覇権とインターネット2011年3月7日 田中 宇私は以前「資本の論理と帝国の論理」という記事を書いた。18世紀から20世紀にかけて、儲けの最大化という「資本の論理」に基づいて動く資本家は、産業革命を英国から全欧州、全世界へと拡大しようとしたが、大英帝国の恒久的な覇権の維持を目指す「帝国の理論」に基づく英国政府中枢の人々は、産業革命が世界に伝播しても英国の優位が変わらないよう、外交的な策略をめぐらし、それが今に続く世界の外交界のプロトコルの隠れた基盤となるとともに、この2つの論理の相克が崩れ、ドイツなどが英国をしのいで覇権国になりそうになった時、産業革命以来の経済発展をすべてリセットする(ための)2つの大戦が起きたのではないか、という仮説的な歴史分析を私は考えた。 (資本の論理と帝国の論理) 2つの大戦後、英国は覇権を米国に譲渡したが、その本質は、英国中枢の人々が、戦後間もなく米ソ冷戦を誘発することを通じ「軍産複合体」として米国の世界戦略の立案機能を乗っ取る行為であり、帝国の論理は「大英帝国」から「米英覇権」に転換しただけで、資本の論理と帝国の論理の相克は、今に至るまで続いている。英米の覇権の中枢にいる人々と、資本家群は、同じ集団であり、一つの集団の中で、資本と帝国の相克や暗闘または葛藤が起きている。 世界史の教科書には、英国の産業革命と、その世界への伝播について、自然に起きたことであるかのように描かれている。教科書を軽信する人々は、私の人為説を空想と思うだろう。しかし「自然に起きたこと」であるなら、工業や鉄道の技術を英国だけが保持し続けるよう英政府が努力した政策がもっと成果をあげ、英国の経済優位が長く続いたはずだ。現実には、英政府の保持努力は最初の数十年しかもたず、その後は英国の産業技術が全欧、全世界に拡大していった。それを見ると、今に至る産業革命の世界への伝播は、資本の論理が強く働いていることを感じる。 「産業革命」の歴史的な語義は、18-19世紀に起きた産業革命のみを指すが、中国やインドなどBRICや発展途上諸国の経済発展を見ると、現在まで200年間、産業革命の世界への伝播が延々と続いていることがわかる。そのため、私は「産業革命」を、現在まで続く世界の産業化の全体を指す言葉として使う。 私がなぜ今回の記事を、産業革命の世界伝播をめぐる相克から書き出したかというと、それは、1980年代から世界に普及したインターネットの登場と発展が、産業革命の一つであるからだ。インターネットの登場や発展が産業革命である以上、そこには資本と帝国の相克があるのではないか、と私は考えた。 先に結論的な仮説を書いておくと、ここ数年のインターネットの発展の産物であるソーシャルメディアの世界的普及によって、エジプトやサウジアラビアといった中東の重要な諸国の親米政権が倒されそうになっており、中東における米英覇権という「帝国」が自滅しようとしていることが、産業革命の伝播をめぐる資本と帝国の相克に関係しているのではないか、と私は考えている。 ▼産業革命としてのインターネット 産業革命を、現在まで続く発明と産業構造の転換による経済効率化として考えると、パソコンの開発と普及、それを前提としたインターネットの登場と拡大は、一般に「IT革命」(情報技術革命)と呼ばれているとおり、産業革命の一つである。IT革命はインターネットと関係ない部分もある。表計算、文書の作成・検索・管理、画像処理などは、ネットワークなしの単立のコンピューター内でも成り立ち、企業など経済活動の劇的な効率化をもたらしている。そこに、クライアント&サーバー型のサーバー共有システムから発展したネットワークが、さらに通信手順としてパケット通信のTCP/IPを使った「閉ざされた各ネットワーク間のネットワーク」として「インターネットワーク」(その短縮語が「インターネット」)へと発展し、それらが組み合わされてIT革命になっている。 インターネットの通信手順TCP/IPが開発されたのは、米国防総省傘下のコンピュータネットワークであるARPANET上だ。国防総省など政府機関や大学の閉ざされた複数のネットワークをつなぐためのシステムとして、商業利用を禁止したかたちで1970年代に開発された。米国が外部から軍事攻撃されても国防総省の国内ネットワークが寸断されないよう、複数の経路を確保するために、ランド研究所やMITといった歴史的に米軍に協力してきた研究機関も参加して開発された。米国と対照的に欧州では商業利用を前提としてX.25などの通信手順が開発されたが、冷戦が終結していく80年代に米国はTCP/IPの商業利用を容認し、83年に軍事部門がARPANETから分離され、92年に米議会が科学技術分野に限定した商業利用を認め、95年に米政府がインターネットのバックボーンに金を出すことをやめ、インターネットは完全民営化された。 (History of the Internet From Wikipedia) 95年は、マイクロソフトがウインドウズ95を出した年でもある。このOSが出たことで、パソコン(IBM PC互換機)がインターネットの端末として使いやすくなり、IBMPC(PC/AT)は初期の80年代からハードウェアの仕様が公開されていたため部品メーカーが急増してパソコンの価格が劇的に下がっていき、PCが世界的に普及し、インターネットやIT革命が世界的に広がった。同時に、米国などの株式市場でIT関連株の上場や値上がりが加速し「IT株バブル」の膨張が、2000年のバブル崩壊まで続いた。 技術的には、米国のARPANETがインターネットのTCP/IPを唯一の公式な通信手順と定めた1983年がインターネット革命の元年とされるが、産業的には95年あたりがIT革命の元年だろう。その後、最近に至るまで、IT革命という産業革命における「資本と帝国の相克」は起きなかった。米国はインターネットの中心である一方、ヤフー、マイクロソフト、アップル、IBM、シスコ、グーグル、フェイスブック、ツイッターに至るまで、IT系の主要企業は米国企業ばかりだった。アジア太平洋地域の全体のIPアドレスを管理する国際組織であるAPNICの本拠地はオーストラリアに置かれ、アングロサクソンの支配色が感じられる。 携帯電話を使ったインターネットの技術では、99年に日本のNTTドコモがiモードを開発して先駆者となったが、iモードは国際標準とならず、ドコモ(など日本)の携帯電話は、世界の進化から孤立したガラパゴス(諸島の珍奇な動物たち)的な哀れな存在とあざけられている。これは「NTTの官僚主義の弊害」とみなされているが、私が見るところそうではなく、日本は対米従属を続けたいので、世界のシステムを握る技術面の覇権(国際標準の運営権)も握りたくないうえ、戦後ずっと覇権を忌避するあまり技術覇権をとるために米英とどう話をつけていいかもわからない状態に自分たちを置いてきたからだ。日本が何らかの技術覇権を持ちたければ70年代から動いていたはずだが、実際には何もなされていない。日本はガラパゴスに向かう道を意図的に選択してきた。 インターネットをめぐる資本と帝国の相克が始まったように思えるのは、ここ数年間にソーシャルメディア(SNS)が世界的に普及し、それを使って米国やイスラエルなどの当局が、イランやウクライナ、ベラルーシなどの国々で、反米的な政権を転覆する市民運動に協力するようになってからのことだ。「ソーシャルメディア革命」「ツイッター革命」「カラー革命」などと名付けられた連続的な政権転覆の試みは、08年のイランでの反政府運動あたりまでは、米国(米イスラエル)が潰したい政権を潰すという覇権的(帝国的)な戦略であり、その時点では相克になっていなかった。 ▼ソーシャルメディア革命をめぐる相克 しかし今年、エジプトのムバラク政権という、米イスラエルにとって非常に重要な傀儡が、ソーシャルメディア革命で倒れ、次はこの革命がバーレーンからサウジアラビアにも波及しようとしている。サウジは、来週3月11日の「怒りの日」が一つのポイントだ。エジプト革命は、それに先立つチュニジア革命が伝播したものだが、チュニジアもエジプトも、バーレーンもサウジもヨルダンも、親米国であるだけに、シリアやイランなど米国に敵視されてきた諸国に比べ、インターネットに対する規制がはるかに弱く、ソーシャルメディアの利用者も多かった。 それが逆にあだとなり、ソーシャルメディアを活用した市民の政権転覆活動にいったん火がつくと急拡大し、チュニジアとエジプトは親米政権が潰れ、バーレーンとサウジとヨルダンは危機に陥っている。以前の記事に書いたように、これを「ブローバック」(作戦の結果起きた予期せぬ悪影響)と考えて軽視することもできる。教科書的には、そのような意味づけとなるだろう。 (ソーシャルメディア革命の裏側) だが、予期せぬブローバックであるなら、オバマ政権は、エジプトの市民運動によってムバラク大統領が失脚しそうになった時に、市民運動の側に立ってムバラクに譲歩を求めることはしなかったはずだ。オバマが市民運動の側に立ったので、ムバラクは辞任に追い込まれ、反米反イスラエルのムスリム同胞団がエジプトで台頭していく素地が作られた。同時に、バーレーンからサウジへと市民の政権転覆運動が伝播していく流れが作られた。これはブローバックでない。米政府が意図的に親米政権の転覆を支持しているとしか思えない動きだ。 以前の記事で、エジプト革命を主導した「4月6日運動」が、米当局と米企業が支援する国際組織「国際青年運動連盟」(AYM)に支援されていたことを書いた。AYM( <URL> )は、米政府の国務省や、ホワイトハウスで世界戦略を練る安全保障関係者、米国の世界戦略を立案する外交問題評議会(CFR)、グーグル、フェイスブック、米3大テレビ局、AT&T、ペプシコーラといった米国のメディア関係などの大企業が後援・関与し、ソーシャルメディアを活用する若者らの市民運動体を世界各国から招待して毎年会議を開いており、08年12月の第1回会議に、結成間もないエジプトの4月6日運動も呼ばれている。 (Google's Revolution Factory; Alliance of Youth Movements: Color Revolution 2.0) (ソーシャルメディア革命の裏側) AYMを「インターネットのソーシャルメディアを活用し、米当局の肝いりで、米国のIT関連などの企業が金を出し、発展途上諸国の市民を誘導し、反米政権を転覆して親米的な傀儡政権に交代させていく」という米国の戦略と考えると、それはインターネットを活用して資本と帝国が相克なく協調する戦略となる。 だが協調的なのは、この枠組みの段階までだ。枠組み論を越え、実際にどんな政権が転覆されていくかというと、それはエジプト、チュニジア、バーレーン、サウジ、ヨルダンといった国々の親米的な政権である。反米的なリビアのカダフィ政権も転覆されるかもしれないが、その前に内戦になり、米軍が介入したらイラクやアフガンと同様の占領の泥沼にはまり込む。 最初は米国の世界覇権を維持拡大するために起こされた戦略が、やっていくうちに米国の敵を強化し、米国を窮地に追い込む結果となるのは、イラクやアフガンに対する侵攻で経験済みだ。イラクもアフガンもパキスタンも、反米イスラム主義が強まっている。いずれエジプトもこれに加わるだろう。米国は、自滅的な同じことを、あちこち異なる地域を対象に何度も繰り返している。 ▼中国の先例をもとに中東イスラム主義化を考える 中東を反米イスラム主義の地域にすることが「資本と帝国の相克」であるなら、それは米国の資本家にとってどんな利益になるのか。ムスリム同胞団やハマスやイランの聖職者群が、高度経済成長の政策を実施できるのか。そうした可能性は非常に低いように、今は見える。 しかし、一足先の1970年代から資本と帝国の相克の対象となってきた中国を参考にすると、中東に関しても別の分析が見えてくる。中国と米国(米欧)の関係史は第二次大戦以来、まさに資本と帝国の相克だった。帝国の論理は、中国やロシアなどユーラシアの内陸部を支配しうる国々を封じ込めるか弱体化しておくことによって、ユーラシアの周縁にある米欧とその傀儡諸国が世界に対する影響力を維持できるという、地政学に基づいた冷戦型の敵対の構図を維持することを模索してきた。対照的に資本の論理は、政治的にもっと無節操で、中国に投資して経済発展させ、中国人を貧乏人から中産階級に引っ張り上げ、その消費力で世界経済を回しつつ儲けようというものだ。 戦後の当初、米国は国共合作を仲介し、中国に安定した政権を作って経済発展させようとした。これは資本の論理に基づく動きだ。国共内戦で共産党が勝って中華人民共和国が作られても、まだ米政府は毛沢東と国交を結ぼうとしていた。だが、その2年後に北朝鮮の金日成が引っかけられて朝鮮戦争が起こされるという帝国の論理に基づく動きがあり、米軍が鴨緑江近くまで攻め上がって中国を挑発して参戦させ、米中は敵同士となり、アジアに冷戦構造が定着した。 その後、1971年になると、米軍がゲリラ戦争の泥沼に陥ったベトナム戦争をうまく終わらせるためと称してニクソン訪中が企画され、米国と中国は劇的に和解した。これは資本の論理に基づく動きで、ニクソン訪中は、冷戦という帝国の論理に基づく地政学的な恒久対立の構図をぶち破る外交戦略上のクーデターだった。ニクソンは帝国の論理の側(70年代から英国の代わりに米国の世界戦略を牛耳るようになったイスラエル系勢力)からウォーターゲート事件を起こされるという反撃を受けて失脚したが、米中は1978年に正式に国交回復した。その翌年から、中国のトウ小平が改革開放政策を開始し、今に至る30年間の経済成長が始まった。中国は国際政治的にも台頭し、帝国の論理に基づく中国包囲網はしだいに弱まる方向にある。 中国をめぐるこの流れの中で、ニクソン訪中時の中国がどんな状態だったかを思い起こしてみると、とてもではないが、40年経ったら今の経済発展している中国になるとは誰も思わないような、政治的にも経済的にも無茶苦茶な国だった。ごりごりの社会主義で、まだ文化大革命の余韻が残り、広範な知識は疎まれ、みんな人民服を着て自転車に乗り、人々は粗野で貧しい労働者か農民ばかりだった。40年後の今、中国は、マスコミの言論統制はきつく、一党独裁ではあるものの、見事に経済成長し、都会人の生活様式は日本とさほど変わらなくなっている。 この中国の40年がかりの大転換と似たようなことが、今後の中東でも起きると考えることはできないだろうか。中東諸国は20世紀初頭のオスマントルコ帝国の解体以来、英国主導でいくつもの国に分断され、イスラエルという「くさび」も打ち込まれてアラブとユダヤが恒久的に対立する構図も作られ、リベラル(左翼)対イスラム主義、スンニ派対シーア派といった各種の対立の構図が焼き込まれ、政治はいつも不安定で、経済成長どころではない状態が続いてきた。米欧は中東諸国に対し「リベラル民主化すれば経済発展できるが、イスラム主義になったら貧困が恒久化する」という偏向した理論も植え付けた。 これらの既存の状況は、エジプト革命がサウジアラビアなどに拡大していくと、壊されていくだろう。反米イスラム主義が席巻するだろうが、米国は今後数年内に財政やドルの信用が破綻して覇権を失っていくだろうから、中東に対する米国の影響力は問題にならなくなり、中東諸国の政権が「反米」を掲げる必要もなくなる。 中東における米国の覇権が失われると、中東の混乱の元凶となってきたイスラエル国家の存在も失われていくだろう。ブッシュ政権以来の米国は、親イスラエルのふりをしつつイスラエルを潰そうとして、06年のレバノン戦争や今回のエジプト革命を誘発している。イスラエルは米国が自国をイランなどイスラム側と戦わせて潰そうとしていることを知っているようで、米国の画策に乗らず、戦争を起こさないようにしている。しかし今後、米国の覇権が失墜していくと、イスラエルをめぐる最終戦争がどこかの時点で起きるだろう。核戦争になるかもしれない。米国の資本家の多くはユダヤ人だが、かつての記事に書いたように、イスラエルの存亡をめぐる100年の暗闘は、本質的にユダヤ人内部のものである。 (イスラエルとロスチャイルドの百年戦争) イスラエル国民の中でも、中東やアフリカから移住してきた人々は、イスラエルが国家消失すると苦労するが、欧州からイスラエルに移住してきた欧州出身者のかなりの部分は、欧州の出身国や米国カナダとイスラエルの二重国籍を持ち、イスラエルが国家消失しても、もう片方の国に移り住めるようにしている。戦争でイスラエル国家が消失し、ユダヤ人たちが欧米に移住した後、中東はようやく安定する。その後の中東諸国が、経済発展できるかどうかは、中東の人々の資質にかかっているが、人民服を着て自転車に乗った粗野な労働者と農民ばかりの40年前の中国人が、こんなに経済発展できるとは思えなかったのだから、中東の人々も意外に経済発展できるだろう。アラブ人もペルシャ人も、歴史をさかのぼれば中国人に負けない商業民族である。経済発展の資質はあるはずだ。 ▼長城防火も資本と帝国の相克 米国の資本家は、ニクソン訪中の時点、もしくはもっとずっと前(たとえば米国が孫文をテコ入れした20世紀初め)から、中国を経済発展させようとしてきた。資本の論理に基づく動きは、数十年とか100年がかりである。ソーシャルメディアを使った世界民主化運動のブローバックのふりをしてエジプト革命を誘発する行為が、数十年先の中東の安定化と経済発展と、世界を安定化するための覇権構造のユーラシア包囲網型(米英中心型)から多極型への転換を目指したものであったとしても不思議でない。 中東諸国は、先行して経済発展する中国から、かなりの恩恵を受けることができる。たとえばイランは、すでに中国からかなり恩恵を受けている。米欧日がイランを経済制裁して撤退した穴を中国の企業が埋め、石油ガスの採掘から地下鉄や道路の建設、ソーシャルメディア革命のイランへの波及を食い止めるインターネットの国策ファイアーウォール(長城防火)などを中国から輸入している。 (グーグルと中国) 長城防火について言うと、これも「資本と帝国の相克」の一つだ。中国がインターネットに参加したのは比較的遅く、中国政府は1991年に北京の精華大学を国際的なTCP/IPのネットワークに参加させた。その後、精華大学を中心に中国独自のインターネット技術が推進され、国家的にパソコンやインターネットの商業利用が奨励される一方で、紅旗リナックスや長城防火が国策的に開発された。中国がインターネットを活用することは、中国の経済発展を促進し、資本の論理にかなっている。帝国の論理だと、中国の台頭は脅威の拡大であり、中国を潰すためにソーシャルメディアを使ったジャスミン革命を誘発したいところだが、中国政府は長城防火を用意して米欧からのネット経由の政権転覆策を阻止している。おそらく中国のジャスミン革命は尻すぼみになり、資本の論理が優勢を維持するだろう。資本の論理は、中国の台頭を誘発したい「隠れ多極主義」と同じものである。
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