall Street Should Stop Whining) 今年は11月に米大統領選挙がある。米金融界の頼みの綱は、買収ファンドなど金融企業の経営を長くつとめた経歴を持つ、共和党のミット・ロムニーだ。ロムニーは、自分が当選したらドットフランク法を廃止すると表明し、金融界から多額の献金を集めた。08年の前回選挙時、金融界はオバマを支持したが、今回は5大銀行のうち4行の選挙活動委員会がロムニー支持に転向している。今後の選挙戦でオバマが不利になったら、オバマは7月に施行される前のドットフランク法の詳細に手を加えて金融界を有利にする抜け穴をたくさん作ってやり、ロムニーでなく自分を支持しろと金融界に要請するかもしれない。 (Big Banks Betting Romney Will Restore Business as Usual) ▼改革が金融システムを危険にするか? ドットフランク法の改革が米金融界にどの程度の影響を及ぼすかは、米国の金融関係者だけでなく、日本を含む世界中の人々にとって重要だ。その影響について、3段階の可能性がある。最も軽度なのは、米金融界も債券金融システムも大した影響を受けないというもの。中間的な2番目は、米金融界は大幅減益で大勢が解雇されるが、金融システムは無傷な場合だ。米当局は、この状態を予測してドットフランク法を施行した。 最重度の3つ目は、債券金融システムの流動性が低下してリーマン倒産直後のようなシステム的な取引の凍結(市場の崩壊)が起こり、債券金利が上昇し、金融界が大打撃を受けるだけでなく、リーマン後のような世界不況、ドル基軸制の危機が再燃する場合だ。1番目と2番目の場合なら、世界経済に対する悪影響が少ないが、3番目が起きると全世界が巻き込まれる。 3段階のシナリオのうちどれが現実になるのか、まだ予測し切れないが、金融界が経営危機になったら、金融システムも危機になると考えるのが自然だ。金融界は、ジャンク債の利回りを下げて倒産や大量解雇を防いで米経済の悪化防止に役立ったり、企業を財テクで儲けさせたりして、それらの利得の一部を金融界の儲けとしてきた。金融界だけ赤字になり、実体経済に影響が少ないという2番目の可能性は現実的でない。金融界の赤字化は、債券の利回り上昇による金融システムの破壊や、一般企業の業績悪化、実体経済の不況突入を意味する。 米議会は、米国債の売買を、ドットフランク法による規制の対象外にしている。銀行に米国債の売買を規制すると、売れ行きが悪化し、国債利回りの上昇という危険事態になる。米国債の例外扱いは、ドットフランクが金融システムに影響を与えると米当局が懸念していることを示している。米国債の例外扱いは、EUの金融監督の責任者が「なんで米国債だけ例外で、独仏などの国債は例外でないのか」と文句を言ったので問題になった。 (EU's Barnier expresses concern about Volcker rule) EU側は、ドットフランク法が事実上、米国だけでなく世界の金融界を規制しており、国際金融全体の流動性を悪化させ、世界経済に悪影響があると批判している。EUが懸念するのも、ドットフランクが金融システム全体に悪影響を与える点だ。同法やボルカー規制については、日本やカナダの当局も懸念を表明している。 (Volcker downplays risks to bond markets) ドットフランク法が金融システムを不安定化するという懸念は、説得力がある。同時に、金融システムを不安定にする法律を米当局が立案するはずがない、という考え方ももっともだ。しかし、過去の例を見ると、米当局が事態を不安定にする政策をするはずがない、という確信が揺らぎ出す。米当局は、リーマン倒産後、ドルと米国債の大増刷して金融界の不良債権を吸収する政策をとり、その結果、米政府は未曾有の財政赤字となり、ドルの基軸性に対する懸念が世界に広がっている。 米当局がすべての不良債権を背負ったにもかかわらず、影の銀行システムは、総額も曖昧なまま、巨額に存在している。一昨年にニューヨーク連銀が発表した報告書では、影の銀行システムの総残高が16兆ドルだったが、先日のロイターの記事では、総残高が60兆ドルとなっている。 (Q+A-What is shadow banking and why does it matter?) (影の銀行システムの行方) もし、私がイラク戦争以降に疑っているように、米国の戦略を決めているニューヨークの資本家群の中に、米国の経済覇権を潰し、世界のシステムを転換させようと狙っている人々(隠れ多極主義者)がいるとしたら、ドットフランク法は、米政府の楽観的な見通しを裏切り、債券金融システムを破壊するだろう。「米国の真の支配者は投資銀行だ」と、よく言われる。だからリーマン倒産直後、商業銀行への転換によって投資銀行が消滅したと小さく報じられた時、私は、それが非常に重要な話だと直感したが、どんな意味があるのかわからなかった。 その意味は、今ようやく見えてきた。リーマンを倒産させ、連銀や米政府にドルや米国債の過剰発行をさせ、米国の覇権を崩している勢力は、投資銀行を誘い込んで商業銀行に転換させた後、ドットフランクの金融改革の餌食にしていると考えられる。投資銀行は、米国の支配者でなく、支配者の道具だったことになる。多極型の世界に移行するにあたり、旧投資銀行は過去の遺物と見なされ、潰されていくのかもしれない。 しかし、動きはその方向だけでない。オバマは、間抜けだった前任のブッシュと違い、抜け目がない。オバマは、ブッシュ時代に敷かれた、米国の覇権を自滅させる路線に沿って流されることを、何とか防ごうとしているはずだ。彼が大統領に再任されたら、金融システムの崩壊が防がれ、あと5-6年かそれ以上、米国の覇権が延命するかもしれない。延命しているうちに、IT戦略のやり直しなど、米経済を再び強くする新しい策が出てくるかもしれない。これは、米国覇権の蘇生になる。 米国の覇権は自滅か延命か、はたまた蘇生か。米国は分岐点にいる感じだ。ドットフランク法の行方のほか、危機から立ち直りつつあるように見えるユーロの行方、中東大戦争が起きるのかどうか、グーグルなどネット諜報機関による人類監視システムが米国にもたらすものなど、米国の覇権を左右しそうないくつかの点を、今後も見ていくつもりだ。
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